|
|
|
205 |
|
 |
|
ニコニコの贈り物 |
|
2020年5月28日 |
|
|
|
 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
|
|
 |
|
▲ 完璧なペットだったニコニコ。 |
|
 |
|
▲ 我が家にやって来て2日目のチョーチョ(私の右側)とウィニー(左側) |
|
|
(事故で夫のトーマスと愛犬ニコニコを失った顛末の3回目です。)
事故の次の日、40年以上も家族同様の付き合いのあるゲアリーとロブの兄弟が病院に駆けつけてくれた。ゲアリーは私たちの弁護士でもある。私の携帯には動物救急病院からのメッセージがいっぱい入っていたので、ゲアリーに電話してもらった。ニコニコは背骨が折れて、手術をしても回復のチャンスは5%しかないという。歩けなくてもいい、と私は思った。古代エジプトの戦闘で使われた戦車に似た犬用の車椅子を下半身につけて嬉しそうに動き回る犬をテレビで見たことがある。ニコニコは後ろ足が使えなくなってもこれまでと同じように喜んで走り回るだろうと思ったのだ。
でも、とゲアリーが遮った。ニコニコは一番強い痛み止めを使ってもひどく苦しんでいるという。手術をしてもその痛みがなくなるという保証はないとも。このまま安楽死させた方がいいと、ゲアリーの目が私に忠告していた。ゲアリーは普通以上に動物を大事にする人だ。家ではいつも5、6匹の猫を飼っていて最善のケアをしているばかりでなく、野良猫を獣医に連れて行っていい健康状態にして放してやったり、トーマスの農園の犬が野生のオオネコに襲われないようにと、いつもそれぞれの動物にとって最善のことを考えている。その彼が、ニコニコを生かしておくのはかえってかわいそうだと思っている。
ニコニコがそんなに苦しんでいるなんて‥… 私は仕方なくゲアリーの言うことに同意した。
弟のロブは部屋の隅に立って、無言で私とゲアリーのやりとりを見ていた。あの日、私が涙を流したのはそのときだけだったと、それから何ヶ月も経ってからロブは言ったけれど、全く私は覚えていない。
事故から3日後、東海岸のコネチカットから飛んで来てくれた親類のヘザーに連れられて、トーマスもニコニコもいない家に私は帰った。ヘザーはトーマスのいとこの娘なのだが、私たちとは親子のように親しい間柄で、エール大学ロースクールの学長という要職に就いていて平日は家族と一緒に夕食も取れないほど忙しいのに加えて、アメリカ中やときには海外にも飛び回っている。それでも、彼女は全てを投げ出して、すぐ飛んで来てくれたのだ。
家に着くと同時に、地元テレビの取材班がやって来た。トーマスのことでインタビューしたいと前もってヘザーに連絡していたのだ。私は取材班に簡単な挨拶をして3階の寝室で休み、インタビューはヘザーに任せた。
それにしても、地元テレビ局はなぜトーマスのことをニュースで取り上げることにしたのだろう。死者を出した交通事故などたくさんあるだろうに。インタビューされることに慣れているヘザーは、取材をうまくこなしたようで、後からインターネットで報道を見ると、ニコニコまで写真付きで言及されていた。(注)
それから数週間、私はトーマスがいなくなったという実感が全くなかった。寂しいと言えば、ニコニコがいなくなったことだった。平日のほとんどはアボカド園に行って昼間はいなかったトーマスに比べて、ニコニコはいつも私と一緒で、どこにでも付いて来るし、誰かがくれば興奮してとにかく賑やかだった。
ニコニコはトーマスと私にとって4匹目の犬だった。4匹とも全部いわゆるレスキュードッグ(救護犬)で、捨てられたのを保護されたか、子犬が生まれても飼えないので動物保護団体に連れて来られたかしたのを、養子(養犬?)にもらったのだ。ニコニコを飼うまでの3匹はそれぞれ個性があって私たちの生活を豊かにしてくれたが、他の犬が嫌いだったり怖がったり、食べ物を盗んだり、一定の人間を敬遠したりと、どこか欠点があった。それに比べて、ニコニコはどんな人間にも犬にも喜んで接したし、お行儀も良くて、近所でも人気者という満点の犬だった。こんなに性質の良い犬に出会うとは思っても見なかった。「ニコニコみたいな犬に出会うなんて、どうしてこんな幸運に恵まれたんだろうね」と、トーマスは毎日のように言ったものだ。
そう言ったトーマスも、ニコニコも急にいなくなってしまった‥‥
早く次の犬を飼った方がいいと、いろいろな人が言ってくれた。でも、私はなかなかその気になれなかった。1つには、ニコニコの思い出が強すぎたのだ。それに、我が家にはタトゥーというアフリカングレイのオウムがいるので、その山鳩ほどの大きさの鳥が家族の一員だということをまず最初から認められるように、仔犬でないと困る。が、仔犬は躾や世話に大変な時間と労力がかかる。5月末にはトーマスの追悼式をイギリスでやる予定だったし、そのあとは留守にする予定が前からいくつかあったので、犬を飼うのはそれを全部片付けてからの方がいいと思っていた。それと、この次に飼う犬の種類について迷ってもいたのだ。
