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138 水晶栓 (Le bouchon de cristal)
2014年5月11日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。
アルセーヌ・ルパン (Arsene Lupin) と言えば、「怪盗ルパン」として知られた、子供向けの冒険小説のイメージがあります。実は古くからのルパン愛読者である私にとっては、それだけのイメージでルパンを語られることには、いささか不満があります。

たしかにそういう要素もなくはないのですが、例えば「奇巌城」や、「813」など、ヨーロッパの近代史に深く関わってくるような壮大なスケールの話もあります。そうなるともう、ルパンは「子供向け」という水準ではなくなってきます。

ところで、ルパンの名前の読み方ですが、「Lupin」は、フランス語では「リュパン」と読むように思います。ですから、「アルセーヌ・ルパン」ではなくて、「アルセーヌ・リュパン」の方が正しいように思うのですが、日本では長らく「ルパン」で通ってしまっていますので、とりあえずここでも「ルパン」でいきます。

私が高校生だったのは、1960年代のことですから、もう半世紀も昔のことなのですが、高校2年生の時に、堀口大學という文学者の翻訳で、シリーズのほぼすべてを読み、たいへん感動したことを覚えています。ジャンヌ・ダルクからビスマルクまで登場するヨーロッパの歴史がからんだストーリーに、日本史と西洋史を含めて歴史が大好きだった私は、いたく興奮して読んだものです。

ただ残念ながら、当時はストーリー中に出てくる様々な地名や美術品などは、その価値を含めてほとんど理解できず、せいぜい教科書程度の知識しか持ち合わせていなかったため、実際にどんな場所で、何を題材にしてドラマが展開されたのか、さっぱりわかりませんでした。

その後、様々な人生経験を積み、パリや作品中に登場するいろいろな場所にも何度も足を運んだおかげで、この歳になると、ルパンがまた別の魅力を持って感じられるようになりました。

今回のおしゃべりのタイトル、「水晶栓」は、「奇巌城」(1909年)、「813」(1910年)というシリーズ中の長編力作に続いて、1912年に書かれた長編物語で、なかなか面白いストーリーです。

題材のベースは、1889年に渦中の会社が破産した後、フランス全土を大騒動に巻き込んだ「パナマ運河疑獄事件」です。これは実在した事件でして、フランス社会全体を巻き込んだ、かなり複雑で大規模なものでした。政界・財界はもちろんのこと、フランス全土で約50万人もの中産階級の生活を破綻に追い込んだと言われているこの大疑獄事件では、一番甘い汁を吸ったのは、例によって政治家でした。

この「パナマ運河疑獄事件」は、私にはたいへん興味深く感じられますので、次回の書き込みのテーマとさせていただきます。ご関心をお持ちになられたら、またおつき合いいただけたらうれしく存じます。近日中に書かせていただきます。

「水晶栓」には、ルパンを何度も危機に陥れる悪党が登場します。この大疑獄事件で中心的な役割を果たしたとされる「27人衆」(そのほとんどは政治家)のリストを、破綻した運河会社の経営中枢に居た人物から奪い取って、こっそりと自分のためだけに悪用した人物です。

彼の名前は、アレクシス・ドーブレックと言い、ブーシュ・デュ・ローヌ県選出の代議士という設定です。これが稀代の悪党でして、運河疑獄事件の「27人衆」のリストを、イギリスのメーカーに特注した「水晶の栓」の中に隠し持ち、それをタネに政界で恐喝を繰り返して財と地位を築いてきた人物です。その風貌から「オランウータン」とか「ゴリラ」などとも呼ばれていました。

パリ警視庁が幹部を投入して全力で探すのをはじめ、多くの人々がそのリストのありかを必死で追うのですが、どうしても見つかりません。結局、複十字架の透かしの入った運河会社の極小の用箋に書かれたそのリストは、水晶栓ではなくて、ドーブレックの左目に入っていた水晶製の義眼の内部をくり抜いて納められていたのです。なんとまた意外な、でも絶対に安全な隠し場所だったことでしょう。

ルパンは何度も窮地に追い込まれながら、最後に大逆転を果たし、悪党のドーブレックは、自殺してしまうのですが、最近何十年ぶりかにこの小説を読み返してみて、私は登場する地名に注目しました。それらは実によく選ばれているのです。

パリ市内だけでも、いかにもそれにふさわしい場所が設定されているのですが、作者のモーリス・ルブラン (Maurice Leblanc) は、登場人物の役柄や立場にピッタリの地域を実にみごとに選んでいると思えます。今から100年ほど前に書かれたストーリーですから、してみると、パリ市内の各地域のイメージは1世紀前と、さして変わっていないと言うこともできそうですね。


