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ボーダーを越えて
167 今年もまた
2010年12月23日
雨宮 和子 雨宮 和子 [あめみや かずこ]

1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。ボリビアへの沖縄移民について調べたり書いたりしているが、配偶者のアボカド農園経営も手伝う何でも屋。家族は、配偶者、犬1匹、猫1匹、オウム1羽。
▲ エピフィラム。この花の命は短くて、うかうかしていると見逃してしまう。
あの日、ジョンソンさんのお宅からの帰り道、私は確かに急いでいたのです。夕方には来客がある。その前に料理を済ませて、居間を片付けておきたい。夕食の献立にはパルメザンチーズが必要だから、買って帰らなくちゃ… と、途中で食料品店に寄りました。

駐車場が混んでいなかったので、やれやれ。急ぎ足でお店の入り口近くにさしかかったところで、男の子を乗せた折りたたみ式乳母車を押しながらこちらに歩いて来る若いインド系の女性とふと目が合いました。するとその人は、さっとA4版ぐらいに切ったボール紙を胸の辺りに持ち上げました。紙には “I have lost my job”(私は失業してしまいました)に始まって4〜5行書いてあります。物乞いだ。とっさにそう思った私はチラッと斜めに見たまま足を止めず、「ノウ」と手を振って、スタスタお店の中に入ってしまいました。

えぇと、パルメザンチーズはどこかなぁ… 
と、チーズ売り場で目当てのチーズを探している私の頭の中に、いま見たばかりのボール紙がちらついてきます。
 I have lost my job…
その続きはなんて書いてあったのでしょう。ちゃんと読まなかったのが気になって仕方がありません。

失った職って、いったいなんだったのだろう。こぎれいな身なりをしていて、知的な感じのする人だったから、IT関係かもしれない。うちからそう遠くないところには IT企業がたくさんあって、若いインド系の技師たちが大勢働いています。いや、働いていました、と言うべきかもしれません。インド系人の住民が増え、リトル・インディアと呼ばれる一画には数軒のレストランと並んで大きなインド料理専門のスーパーマーケットもあり、インド風ベジタリアンの食事もできるようになっていて、私もときどき行ったのですが、今年の始めに倒産してしまいました。不況の嵐にさらされた結果かもしれません。

子ども連れのあの若い女性に、夫はいるのかしら… 夫も失業しちゃったのかしら… それともシングルマザーか… 

そんなことも書いてあったのかもしれません。書いてなくても、聞けば話してくれたかもしれません。まじめそうな様子だったから決して嘘をついてお金をだまし取るなんていうのではなかったでしょう。あんなふうに物乞いするなんてどんなにか自尊心が傷ついていることでしょうに、私は彼女を無視してさっさと通り過ぎてしまった… 私の冷たい態度に、彼女はますます傷ついてしまったかもしれません。自分の態度に居心地が悪くて、私は落ち着きません。

買うのはチーズだけだったので、私はすぐレジの列に並びました。 あの若い母親がまだ外にいたら声をかけようと思いながら。並んでいる間にも彼女のことが気になってならなかったのです。このお店は自然食品を主に扱っていて中流以上の教育程度も高い層を対象にしています。彼女も最近までここで買い物をしていたのかもしれません。近くに大金持ちが集中して住んでいるランチョ・サンタフェがあるので、ちょっとでも助けてくれる人がいるだろうと考えたのかも。どう見てもちっとも豊かに見えるはずのない私に助けを求めたなんて、よほど思い詰めた結果だったに違いありません。子どもに食べさせるだけのお金もないのかもしれません。私はそっと自分のお財布の中を覗いてみました。現金を持ち歩かなくなったので5ドル紙幣1枚と1ドル紙幣が3枚しかありません。これではどうにもなりません。どうしよう…

パルメザンチーズは2ドル84セントだったので、お財布には5ドルちょっとしか残っていません。それでも外に出てすぐさっきの女性の姿を求めて駐車場を見渡しました。彼女の姿はありません。埒があかないと思って別の場所に移ったのか、私の態度に彼女を追い出したのか… なぜあのとき、立ち止まらなかったのだろう。私の胸は急に悔いでいっぱいになりました。

物乞いはすべていや、というのではありません。ロサンジェルスのダウンタウンで雨の中で物乞いをしている母子や、ボリビアのサンタクルスで高地から出てきたばかりらしい母子に、何か温かいものが食べられるようにとお金を渡したことがあります。あのときは急いでいなかったから、と言えますが、急いでいると大して時間のかかることでもないのに、なぜ同じことができないのでしょう。悔いが残らないように、忙しくてもやるべきことはやる、と心に決めさせたことがあったのに…

もう20年近くも前のことですが、ジャックという年配の知人が、当時私が飼っていた小犬のティクリーをかわいがってくれ、ティクリーもジャックになついていて、ジャックの運転するフォルクスワーゲンのエンジンの音を聞いただけで大喜びで跳びはねたものです。そのジャックが入院し、脳腫瘍で治る見込みがなく、容態が落ち着いたら養護施設に移るということになってしまいました。そのとき私はドクター論文にねじり鉢巻で奮闘していて、すぐにはお見舞いに行きませんでした。ジャックが養護施設に移ったら、そこには中庭があるというのでティクリーを連れてお見舞いに行こうと考えていたのです。ところがジャックは、養護施設に移る前に亡くなってしまいました。

論文書きで忙しかったとはいえ、なぜすぐお見舞いに行かなかったのだろうという悔いが私に大きく残りました。あんなにティクリーをかわいがってくれた人に最後のお礼を言う機会を永遠に失ってしまった… 病院に犬を連れ込むのは無理としても、ティクリーの写真を持ってお見舞いに行けばよかった。それだけでもジャックは喜んでくれただろうに…

何かをした悔いより、しなかったことの悔いの方がはるかに深いとつくずく思いました。それで心に誓ったのです。どんなに忙しくても時間を惜しまず、人との関係をいちばん大事にしよう、と。そのために行動する機会を逃したら、そんな機会は2度とやって来ないでしょう。残るのは悔いだけです。

それでも、忙しかったり急いでいたりすると、つい人の心を思い遣る余裕を失ってしまう。そして悔いが残る。今年もそんな悔いを作ってしまいました。私と目が合うなりさっと助けを乞うサインを見せたあの若い母親の暗くて重い姿が、私の頭の中に焼き付いています。

あれから彼女はどうしたでしょうか。彼女とまた出会うことがあったら、彼女の無言の懇願を拒絶してしまったことをお詫びしたい。でも、そんなチャンスはやって来ないでしょう。そして私の悔いはいつまでも残ることでしょう。

せめて同じような悔いが溜まっていかないように生きていきたいものです。
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