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縁の下のバイオリン弾き
112 目玉焼き
2015年5月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 「ロッキー」のシルヴェスター・スタローン
エッグカップというものをごぞんじだろうか。ふつう小型のコップのような形をした陶器で足がついている。この中に半熟卵を立てて供する。だからカップとはいうものの、液体を入れるものではない。

食べるときにはスプーンで卵の頭のあたりに一撃をくれ、そこからてっぺんの殻をむく。むいたところからスプーンを入れて中の半熟卵をすくって食べる。

西洋料理の器ではあるが、実をいうとアメリカでもまず見かけない。こちらでは目玉焼きやゆで卵にくらべて半熟卵をあまり食べないのかもしれない。あるいは食べることは食べるけれど、こんな器を使うほど儀式張って食べるものではないのかもしれない。

これを先日骨董屋で買った。ちょうどその店が廃業するというので大安売りをしていたのだ。エッグカップがいくつか置いてあってどれも1ドルという。

なんでこんなものを買ったかというと、それにはわけがある。もう30年以上も前のことになるが、父親が送ってくれた日本の雑誌に阿川弘之の「井上成美(いのうえ・しげよし)」の一部がのっていた。

井上成美は最後の海軍大将だ。阿川弘之は「米内光政」とか「山本五十六」とかの海軍軍人の伝記を書き終えていた。私は海軍に興味があるわけではないが、一応そのことは知っていた。それで雑誌にのっている部分を読むと、たぶん戦後の貧しい時代のことなのだと思うが、井上成美が朝食をとる場面が書いてあった。

隣家の小さな女の子が垣根からのぞいていると、庭にテーブルをだして井上のおじさんが「エッグカップに立てたひとつの卵を大事そうに食べていた」と書いてある。

だいたい庭にテーブルをだして朝食をとる、というのが日本人離れしているし、エッグカップを使うというのもその時代のことを考えるとえらくハイカラなやり方だ。私はエッグカップというものを知識としてすでに知っていたが、これを読んで急にそのエッグカップにあこがれをいだいた。

ドイツに学んだ陸軍とちがって、日本の海軍はイギリスを範とした。食事も洋風だったという。井上はヨーロッパに留学した人だからエッグカップなんてものがごくふつうの食器として使われていたのだろう。

エッグカップにあこがれを抱いたといってもわざわざ買うほどのことではない。しかし心のどこかにカップに卵を立てて「大事そうに」食べてみたいという気持ちがあった。骨董屋でエッグカップを見てそのことを思い出し、むらむらとほしくなった。

実際にやってみるとエッグカップでたまごを食べるというのはかなりむずかしい。結局1度か2度やっただけでカップは戸棚にしまわれてしまった。

その女の子が「大事そうに」と表現したのはたまごがひとつだったからだろう。


「目玉焼き」という料理がありますね。あの名前は西洋から伝わったその料理にはじめて接したときの日本人のおどろきをよくあらわしている、と思う。

目玉焼きはたまごをふたつフライにしたものだ。二つあるたまごを両の目玉にたとえて目玉焼きといった。だからたまごがひとつだったら、同じ料理でも目玉焼きとはいわない(はずだ)。

江戸時代の末か、明治のはじめに目玉焼きをはじめて見た日本人には、たまごをふたつ使う、ということがたいへんなぜいたくに思われたのではないか、と私は想像している。

なぜといって、その頃たまごは高価なものだったからだ。江戸時代にはたまごは農村から都会に売りにくる「たまご売り」から買うもので、たまごひとつで「精がつく」ことを詠んだ川柳がいろいろある。つまり毎日食べる日常のものではなく、特別な日に食べるもの、あるいは病人が食べるものだった。

そばやうどんにたまごを落とすと「月見」とよばれる。たまごの黄身を月に、白身を雲に見立てた。たまごひとつが天にかがやくたったひとつの崇高な月に思われた。それぐらいたまごは貴重な食料だった。

その大事なたまごを惜しげもなく二つ焼いている。そんなぜいたくなことは昔の日本人はしたくともできなかったのだろう。だからあの料理を目玉焼きと呼ぶことは言外に罰当たりな浪費、という非難がこめられているという気がする。

黒澤明に「赤ひげ」という映画がある。気骨のある名医を演ずる三船敏郎が肥満の大名の病気を診察するのだが、「まず献立(こんだて)を」と要求する。大名が毎日何を食べているか調べる、というのだ。渡された献立の中に書いてあるぜいたくなものを惜しげもなく筆で消して行く中で、まっさきにたまごが消される。こんなぜいたくなものを毎日食べて運動もしないからふとるのだ、という。

これは映画だから何の証拠にもならないといわれればその通りだけど、昔たまごはぜいたくなものだった、という感じはよくあらわれている。

念のため原作の山本周五郎「赤ひげ診療譚」にもあたってみると、この場面はちゃんとあった。山本は1903年生まれだからたまごの価値についてはよく知っていただろう。

私がこどものころでさえその感覚は残っていた。「サザエさん」という新聞漫画に、彼女が「今日はたまごやき」「今日は目玉焼き」とたまご料理を出すと子供たちが「ワーッ」と大喜びする。しかし毎日それが続くので最後はげんなりしてしまう、というのがあった。それはサザエさんがあやまってたまごをたくさん割ってしまったからだ、という種明かしがあるのだが、たまご料理がこどもを感激させる様子は今では考えられないだろう。

