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縁の下のバイオリン弾き
141 ベーコン
2017年9月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ ジョン・スタインベック
エリザベス・ギルバートが近著「ビッグ・マジック」でこういうことを書いていた。

<「食べて、祈って、恋をして」(大ヒット作で映画にもなった)を出版して以来、いったい何人の人に私が彼女らの本を盗んだと怒りをこめて非難されたことでしょう。

「あんたの本はね、私の本だったはずなのよ」とこういう人はサイン会の列にならんで私をにらみつけ、かみつくような勢いで言うのです。ヒューストンでも、トロントでも、ダブリンでも、メルボルンでも…。「いつかぜったいあの本を書くつもりだった。それなのに、あんたが先に私の人生を書いてしまうなんて!」>

ギルバート女史はそのあと、自分の本はそれまでだれにも書かれていない内容で、死に物狂いの努力の末に書き上げた、だからあの本はだれのものでもない、自分のものだ、と宣言している。けれど、年来温めていたプランを他の人間に先を越されて書かれてしまった、という怒りと恨みについてはよくわかっているのだと思う。

私には自分が書くべきだった本を他人に書かれてしまった、と思った経験はない。

でもたった一度だけ、私が実際に書いた一文を別のところで有名な人に書かれてしまって、おどろくと同時に憤懣(ふんまん)やるかたない、という気持ちになったことがある。

まだ若い頃、ジョン・スタインベック(米、1902−1968)の「朝食」という短編小説を読んだのが発端だ。この小説は彼の「長い谷間」(1938)という短編集に収録されている。3ページぐらいのごく短いものだ。

私はすっかり感心してしまって、

「世界中に朝食について書かれた小説がいくつあるか知らないが、この小説にまさるものがあろうとは思われない」

と日記に書いた。

ところが、あるとき開高健の本を読んでいて、彼がこの小説について書いているのを発見した。「世界中に朝食について書かれた小説がいくつあるか知らないが、この小説にまさるものがあろうとは思われない」と書いてあった。



「朝食」は北カリフォルニアの谷間を歩いている旅人が、偶然出会った家族に呼び止められて朝食をごちそうになる、という筋だ。家族はモテルに泊まるかわりに野外にテントをはってキャンプしているのである。

同じような顔立ちの父と息子、少女のような息子の妻と乳飲み子がその家族だ。父と息子は仕事の給料で買った新しいデニムのジーンズとジャケツを身につけている。

スタインベックは長編「怒りの葡萄(ぶどう)」(1939)でもっとも有名だ。この作品は1930年代のいわゆる大恐慌時代、資本主義の搾取(さくしゅ)とダストボウルと呼ばれる大砂塵とによって農業がたちいかなくなった農民たちがオクラホマからカリフォルニアに職を求めて移動するさまを描いたものだ。オンボロトラックに全てを乗せてやっとカリフォルニアに来てみると、職を奪われまいとする地場の労働者からピケを張られ仕事にありつけない、という、要するに現代のメキシコ不法移民の国内版だ。

このようにオクラホマからカリフォルニアに流れてきた労働者を「オーキー」(オクラホマ野郎)と呼ぶ。「朝食」の家族はオーキーなのかもしれない。夜明けの冷気の中、テントの外で妻が料理しているストーブのオレンジ色の炎が語り手をひきつける。それにもましてなつかしいのは「炒めたベーコンとパンの焼けるにおい。あたたかい、心を浮き立たせるすばらしいにおいだ」

場所はスタインベックの生地サリナスのあたりだろう。サリナス・バレー(これが短編集の題名「長い谷間」だ)は谷とはいうものの広大な土地で、全米屈指の農産地だ。家族は綿つみの仕事をしている季節労働者だ。

腹をすかせている旅人を朝食に誘ってくれる、というそれだけの話なのに、食べているビスケット、ベーコン、コーヒーが匂い立つようで、えもいわれない魅力がある。それはその日暮らしの家族が気前よく「食べていかないか」と誘ってくれるそのあつい人情にある。

息子が「これで10日ばかりうまいもの食ってる」という。その期間は仕事にありついていたから金がある、というわけだ。つまりこの家族は悪くすると食うや食わずの生活におちいってしまうのだ。

さらに私をひきつけたのは、フライパンで炒めたあと残ったベーコンのあぶらを鉢にいれて食卓(といっても荷造り用の箱なのだが)に出していることだ。彼らはそのまわりの地べたに直接すわって、そのあぶらをビスケットにかけながら食べる。アイスボックス以前の時代だから、バターなどない。それで、ベーコンの油をバターがわりにしているのだ。


私はアメリカに来るまでベーコンをほとんど食べたことがなかった。日本では時たま母親がベーコンを炒めたものに直接熱湯をそそいでラーメンを作ってくれた。ベーコンのあぶらが浮いているそのスープはラーメンのだしとして適当であるかどうかは別にして、ともかくうまかった。

ベーコンだけを食べるときは軽くいためたあぶらまみれのそれを食べていたように思う。高校時代1年だけ下宿したときはそこの家の13歳ぐらいの少年が、ベーコンをいためるのを嫌い、そのまま食べていたのでおどろいた。あぶらがきらいだったのだろう。ハムでも食べるような感じで熱を加えないまま食べていた。インターネットによると、日本で売っているベーコンはそのまま食べられるものがほとんどだそうだ。