長い間、私はゴールデンレトリーバーとプードルをかけ合わせたゴールデンドゥードルか、ラブラドールとプードルをかけ合わせたラブラドゥードルが欲しいと思っていた。どちらも頭が良くて抜け毛の少ないプードルと、忠実で人懐こいゴールデンレトリーバーやラブラドールの性質を持っていて、いまアメリカでとても人気がある。近所でもどちらかを多く見かけるし、ニコニコの遊び仲間にもいた。ニコニコはDNA分析をしてもらったら、4分の1がプードルで、彼の毛は抜けて散らばるということがなくて家の中で飼うのがとても楽だった。ニコニコの残りのDNAは、コッカースパニエルとマルチーズと正体不明の雑種がそれぞれ4分の1ずつだった。(アメリカではDNA分析が一般的に手に入る。それが犬にも広がって、DNA分析で雑種犬は祖父母の代まで種類を低価格で調べてもらえる。)
ゴールデンドゥードルかラブラドゥードルが欲しいと思っていると話すと、誰もが大賛成してくれた。それでいて、私はどうも踏み切れなかった。1匹3千ドル(約30万円)ぐらいということが気になったのは確かだ。幸いにもいまの私にはその余裕はあるけれど、トーマスと私が飼った4匹の犬たちがみんなそうだったように、引き取り手を待っている犬がいっぱいいるというのに、大金を払って犬を買ったりしていいものだろうかという思いがどうしても抜けない。それで、いつまでもぐずぐずしていた。
そうこうするうちに、トーマスとニコニコを失ってから半年以上が過ぎた。新型コロナウィルス蔓延でロックダウンが始まり、旅行は全て無期延期となり、家の外に出ることもほとんどできない。そこで、長年の念願だった裏庭の大改造をすることにした。
それが軌道に乗った4月末に、ある知人がショートメッセージを送って来た。捨てられたらしい小さな犬に2匹出会ったという。最初に茶色の犬を見つけたら、その犬がもう1匹の小さな白い犬のところへ彼を導いたというのだ。白い犬は目が見えなかった。知人は近所中のドアを叩いて、飼い主を探してみたが、誰もそんな犬は見たこともないという。知人は自分は飼えないからと、動物を保護する団体のヒューメインソサイエティに連絡して引き取ってもらった。知人が送ってくれた情報によると、2匹とも人懐こくて、茶色の犬はパピヨンの雑種で推定年齢10歳、体重は4キロ半。目の見えない方は白いミニチュアプードルの雑種で、推定年齢12歳、体重は5キロ半。体重は2匹合わせてもニコニコより軽い。
年取った犬は引き取り手が見つかりにくい。それも2匹一緒で、そのうちの1匹は目が見えないとなると、なかなかもらってもらえないだろう。どういう事情で捨てられたのだろう。ヒューメインソサイエティに連絡すれば、引き取ってもらえるのに、それをしなかったのは飼えなくなったということが恥ずかしいと思ったのか、それとも飼い主が急死してしまったのか‥‥ 私だってニコニコがいたら、その2匹を引き取ろうなどとは思いもしなかっただろう。でも、急にいなくなってしまったニコニコが、「僕の代わりにうちに連れて来て」と私に言っているような気がして、急にその2匹を引き取りたくなった。
ヒューメインソサイエティに連絡してみると、飼い主が現れるかどうか1週間待って、その間に健康チェックなどもするという。引き取る意思があることを伝えておいたら、ちょうど1週間後に連絡があった。引き取る前に私は2匹の名前も決めておいた。パピヨンの方はチョーチョ(「パピヨン」はフランス語で蝶々の意味なので)、プードルの方は施設で暫定的にウィンター(白いので「冬」の意味)と名付けられていたけれど、気候温暖なサンディエゴでウィンターはピンと来ないので、ウィニー。
そのチョーチョとウィニーを、私はワクワクして迎えに行った。ロックダウンで犬を引き取りに行く手続きもいつもと違っていて、みんなマスクをして、お互いから距離を置いて、といろいろ不便だったけれど、なんとか2匹を車に乗せ、帰って来た。
その夜は特にウィニーが落ち着かなかったけれど、新しい環境に慣れるのにあまり時間はかからなかった。特にチョーチョはウィーニーをも助けたくらいだから、責任感が強いのか、どこにでも(トイレの中にでも)私について来て、もう2度と捨てられないように確かめているかのようだった。
それからちょうど3週間。その間に、チョーチョとウィニーは獣医さんに3回も行き、徹底的な健康診断と大掛かりな歯と歯茎の治療をし、予防注射も全部してもらい、瞬く間に、と言っても大袈裟でないほどに健康的になってきた。結局ゴールデンドードル1匹分よりもっとお金がかかってしまったけれど、はるかに有意義な使い方だったと思う。オウムのタトゥーも猫のニキも、2匹の犬に全く問題はない。なんとも平穏な毎日がやってきた。私も癒されている。
愛しいニコニコよ、贈り物をありがとう。
(注)サンディエゴNBCニュース https://www.nbcsandiego.com/news/local/man-dies-after-suv-broadsided-by-tow-truck-in-carmel-valley/1966144/
|
|
|
|