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縁の下のバイオリン弾き
186 犯罪
2021年6月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
きのうテレビで「60 minutes」という報道番組を見ていたら、アメリカのある女性連邦判事に起った事件のことを報道していた。

去年の7月のことである。ニュージャージー州の自宅の地下室で一人息子のダニエル君(20)と話していたエスター・サラス判事は表玄関のベルが鳴るのを聞いた。止める間もなくダニエルは階段を駆け上がり、ドアを開いた。次の瞬間、銃声が響いた。

判事は息も止まるほど驚いて、「なんてこと!」と叫んで彼の後を追った。銃声はなおも続け様に鳴った。ようやく階段を上がった彼女が目にしたのは「母親が決して見てはならない光景だった」(判事の言葉)。

ダニエルはシャツを血に染めて倒れており、そのかたわらに彼の父親マークが膝をついて、これも血まみれで息子の名前を呼んでいた。動転した判事が息子のシャツをたくし上げるとそこに現れたのは血が吹き出す弾痕だった。マークも3発撃たれていて、彼が命を取り留めたのはまったくの奇跡としか言いようがない。

ダニエルは病院に運ばれる途中で息絶えた。彼は犯人を中に入れまいと争ったようだと警察は結論づけている。

さらに判事を驚かせたのは「犯人は他でもない、あなたを狙ったんですよ」という刑事の言葉だった。

犯人は72歳の弁護士だった。この男は女性一般に強い憎しみを持っており、犯行についての声明を残して次の日ピストル自殺していたのが発見された。彼はその1週間前にも別の判事を殺していた。サラス判事の法廷指揮に不満を持ち、彼女を殺そうとやってきたのである。判事の自宅、法廷への道筋、息子の学校など、全て調べ上げた上での犯行だった。いうまでもなく、そういう情報は公人としての判事の職から、簡単に割り出すことができる。

犯人の殺人リストがもう一丁の拳銃とともに彼のロッカーから発見された。その中に、最高裁の女性判事、ソニア・ソトマヨールの名があった。

サラス判事はこの事件以後、連邦議会で裁判官の安全確保を求める法案の上程を熱心に推進している。判事は職掌柄、常に危険を犯していると覚悟しなければならないが、現今ではインターネットによる脅しが急増しているそうだ。

トランプ前大統領がイスラム教徒の入国を禁じようとした時に、それに反対する裁定を下した判事には4万通からの非難のメールが殺到した。「月夜の晩ばかりだと思うなよ」みたいなことを言ってくる。その中の千件ほどは判事の生命に関わる重大案件として警察の捜査の対象になったほどだ。



私はこの報道を聴いて、ため息をつかずにはいられなかった。

特に私を刺激したのはサラス判事の命を狙った犯人が72歳の弁護士だったという点だ。弁護士といえばアメリカでは一般に尊敬される、教育のある人間であるはず。それが72歳という、あと何年生きながらえるかもわからない年齢になって何をとち狂ったのか、人を殺したのだ。

私は今年73歳である。年齢が近いだけに、驚くというよりも不思議な気がする。それぐらいの齢なら、世間一般の常識で言えば、「功なり名とげた」と言われていい年齢だ。

ことさら、判事の殺害を成就できずに、罪もない若者(判事一家に罪があるはずはないが)をあやめてしまったのは痛恨のきわみだっただろう。それで自殺するほかはないほど、追いつめられたのだろうと想像される。女性憎悪が強ければ強いだけ、正反対の結果を引き起こして平静でいられるはずはない。

もし自殺していなければ、リストにあったように、ソトマヨール最高裁判事を殺そうと狙い続けたかもしれない。

初めから異常人格だったとも考えられるけれど、それで70を超えるのは難しいと思う。アメリカではこういう事件がおこるとすぐに「精神病」のせいにする声が高いが、殺人を犯すような人間はどのみち精神に異常があるに決まっているものの、72歳まで社会的な不都合もなく、表向き円満に生活してきた人間に対してはその声は何の予防にもならない。

弁護士を指して精神病だなどといえば、「正義の味方に対して何ということを…」とあざけられるのがオチだ。ということはアメリカ社会にはこのような殺人者をからめ取る網はないのだ。