香港に渡ってからはベーコンなど食べたことはない。肉といったら豚肉をさす中国料理で、ハムは「火腿」(フォトイ)という伝統的なすばらしい味のものがあったけれど、ベーコンに相当するものはなかった。ベーコンにする前の材料となる豚肉(日本で三枚肉あるいはバラ肉と称するもの)は燻製(くんせい)にするまでもなく、そのまま料理に使っていた。梅菜扣肉(ムイチョイカウヨッ)という客家(ハッカ)料理(日本でいう『東坡肉』の一種)などはそれまで脂肪嫌いだった私を熱烈な中華料理ファンに変えた料理だ。

ところがある日、アメリカからの留学生たちが共同生活しているアパートを訪ねたときに、台所で異様なものを見た。特大の缶詰の空き缶になにやら半透明なものが入っていて、それがレンジのとなりに置いてある。

「これは何だ」と聞く私に、アパートの住人はこともなげに「ベーコンのあぶらだよ」と答えた。そのときはじめて、私はアメリカ人がベーコンのあぶらを食べないことを知ったのだ。

ベーコンを低温であたためて、あぶらを出し切ってしまう。カリカリになった出しがらのようなベーコンに目玉焼きとフライ・ポテトを合わせて食べるのがアメリカ流の朝食だ。

大量にでたあぶらはそのまま空き缶に流し入れて、それがいっぱいになると捨ててしまう。あきらかに「脂肪は健康によくない」というテーゼを頭からのみこんだ行動だ。アメリカに来てから、これが一般的なベーコンのあつかいなのだということを学んだ。

私はこれを知ったとき、なんともったいない、と思った。ベーコンというものはごぞんじのように脂肪が大部分をしめている。そのあぶらを食べずに捨ててしまう、というのは浪費以外の何物でもない。

もちろん、脂肪が健康によくない、ということはわかっている。でもそれは比較的最近になって唱えられた医学上の見解にすぎない。そんな知識が一般的ではなかった昔のアメリカで、あぶらを捨てるなどは許されることではなかっただろう。

このスタインベックの小説こそ彼らアメリカ人が昔はあぶらを無駄にしていなかったという証拠だ。「ビスケット・アンド・グレーヴィー」のもっとも原始的なかたちだ。


近代になるまで旅人にとって、ベーコンほどありがたい食料はなかったのではないかと私はつねづね考えている。それは肉であり、あぶらであり、しかも塩味がはじめからついている。バターやらオリーブ・オイルやらを別口に用意する手間がいらない。野菜と炒め合わせればそれだけで料理となる。

しかも、オイルやバターとちがって固形物で運搬しやすい。レイ・ブラッドベリの「華氏451度」にはハンカチにつつんだベーコンのかたまりをポケットから取り出す男が登場する。燻製の度が高いと、ほとんどあぶらでべとつくようなことはない。

アメリカ海軍で使うベーコンは固く干し上がったかたまりで、料理の前に海水にひたしてもどすということを聞いたことがある。それを話してくれた人は、ベーコンの塩がきついから、といっていたが、たぶんそうではなく、浸透圧の関係で塩水のほうがもどしやすいからだろう。いや海軍だから貴重な生水を使うより手近にある海水でもどすほうが手っ取り早い、ということなのかもしれない。

ともかく、アメリカで伝統的なベーコンはそれぐらい保存に心を砕いた食品で、だからこそ近代以前、旅をするときにはベーコンを持っていくのがふつうだった。

1960年代ぐらいからだろうか、「あぶらは健康に悪い」ということになってベーコンは一挙に悪役に転落した。それからというもの、あぶらは捨てられることになった。

(オーキーたちは晩には何を食べていたのか。「怒りの葡萄」ではほとんど毎日、手作りのハンバーガーを食べている。金がある時は。それが最も安上がりの食事だった。)



この小説では、父親がビスケットを頬ばりながら「こんちきしょう、うめえったらねえや!」と感嘆の声をあげている。彼らがほんとうにその質素な朝食をエンジョイしているのがわかる。朝の光と、身を切る冷たい空気と、簡易ストーブの温かみと、満腹感とがあますところなく表現されている。そんなときに、生活習慣病だの、メタボ症候群だの、減塩療法だの、考えるだけでも場違いだ。

焼きたてのビスケットはもちろん手作りだ。手にあまるような大きな、薄茶色に色づいたやつ。

コーヒーはのどを焼くほど熱い。「我々は残りをかすごと地面にすてて、またコーヒーをカップについだ」これはどういうことかというと、沸騰したやかんの湯のなかに挽(ひ)いたコーヒー豆の粉末をそのまま投げ入れるという荒っぽい作り方を指している。カップの底にコーヒーかすが残るから、うわずみだけ飲んであとはかすごと捨てる、という西部劇でおなじみの飲み方だ。

ね、うまそうでしょう。しかしそれも労働者に対する連帯と共感を行間ににじませた簡潔な文章あってこそ。スタインベックはのちにノーベル文学賞を受賞したが、その理由のひとつは「怒りの葡萄」によって社会に大きな影響を与えたことだったといわれる。



いくら感心したといっても、開高健もまねをした私の感想は実はなんの意味もない。「世界に朝食について書かれた小説がいくつあるか知らないが」と但し書きをつけた段階で私の意見は説得力を失ってしまった。そんな基本的なことも知らないでよく言うよ、と言われてしまいそうだ。

でも、それだからこそ私はスタインベックを超える作品を読みたいものだと年来思っている。それが現れるまで、これは私にとっては世界一の朝食小説である。


後記)文中の引用は拙訳です。






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