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131 マカオ今昔 その1
2014年2月4日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。
しばらく前のことになりますが、妻と共に久しぶりにマカオに行きました。私がよく知っていたマカオは1970年代半ばのマカオでしたので、それから40年近く経ってしまったあの街の変容ぶりには心の底から驚嘆しました。

そう言えば、このサイトの会員連載エッセイを書いておられる橋場さんが、たしか何年か前にマカオに住んで、大学に通っておられたと思いますし、西村さんだって、私とほぼ同じ時代に香港に住んでおられたわけですから、お二人とも、きっとマカオとはかなりのご縁をお持ちのことだと思い当たり、そのこともあってこの記事を書かせていただくことにしました。

マカオの歴史のおさらいも含めて書きますので、かなり長くなりそうですので、何回かに分けさせていただきます。これは「その1」になります。

私は、1971年10月から1976年1月までの数年間、妻と共に香港に住んで仕事をしておりましたので、香港は今でも特別な街です。普段はすっかり忘れている広東語が、エアポート・エクスプレスで市内中心に到着すると、不思議なことに、どんどん頭の中に蘇ってくるのを感じます。あの空気とニオイと騒音が、そうさせるのでしょうか?

香港を離れて、その後、当時勤めていた会社を退職して家業に就いてからも、香港には毎年1〜2回は出かけておりましたので、変化の激しい街ですが、香港に関しては、私の頭の中は、それなりにアップデートされていました。

ところが、香港から南西方向、約70キロの所にあるマカオ (Macau) には久しく出かけておりませんでした。最後に行ったのは1975年11月でしたから、40年近く足を踏み入れていなかったのです。

マカオは、旧ポルトガル領で、現在は香港と同様に中国の特別行政区となっている所です。毎年11月には、マカオ・グランプリというカーレースが開催され、当時の仕事上、私は毎年そこに駆り出されて数日間を過ごしていました。(当時、私は香港にあったセイコーの現地法人に勤めていました。マカオ・グランプリの計時はセイコーが請け負っていたのです。)

マカオ・グランプリは、現在では世界的にも認められているようなグランプリ・レース(F1グランプリとは違うようですが)になったようですが、1970年代は、まったくの草レースと言ってよい状態でした。香港で私が乗っていた小さな中古車(フォード・エスコートという車種でした)の修理を頼んでいた、香港島・コーズウェイベイにあった自動車屋のオヤジさん本人が出場しているようなレベルでしたから。

もちろん当時からマカオにおけるカジノの存在は有名でしたが、当時は大きなカジノと言えば、ホテル・リスボアくらいなもので、あとは古い歴史を持つ、鄙びた漁村といった風情でした。

食べ物はポルトガル料理もあることはありましたが、名物はなんと言っても広東料理でした。とりわけ「咸魚(ハムユ)」という干し魚が名産でした。魚のヒラキの一種なのですが、これが日本の「くさや」的なもので、臭いのですが、食べ方を知るとまことにおいしいのです。香港のハムユよりは肉厚で、基本的に魚が苦手な私も、あれはおいしいと思っていました。

マカオは香港から高速フェリーで約1時間で行きます。昔(1970年代)は、いかにも水中翼船といった風情の小型フェリーで、波を突っ切って走るという感触がありましたが、今回乗ったフェリーは、高速なのですが、至って静かで、所要時間は同じなのですが,水中翼船的な振動はありませんでした。はるかに大型になっていたのです。

今回、このマカオ紀行を書こうと思ったのは、そのマカオの変貌ぶりのあまりのすさまじさが主たる理由です。面積で言いますと、香港の1,104平方キロに対して、マカオはたったの28平方キロです。私の住んでいる田舎の市でも総面積は82平方キロありますから、ほぼその1/3くらい。豆粒ほどの地域です。ちなみに人口は約60万人。香港の1/10程度です。

蛇足ですが、香港の10%程度の人口が、香港の2.5%程度の面積に住んでいるわけですから、人口密度たるや、それはたいへんなものです。60万人が28平方キロですから、1平方キロ当たりの人口は2万1千余人! マカオから高速フェリーで香港に帰った時、あの過密都市、香港がとても落ち着いて見えたのは単なる錯覚ではなかったのです。広大なアメリカで暮らしておられた橋場さんは、どうやってあの過密ぶりに順応されたのか、機会があったら是非お聞きしたいと思っているくらいです。

マカオは中国本土から突き出たマカオ半島と沖合の島(もともとは、タイパ島とコロアネ島という2つの島がありましたが、埋め立てによりこの2つは現在は繋がっています)からなり、半島部と島部は、3本の橋によってつながり、「恐るべき」と言いたくなるような巨大カジノ・シティが現出しています。