○ ルパンの中心的な隠れ家のひとつ、マチニョン街 (Av. Matignon) にある専用出入口付きの中2階のアパート:

これは市内中心部、8区にあり、大統領官邸や内務省にも近い一等地。考えてみればまことに安全で便利な地域です。


○ ドーブレック代議士のパリ市内の一戸建ての自宅、ヴィクトル・ユーゴー並木通りの末端に位置するラマルチーヌ辻公園の左手 (Avenue Victor Hugo, Square Lamartine):

ここはパリ市内の最高級住宅地、16区の一等地で、凱旋門からブーローニュの森に向かって走るヴィクトル・ユーゴー通りと、シャイヨー宮 (Palais de Chaillot) のあるトロカデーロから同じくブーローニュに向かっている、ジョルジュ・マンデル通りが交差する近くにあります。静けさと便利さを合わせ持った最高の場所。不動産としては、さぞかし高いことでしょう。悪徳代議士が恐喝によって得た金額が如何に莫大だったかを暗示しています。


○ ドーブレック代議士の家の近く、アンリ・マルタン並木通り (Avenue Henri Martin):

上のジョルジュ・マンデル通りの続きで、ラマルチーヌ辻公園のあたりで、アンリ・マルタン通りと名前を変えます。そしてそのままブーローニュの森へと続くわけです。このあたりは、いかにも16区という高級住宅地らしい場所です。


○ ルパンがミシェル・ボーモンという名で住んでいた、シャトーブリアン街 (Rue de Chateaubriand) の住居:

市の中心部8区、パリ商工会議所の近くで、凱旋門からもすぐの場所。ちなみに、ワインと料理で世界的に著名な、タイユヴァン (Taillevent) も近くにある至便の地。シャンゼリゼ大通りから1本入った場所でもあります。便利さ、高級感共に申し分ありません。


○ジャンソン高校 (Lycee Janson de Sailly):

ルパンが奥の手を使う時に登場する、かつての自分の乳母、ヴィクトワールをドーブレックの家の女中として住み込ませたのですが、彼女が買い物に出た時に落ち合う場所として指定したのがこの高校の裏手です。ラマルチーヌ辻公園からも近くで、実在しています。


○クリシー広場 (Place de Clichy):

ドーブレックの復讐のターゲットの1人、クラリス・メルジー夫人の子供、ジャックの家庭教師ということで、ルパンが扮した出教授専門の正体不明なインテリが住むクリシー広場は、18区、モンマルトル近くの下町です。適度な猥雑さと知性を兼ね備えた街で、まことに的を得た住居だと言えます。


○ラスパイユ広小路 (Boulevard Raspail):

疑獄事件に大いにからみ、しかもそれは現役のパリ警視庁幹部にもつながっているという、元代議士のスタニスラス・ボラングラードの住居があるのが、この大通りです。7区の官庁街からリュクサンブール公園近くの6区を突き抜け、そのまま14区のモンパルナスに通じる、かなり長い通りです。怪しげな、でもドーブレックほど金儲けが上手ではない代議士が住むには、まことにふさわしい気がします。それにしても、この元代議士の名前は、いかにも怪しげですね。


○ラサンテ刑務所 (Maison d’Arret de la Sante):

ルパン・シリーズに度々登場する刑務所です。パリにはずいぶん通った私も、この場所にはまだ行ったことがないのですが、13区と14区の境目の14区側にあります。地図で見るとたいへん狭い場所ですから、たいした規模の刑務所とは思えませんが、脱獄不可能な刑務所として有名ですね。今度パリに行ったら見てきます。


○パリ警視庁 (Prefecture de Police):

これはあまりにも有名なわりには、現場では見過ごされがちな場所です。シテ島・オルフェヴル河岸36番地 (36 quai des Orfèvres) という地番なのですが、なんとそれはあの大観光地、ノートルダム寺院の真向かいです。寺院の正面にある広場をはさんだ対面の建物です。ご存じでしたか?


という所が主たるパリ市内の地名ですが、大半の現場を見て来た後に読み返してみると、高校生当時とはまったく違った味わいを楽しめます。歳を重ねるというのは、こういうことでもあるのですね。

ところで、ルパン・シリーズと年代的に一部重なっている、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズも、私は大半のものを読んでいるのですが、当初から、どうも探偵よりは、怪盗の方により強い共感を持ったことを覚えています。捕まえることよりも、逃げることに共感を持つ自分とは、いったいどんな人間なのか、と高校時代に不安を覚えたこともあったのですが、今ではもう開き直っていますので、不安はありません。
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