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海軍出身 |
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2012年2月7日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ 私の父。1946年2月11日撮影。 |
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▲ 母方の祖父。1941年11月1日撮影。
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前回、父の手紙を通して、人間魚雷の訓練を受けた経験をこの場で紹介しました。彼のような体験をした若者が全部でいったい何人いたのかわかりませんが、思わぬところで、そのうちの1人に会ったことがあるのです。12年半前に、南米のボリビアで。武田健司さんという方です。
ボリビアへは第二次大戦後に政府計画で大勢の移民が沖縄と日本本土からに渡り、ブラジルと国境を境にする低地のサンタクルス県に入植しました。が、ボリビアの土を日本人が初めて踏んだのは、1898年です。1998年にはボリビア日系移民百周年記念祭典がサンタクルス市で盛大に行われました。その祭典実行委員長を務めたのが武田さんでした。お話を伺ったのは、その翌年の1999年でした。
武田さんは横須賀の武山海兵団の特攻隊に、「だれかが日本を守らなければならないという、単純な動機で」志願したそうです。そのときは拓殖大学の学生でした。私の父が横須賀で訓練を受けたというのは、その武山海兵団でしょう。武田さんと同じグループに、京大出身の幡多という男がいて、「日本は負ける」とはっきり言い切ったとか。 「あのころ、腹の中では日本は負けるなどと思っていても、口に出せるのは千人、いや1万人に1人もいなかった。幡多は立派な男です。あの男のことは絶対忘れられません」 武田さん自身は、日本が戦争に勝つとは思わなかったそうですが、負けるとも思わなかったとか。ただ夢中だったのでしょうね。武田さんは近眼だったので、潜水艦に乗ることからははずされ、そのまま敗戦を迎えました。 「負けたと知ったときは、悲しかったです。でも、ホッとしたのも事実ですね」 やっぱり…
武田さんは日本海軍について、こんなことを教えてくれました。 「海軍とはおもしろいところでね、陸軍とは随分違いました。娑婆(しゃば)では見られなかった『大地』というアメリカの映画を見せてくれたりしたんです。休憩時間には音楽を流したのですが、それが軍歌とか軍艦マーチとかじゃなかったんです。シューベルトとかチャイコフスキーとかのクラシック音楽だったんですよ。それから、麻雀は禁止でしたが、ポーカーはオーケーでした」
それで謎が解けました。私が子どものころ、父がクラシック音楽を好んで聴いていたのを覚えているのですが、あとから考えると不思議でした。貧しい染め物職人の家に育った父は、クラシック音楽など聴くような環境にはいなかったからです。潜水艦に乗るための訓練中に、クラシック音楽をたくさん聴かされていたのですね。あれほど嫌っていた軍隊生活で、クラシック音楽に触れる機会をもらったのです。
敗戦から10年後、武田さんは日本海外協会連合会の現地での幹部職員としてボリビアに渡りました。政府による戦後移民計画が始まる前に、西川利通という個人が、サトウキビ栽培を目的とした移住計画を進めたのです。武田さんは、日本のために何かしたいといつも考えていたからでしょう。西川移民と呼ばれるその計画は失敗したのですが、武田さんはボリビアにとどまり、ボリビア人女性と結婚して、一生を遂げられました。
私の父は、というと、9月に兵役から解放されたものの、自宅のあった町全体が焼け野原で、家族は郊外に疎開していました。東京にいても、仕事も食べ物もなかったので、仙台の少し南にある船岡という町にいる親類のところに身を寄せたそうです。つい1ヵ月前まで死を覚悟していた父は、急に目的を失ってしまい、どうしたらいいのか途方に暮れたと言ったことがあります。(いまなら、20歳の青年が、自分の人生をどうしたらいいのかわからないというのは、むしろ普通ですよね。)
父を世話してくれた親類は、船岡の海軍病院(船岡海軍共済組合病院)で働いていましたが、「生きる目的を持つには、結婚して責任を持てばいい」と言って、お見合いをさせてやると言い出したのだそうです。相手は、船岡の海軍火薬廠長の娘で、海軍病院に看護婦として働いていました。そうして、病院の応接室で、2人はお見合いをしました。
「おまえの前でのろけるつもりじゃないけどね」と、父はニヤニヤするのが抑えきれないような顔をして、「こりゃぁいいって、思ったんだ。一目惚れしたんだよ」と、私に言ったものです。そうして父は結婚することにしました。相手は、私の母です。
「結婚とはどういうものか、なんていうことは全然考えないで結婚しちゃった」と、母は私に言ったことがあります。彼女には無言の圧力がかかっていたのかもしれません。船岡の海軍火薬廠は、平塚のそれより後にできたのですが、もっと大きくて、アジア最大の規模でした。祖父はその廠長になっていたのですから、作戦計画や戦闘には参加したことはなくても、敗戦後は公職追放になり、地位も収入源も失ってしまったのです。非常にまじめで、上に「バカ」がつくほど正直な人だっただけに、世渡りが下手で、娘が5人もいて、結婚しているのはそのうち1人だけで、自分の将来も危ういのに、娘たちの将来はいったいどうなるのだろうと、たいへんに心配していたようです。そんな父親の姿を見て、私の母は、早く結婚して安心させたいと思ったのかもしれません。
そうして2人は結婚して私が生まれたのですが、結婚は10年と続きませんでした。 「職人の息子と公務員の娘という組み合わせが、無理だったのだ」 と祖父がため息まじりに言ったことがあります。そうかもしれません。教育熱心だった祖父は、好きなお酒も子どもの前では飲まなかったそうです。父方の祖父はまったく逆で、いつもお酒臭くて教育には関心がなかった代わりに嫁教育には熱心だったらしく、ご飯の炊き方すら知らず、無口で愛嬌のない私の母には口やかましかった、と後から母から聞いたことがあります。まったく違った環境に育った母は、二十歳そこそこの若さでもあり、義父の攻撃をかわす術を持たなかったのでしょう。
離婚して、母は苦労はしても自分らしく生き、父は自分にピッタリの女性と再婚して幸せな家庭を築きました。
一番不運だったのは、母方の祖父です。山梨の大きな庄屋の一人息子で、医者になりたかったけれど、家が没落し、不運が重なって医学の勉強をすることができなくなり、海軍に入ったそうです。そこでコツコツと努力して平塚の火薬廠で昇進し、船岡では廠長の地位を得たのですが、敗戦ですべてを失い、それから立ち上がることができなかったのです。
一口に社会の歴史といっても、そこには個人1人1人の歴史がいっぱい詰まっているのを、武田さんや、父や、祖父の人生を通して、感じます。
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