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アジア人(上)その概念 |
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2012年3月26日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ ヘレン・ジア著『Asian American Dreams』(2000年発刊) |
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アパルトヘイトが廃止されてからまだ数年しか経ていないころ、南アフリカが原産のプロティア(protea)という花に関する集まりで、南アフリカへ行きました。南アフリカはそれまで国際社会から締め出されていたので、そのころは、きちんとしたガイドブックといえば、イギリスで出版された1冊しかありませんでした。
アメリカやオーストラリアのプロテア仲間といっしょに、ポートエリザベスという町から、ガーデンルートと呼ばれるほど風景が美しい海岸沿いの道路を西に向かい、ケープタウンに入りました。ホテルにチェックインして一休みしてから町に出ると、そこで同じグループにいたプロティアの研究家で、ハワイ出身のパメラ・シンガキさんとぱったり。苗字でわかるとおり、彼女は沖縄系三世です。私の顔を見るなり、開口一番、「ケープタウンにはアジア人(Asians)が大勢いるってガイドブックに書いてあったけど、ちっとも見かけないわ」と、腑に落ちないという顔をしました。
彼女もイギリスで出版されたガイドブックを持っていたのです。たしかに、ケープタウンにはアジア人が集中して住んでいると書いてあります。でも、パメラさんが首をかしげたように、彼女や私のようなアジア人は1人も見かけません。といっても、ガイドブックが間違っていたのではないのです。イギリスでは「アジア人」というと、ふつうはインドとかパキスタンとかの南アジア出身者のことを指し、私たちが立った地点でもそういう人たちを大勢見かけました。「ああ、そういうことなの」と、パメラさんは納得しましたが、彼女が最初に首をかしげたのも無理もありません。アメリカでは一般にアジア人というと、まず日本人とか中国人とか韓国人のような東アジア人(East Asian)を指すのが一般的だからです。
私は1973年にアメリカに住み始めましたが、そのころは、私のような東アジア出身者は、オリエンタル(Oriental)と呼ばれていました。日系人(Japanese American)とか中国系人(Chinese American)とかその他のアジア系人を包み込んでアジア人と呼ぶことも始まってはいたのですが、一般的にはまだなじんではおらず、日常生活ではオリエンタルという言葉のほうが圧倒的だったのです。しかしいまでは、オリエンタルと呼ばれると、若いアジア系人はムッとするでしょう。私もどうもいい感じは持ちません。
「オリエンタル」を「アジア人」とは別なものとして「東洋人」と日本語に訳したとして、両者はどこがどう違うのだと疑問に思われるかもしれませんね。でも、違うのです。アジアというのは、地域の名称ですが、オリエント(東洋)はあくまでオクシデント(西洋)から見た地域の概念で、自分たちとは違う神秘的な世界という響きがあり、その地の出身者はいつまで経っても他者とみなされているのです。人種や宗教や信条に関係なく、だれもが自由で平等であると唱っているアメリカで、アジア系人はアメリカ市民であっても二世三世であっても、完全なアメリカ人とは受け入れられずに来たという歴史があり、アジア系人は日常生活の中で、大なり小なりそういう体験をしてきました。そういう思いがあるからこそ、ベトナム戦争時に、ベトナム人がアメリカ軍から同じ人間とはみなされていないのを見て、ベトナム戦争に反対する東アジア系アメリカ人の学生は、そこに自分たちの姿が投影されているのを感じ、オリエンタルという概念を排除し、アジア系アメリカ人(Asian American)という呼び方を1968年に生み出したのでした。
