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アジア人(下)固定観念を越えて |
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2013年2月19日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ ジェレミー・リン。(すみません、無断拝借です。どこからみつけたのかも忘れてしまって…)
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去年の3月26日に載せた第177回「アジア人(上)その概念」の最後に、私はこう書きました。
「このエッセイを書き始めたときには、私は突然現れて一躍有名になったジェレミ−・リンというバスケットボール選手について書くつもりでした。彼はアメリカの中国系コミュニティはもちろん、彼の両親の出身地の台湾でも、また中国でも、「中国人」としてヒーロー扱いされているのに対し、アメリカでは、特に若い世代では、アジア系アメリカ人として大人気を集めていることに、私はアジア系アメリカ人という概念がしっかりと根付いたと見るのです。同時に、彼が最初はバスケットボール選手としてはまったく注目されなかったことに、アジア系アメリカ人につきまとう先入観を考えてみるつもりでした。 (中略) そうこうしているうちに、時間はどんどん過ぎて行く、主題はますます広がっていく、問題は私が最初に考えていた以上に深刻で、文章は長くなっていく、という羽目になり、とても1回のエッセイにはまとめられなくなってしまいました。という次第で、ジェレミー・リンにまつわる思考は次回に回します。」
と、書いてから、あら、まぁ、1年近くも経ってしまいました。あまりにもひどい尻切れトンボのままに放っておいて、いまさら続きを書くなんて、ずいぶん間が抜けているとは思います。でも、一度飛び立とうとしたトンボは、やはりちゃんと飛ばせなくちゃ、と思い直し、お尻をしっかり付けることにしました。
バスケットボール選手のジェレミー・リン、といっても日本ではほとんど知られていないでしょうね。そのこと自体に言及する報道記事もありました。そんなバスケットボール選手のことを書こうなんて、私はよほどのスポーツ好きと思われるかもしれませんが、いえ、全然だめなのです。スポーツ観戦というのがどうも苦手で(実は、スポーツそのものが苦手なのですが)、オリンピックの競技もほとんど見ません。ですから、新聞のスポーツ欄を開くことなど、まずありません。
そんな私の目に、1年ほど前のある日、ニューヨークタイムズ紙のスポーツ欄のトップに、「リン狂気」(Linsanity)というような見出しが飛び込んできました。何だろう?と思って、その記事を読んでみて初めて、ジェレミー・リンというプロバスケットボールの新星のことを知ったのです。Linsanityというのは、彼の姓のLinと狂気insanityとを組み合わせた新語でした。
ジェレミー・リンは新人として採用されても、ずっとベンチに坐わらせられたままでまったく無名だったのが、怪我をした選手の代わりに試合に引き出された。と、途端にどんどん得点を重ね、チームを勝利に導いた。それが次の試合にも続き、そのまた次の試合にも、さらに次の試合にも、という具合で、とうとう新人選手としての大記録を作ってしまったというのです。それでバスケットボールファンは大騒ぎ。中国系コミュニティも大騒ぎ。両親の出身地台湾でも大騒ぎ。中国系だということで、中国でも大騒ぎ。
でも、一番大きな影響を受けたのはアジア系アメリカ人の若者たちでした。それは中国系とか、日系とか、韓国系、フィンリピン系、インド系とかに関わらず、まずアジア系、つまり、アメリカ生まれでアメリカ育ちのアジア系アメリカ人という認識を持った若者たちが、自分たちの仲間からスポーツ選手のスターが生まれたことに大喜びしたのです。
と同時に、アジア系に対する偏見ということも問題にされました。偏見といっても、かつての中曽根首相の「アメリカ人は(知的水準が)低い」という発言とはちょっと違います。アジア系の若者というと、がむしゃらに勉強して、医者やエンジニアやハイテク関係に進むものという固定観念が横行していて、スポーツとアジア系というのはイメージがなかなかつながらないのです。そのことを裏付けるように、ジェレミー・リンはハイスクールのころもバスケットボールで大活躍して、白人や黒人のバスケットボール選手だったら、あちこちの大学から奨学金を提供されて引き手あまたになるところなのに、彼にはどこからも声がかからなかった。是非大学のバスケットボールのチームに入りたいと思っていたジェレミー・リンは、UCLAかスタンフォードに行きたかったそうですが、どちらの大学もスポーツ奨学金をくれるどころか、チームに入れてくれるとも言ってくれない。それでしかたなく(?)、スポーツ奨学金はないけれど、チームに入ることを保障してくれたハーバードに行ったのです。在学中、ジェレミー・リンはアイビーリ―グのバスケットボール史上最高の成績をあげたそうですが、卒業した年は、新人獲得に躍起になるプロのチームのどれ1つとして、ジェレミー・リンに注目しなかったということです。
そういう厚い壁を乗り越えて躍り出たジェレミー・リンに、アジア系の若者たちが晴れ晴れした気分になれたのは、単に自分たちの仲間だからということだけではなく、彼がアジア系の若者に対する先入観や固定観念を破ってくれたからでもあるでしょう。外から押し付けられた固定観念に縛られるのは、自分らしく自由に生きられないことだと思います。若い頃、そういう外圧に反発し続けた自分を思い出して、私もジェレミー・リンに拍手したくなりました。
アジア系アメリカ人という概念は、若い世代が生み出し、押し進めたものだとこの主題の前回に書きましたが、それが一世の間にも少しずつでも広がっているのを感じます。アメリカでの生活が、民族の隔たりを越えさせるのでしょう。そのことが『アジア系アメリカ人の夢』の著者ヘレン・ジアの父親に、表れています。彼は戦争中に母親と兄と義姉を日本軍に殺され、日本に深い怒りを恨みを持っていました。家族殺害の罪を日本政府に賠償という形で認めさせるために、日本政府に対して訴訟を起こそうと考え、裁判の場で自分で論戦を張れるよう、日本語を学んだとか。それでも、日系アメリカ人に対しては怒りも憎しみも持たなかったというのです。ヘレン・ジアが、日本人と間違われて殺されたヴィンセント・チンの社会正義を勝ち取ろうという運動に、日系人を始めとしてアジア系の若者たちと懸命に関わったとき、彼女の父親はそれを応援してくれたそうです。「中国系アメリカ人と日系アメリカ人がいっしょに努力するのはいいことだ。なんと言っても、ここはアメリカなのだから」と言って。
我が家の近所に、チュウ先生という歴史学の教授職を退職されたおじいさんがいます。お年は80代半ばでしょうか。それでもよくジョッギング(というより、チョコチョコ歩いている感じなのですが)をしていて、私が犬を散歩に連れているときに、ときどき立ち話をします。最初、私にチャイニーズかそれともジャパニーズかと聞き、ジャパニーズだと私が答えると、「中国と日本は戦争をしたが、過去のことは過去のことだ」とニコニコして言いました。尖閣諸島をめぐる日中の対立のことはあまり念頭にないようです。チュウ先生もアジア系アメリカ人なのですね。
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