その「サザエさん」がテレビになると、母親が緊縮財政を宣言し、「これからはぜいたくなものは許しませんよ」という場面で、「たとえばたまごなんか…」といっていた。

卵焼きという料理はたしかにたまごをいくつも使うけれど、あれはたまご3個分の卵焼きを5人で食べる、というようなものではなかっただろうか。ひとりに二切れ、というような。


それが今ではたまごほど安いものはない、というほどになった。もちろん値段の上下はあるが「物価の優等生」という評価は的を射ている、と思う。それでもたまごを一時に何個も食べる、ということはしないだろう。

19世紀アメリカに P.T.バーナム(1810−1891)という興行師がいた。バーナム・アンド・ベイリーというサーカスをつくって「地上最大のショー」と銘打った出し物を興行した。この人は大変な大食漢で朝食にベーコン1ポンド、たまごを1ダース食べた、と言われている。大ボラ吹きでもあったから、実際にその通りだったかどうかはわからないが、少なくともそれがエピソードとして記録されている、というぐらいにはそのことがみんなに信じられていた。

その大食漢ぶりがあきれられたとしても、たまごを1ダース食べるということが道徳的に非難されたようすはない。好きなんだったらいくら食べてもいいじゃないか、とでもいうかのようだ。

昔の日本でそんなことをしたら、みんなに後ろ指をさされたのではないかと思う。


「ショージ君の『料理大好き!』」という本がある。これは漫画家の東海林さだおさんがカメラマンと編集者と3人でいろいろな料理の作り方をまなぶ、というおもしろい本だ。

その中にオムレツの章がある。教えるのは日比谷の「メゾン・ド・フランス」のシェフ、菅原良一という人である。

「一人前卵は3個です。卵は一個ずつ別の容器にとってボウルに入れます」
「それはなぜですか」
「ボウルにどんどん割り入れていくと、万が一腐っているのがあったりすると全部おじゃんになっちゃうでしょう」
「なるほど」
「それからね、卵を一個割るでしょ。そしたら一個ずつ殻の中に指をいれて残っている中身をぬぐい出します。わたしたちみたいにたくさん作る場合は、この残っている量が馬鹿になりませんよ」

この本は1981年刊行だから30年ぐらい前だけれど、この箇所を読んで驚いた記憶がある。今こんなことをするシェフはいないだろう。割ったたまごの殻の中に残る量を心配するより、指をさしいれるということに嫌悪感を抱く方が普通になったからだ。「名シェフ」がこんなことを教える、というところにたまごを貴重なものとしてあつかっていた時代のなごりが見て取れる。


たまごはもっともありふれた食材として多種多様な料理法があるが、めずらしい食べ方が日本の「たまごかけごはん」だろう。

昔サンフランシスコで日本語を教えていたとき、生徒(成人)のひとりが日本に旅行した時の経験を話してくれた。

「旅館の朝食に生のたまごが出た。それがどうしても食べられなかった。僕は目玉焼きでも半熟ぐらいにして食べる。そんなに変わらないじゃないか、と自分を説得してみたが、冷たいたまごはどうしても受けつけなかった」

なるほどねえ、と私はそのとき思った。そんなことは考えたこともなかった。

「たまごかけごはん」はたしかに冷たいたまごを使うけれど、あれはあたたかいご飯にかけるからおいしいのだ。そのご飯がおいしいから、たまごもうまく食べられる。ご飯に特別の愛着がない西洋人がそのうまさを理解せず、ただただ冷たいたまごに違和感を抱く、というのも理解できる。いや西洋人だけではないかもしれない。アジア全域を見回してもあんなことをする国はないのではないだろうか。

シルヴェスター・スタローンの「ロッキー」には、彼が生たまごを何個もコップに割り入れて飲む有名な場面がある。しかしなぜ有名かといえば、そんなことをする人が普通いないからだ。アメリカではサルモネラ菌による食中毒をおそれることがはなはだしい。


「ショーグン」の作者として知られるジェームズ・クラベルの処女作に「キング・ラット」(1962)という小説がある。第二次世界大戦中、日本占領下のシンガポールの捕虜収容所の話だ。アメリカ、イギリス、オーストラリア兵が収容されている。ぎりぎり生存が可能な苛酷な情況で、生きるためにだれもが必死だ。

ニワトリ小屋から毎朝たまごをとってくる係にはだれもがなりたがり、その仕事についた捕虜はみなにうらやましがれた。というのもたまごは一週間にいっぺんしか食べられない貴重品で、毎日食べられるのは死期のせまった重病人だけだったのに、たまご収集係にはひそかにたまごをひとつ割って食べる楽しみがあったからだ。ところが本文のその描写には「食べる」ということばが使われず、「吸う(suck)」と書いてある。

この収集係にはたまごが冷たいなどということは論外のぜいたくな言い草だっただろう。命をつなぐためにはたまごぐらい貴重なものはないはずだ。でも、生たまごは「食べる」ものではなく、「吸う」ものだった。

その書き方に私は西洋人の生たまごに対する感じ方がよくあらわれていると思う。半熟のたまごならいくらどろどろでも「食べる」と書くだろうに、熱が加わっていないだけで「吸う」ものになってしまうのだ。


朝食に1ダースもたまごを食べる西洋人は日本人にとってはむちゃくちゃに見える。サルモネラ菌のことなど心配せずに生たまごを喜んで食べる日本人は西洋人からみたら命の危険をおかしている。ごくありふれた食材なのに、洋の東西でこれほど考え方が違うのは不思議であり、おもしろいと思う。
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