しかし私はむしろ、社会の変貌の方が個人の精神生活よりも心配だと思う。つまり、社会が個人の憎悪に対して何の歯止めにもなっていない、ということだ。仕事ぶりが気に食わないからといって殺されるんじゃあ裁判官なんぞ命がいくらあったって足りはしない。

1月6日に起った連邦議会襲撃事件がいい例だ。議会の外に縛り首の縄が掲げられ、議会に押し入った暴徒たちは口々に「(副大統領)ペンスを吊るせ」と叫んでいた。

こういう風潮を引き起こしたトランプ前大統領の責任は大きい。前述のイスラム教徒入国禁止の件で、トランプは反対する判事のことを「『いわゆる』判事」と、その資格を疑うような「いわゆる」付きでよび、「もしテロが起って何百人も死んだらお前の責任だ」とツイッターに書いた。大統領に言われる筋合いは司法にないはずなのであるが、現実にこんなことを書かれたらたまったもんじゃない。4000万のフォロワーがトランプのツイートを読んでいるのだ。

サラス判事を殺そうとした弁護士がこのような社会風潮に勇気づけられた、ということは大いにあり得ることだ。

(もちろん、アメリカが銃社会であることが最大の問題なのはいうまでもない)。



さる5月20日の早朝、私は医者とのアポがあったので、街路に駐車した車に乗ろうとしたら、――なんと運転席側の窓ガラスが砕け散っているのであった。私は慌ててアポをキャンセルし、警察と保険会社に電話した。

こんなことは私の人生でかつてない。車上荒らしをされたことはあるが、犯人は巧妙に窓を開けて車内を物色した。その時も今回も、盗まれるようなものは何も置いていなかった。

単なる物取りと思いたいが、ひょっとしたらそうではないかもしれない。あたりを見回しても、たくさん路上駐車している車の中で、被害を受けたのは私ばかりのようだ。

そんなことは考えたくもないが、あるいは日本人である私を目標としたヘイト・クライム、近頃あいつぐ反アジア人犯罪の一つとも考えられる。

物取りであれば、音が聞こえる危険を犯してガラスを粉微塵(こなみじん)にする必要はあるまい。見たところ、石かハンマーかなんか使って一撃のもとに叩き割ったとみえるが、家の中で眠っていた我々には何の音も聞こえなかった。布か何かでくるんで音のしないようにしてあったのかもしれない。

リンダと毎日近所を散歩しているから、私の姿はこのかいわいでよく知られている。住所を突き止めるなど、造作もないことだ。薄気味悪いことである。



警察に電話した折にそれを持ち出したら、警官は否定するかと思いきや、「そういう可能性も大いにあり得る」と言っていた。

それだけではない。私はそれからというもの、会う人ごとにこれについて愚痴をこぼした。ヘイト・クライムではないかと疑っていると話した。すると「それは考えられる。そういうバカが増えている」と一人残らず賛成したのにはあきれた。

もっともこれはあきれる私の方が認識不足なのかもしれない。アトランタの事件で明らかなように、アジア人を目標とした犯罪は確実に増えている。銃を使わない事件で死人まで出ている。たいていは道を歩いているアジア人の老人(男も女も)を蹴ったり、殴ったり、突き飛ばしたりする。石畳で頭を打って死んでしまう、などという事件が頻繁に起っている。

コロナウイルスを中国ウイルスと呼び続けたトランプが人種偏見の種をまいた。トランプがホワイトハウスを追いだされても、いったん根をはやした反アジア人の感情はそう簡単になくなるものではない。



日本でこの稿を読んでおられる諸兄姉は、そんな思いまでしてアメリカに住む必要はないじゃないか、日本に戻って来ればいいのに、とお思いかもしれない。それは確かにその通りで、私も心のどこかでそう思う。けれどもまた一面で、いいも悪いもこれが自分の選び取った社会なのだ、その行為の責任は自分にある、政治の風向きが変わったぐらいで弱音を出して投げ出したくない、という思いも強い。自分自身の偏見を含めて、及ばずながら偏見をなくすように努力することこそ、この社会に住んでいる醍醐味だ。






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