今や、ラスベガスを抜いて、やりとりされる金額が世界最大になったこのカジノ・シティにつきましては、これから書かせていただきますが、ともかく久々に訪れた妻と私は、想像をはるかに超えたマカオの変貌ぶりにまったく肝をつぶしました。

マカオの変貌ぶりをご理解いただくために、まずはマカオの歴史的背景についてちょっとおしゃべりさせていただきます。

マカオは中国語で「澳門」と書き、広東語ではそれを「オウムン」と発音します。「澳」とは、水が奥深く入り込んだ湾や入り江のことでして、「門」は入口です。つまり「湾の入り口」という意味です。

歴史的に見ますと、1513年(日本の戦国時代)に、当時世界有数の海洋大国として世界中に覇権を誇っていたポルトガル人がマカオに渡来して、中国の明王朝との交易を開始したことがマカオの貿易港としての発展の始まりでした。

その後、1557年にポルトガルは明から居留権を獲得し、マカオは中国大陸における最初のヨーロッパ人居留地となりました。ただし、この時期はマカオの領有権はあくまでも明にあり、明王朝はポルトガル人の居留を許したものの、マカオには自国の税関を設置し、主権は明が持っていました。

日本に渡来し、大きな影響を与えた、イエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルも、ポルトガル政府の支援の下で、マカオを拠点にして東南アジア各地でキリスト教の布教活動を行っていました。彼が日本に渡来したのは1549年のことですので、ほぼこの時代です。

その後280年以上経過した1842年、大英帝国が帝国主義的侵略戦争「アヘン戦争」で清国に勝利して、香港島を植民地化すると、ポルトガルもそれに便乗して、1845年に「マカオ自由港」の成立を宣言し、清の税関吏を追い出しました。同時にポルトガル軍がタイパ島とコロアネ島を占領し、現在のマカオ地域を実質的に植民地化する準備に入っていきました。最終的には1887年(明治20年)、ポルトガルが、ますます弱体化していた清朝に圧力をかけてマカオの統治権を獲得し、おおっぴらに植民地としたのです。

でもその後は大英帝国の発展と共に、天然の良港としての条件に恵まれた香港に比べて、マカオの貿易港としてのポジションは低下していきました。マカオは珠江の河口にあるため、珠江が運んでくる大量の土砂が堆積しやすい位置にあります。香港からマカオに向かうと、香港では青かった海の色が途中から泥色に変わることに気がつきます。珠江の土砂が原因です。そのため、港に大型の船舶が入港しにくくなるのです。産業革命を経て船舶の大型化が進むにつれ、これは大きなハンディとなりました。さらにイギリスに比べて、ポルトガルの国力が凋落していったことも衰退の原因になったことでしょう。

でも「塞翁が馬」という言葉がありますが、長い目で見ると何が幸いして、何が災いをもたらすか、わからないものです。その後、清朝に代わって中国大陸を支配した中華民国と日本との間に起きた日中戦争の間は、両国と国交を持ち中立的立場にあったポルトガル領であったことから、マカオは戦火とはほど遠い、中国大陸では稀少な存在となりました。

さらにまた、1941年に勃発した太平洋戦争を通じて、東南アジアにある欧米諸国の植民地のほとんどを武力で占領した日本も、ポルトガルの植民地、マカオには手をつけませんでしたので、戦争中もマカオは中立港として機能し続けました。このため、戦禍を逃れようとした大量の難民が中国大陸から流れ込みました。大陸から侵攻した日本軍が占領して強圧的な軍政を敷いて、人口が激減した香港とは対象的でした。

長くなりますので、戦後から中国返還への歴史は次回に譲ることにしますが、上の写真をご紹介させていただきます。

上段は、香港とマカオを結ぶ高速フェリーです。所要時間はちょうど1時間ですが、一応、香港とマカオの出入りにはパスポートが必要で、出入国カードもそれぞれに書かされます。

中段は、マカオの観光名所のひとつ、聖パウロ天主堂の壁です。1600年代に建てられたものの、1835年の火災により教会本体は焼失しましたが、このファサードだけが残ったものです。今回訪れた時、ここだけは40年の時を経てもすぐにわかりました。

下段は聖パウロ天主堂の近くにあるポルトガルが築いた要塞です。ほとんど平地であるマカオでは、こうした高台は稀少なため、ポルトガルが軍事拠点としたのだと思います。さびた大きな大砲が海の方向を向いていました。

それでは続きは次回に書かせていただきますね。
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