どの社会でも、大きな問題が起きたり、経済がうまくいかなくなったりすると、まず少数民族が怒りや不満や不安の標的にされがちです。(関東大震災のとき、多くの朝鮮人が根拠のないウワサのためにごくごく普通の日本人に虐殺されたことを思い出してください。)戦前のアメリカでは黄禍論が吹き荒れて、アジア系人は排除の対象になりました。第二次大戦中に、日系人は海岸部から強制収容所に送られたことは、日本でも知られているでしょう。同じ敵国系人でも、ドイツ系人やイタリア系人にはそんな処置は取られなかったのに。そういう差別の体験からでしょうか、戦後はアジア系人はなるべく目立たないように、ただ黙々と働き、子どもたちを教育してきました。アメリカ人の中に日本に対して敵国意識がなくなってくると、今度は「模範移民」として、アジア系人は(アフリカ系とかラテンアメリカ系とかの)他の少数民族の叩き台に使われたりしたものです。
裏を返して言えば、アジア系人はアメリカ社会主流に完全には受け入れられず、何かことが起これば、「自分の国へとっとと帰れ!」などと言われてしまう。アメリカ生まれでアメリカ育ちのアメリカ市民であっても、です。そのことに否応無しに直面させられたとき、各アジア系人たちは民族の違いを越えて、アジア系アメリカ人として立ち上がるように力を合わせるようになっていきました。
それを引き起こしたのは、1982年に起きた悲劇的な事件です。日本の経済がぐんぐん伸びて、日本製の自動車がアメリカ市場に大幅に進出していったころ、それとは反対にアメリカの自動車産業は低迷し、中心地デトロイトでは失業者が続出。そこで日本に対して猛反発が生まれました。当時、トヨタの車をハンマーでたたき壊して鬱憤を晴らすデトロイトの労働者たちの姿が、テレビで報道されたのを覚えています。そうした中で、ヴィンセント・チンという中国系人が日本人と間違われて、失業した2人の白人労働者と口論の末、撲殺されてしまったのです。ヴィンセント・チンを殺した2人は罪を認めたのですが、裁判官が下した判決は、なんと、執行猶予3年と3780ドルの罰金というものでした。
あまりに軽すぎる判決にショックを受け、怒ったのは、ヴィンセント・チンの家族だけでなく、またデトロイトの中国系人だけでもありませんでした。怒りの波紋はたちまちのうちに広がり、アジア系人全体が初めて力を合わせて、これまでの「おとなしい模範移民」のイメージから飛び出して、抗議運動を起こしたのです。
法律の上では、不当に軽い判決をくつがえすことはできませんでした。が、アジア系アメリカ人という概念が行動につながったことは画期的なことだったといえます。
このエッセイを書き始めたときには、私は突然表れて一躍有名になったジェレミ−・リンというバスケットボール選手について書くつもりでした。彼はアメリカの中国系コミュニティはもちろん、彼の両親の出身地の台湾でも、また中国でも、「中国人」としてヒーロー扱いされているのに対し、アメリカでは、特に若い世代では、アジア系アメリカ人として大人気を集めていることに、私はアジア系アメリカ人という概念がしっかりと根付いたと見るのです。同時に、彼が最初はバスケットボール選手としてはまったく注目されなかったことに、アジア系アメリカ人につきまとう先入観を考えてみるつもりでした。
ところが、多忙のために遅々として筆が進まないでいるうちに、17歳の無防備のアフリカ系の青年が、市民警備ボランティアに射殺されるという事件が先月フロリダで起きたことが明らかになり、大問題になってきました。私はそのことでひどく心が掻き乱され、アメリカの人種や民族に関する先入観や偏見について、もっと深く考えようと、何年も前に読んだAsian American Dreams(仮題『アジア系アメリカ人の夢』)という本を書棚から引っぱり出し、もう一度読み直し始めました。
そうこうしているうちに、時間はどんどん過ぎて行く、主題はますます広がっていく、問題は私が最初に考えていた以上に深刻で、文章は長くなっていく、という羽目になり、とても1回のエッセイにはまとめられなくなってしまいました。という次第で、ジェレミー・リンにまつわる思考は次回に回します。
尻切れトンボのような文章でごめんなさい。
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