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139 パナマ運河疑獄事件
2014年5月19日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。
この直前の記事、「水晶栓 (Le bouchon de cristal)」 の中で、1912年に書かれた、アルセーヌ・ルパン シリーズの中のこの物語は、19世紀末にフランスで実際に起こった「パナマ運河疑獄事件」を題材にしていると申し上げました。そして実はその疑獄事件には、私はたいへん深い関心を持っているとも。

ここでは、現代にも様々な形で関わりを持っていると思われる、この「パナマ運河疑獄事件」について、少しおしゃべりさせていただきます。

疑獄事件などというものは、バレるかバレないかの違いがあったり、その形態はまったく様々ですが、いつの世にも、どこの社会にも存在すると思います。より厳密に言えば、およそ権力の存在するところ、程度の差こそあれ、必ずついてまわるというのが残念ながら私の確信です。

私見ですが、19世紀末にフランスで発生した「パナマ運河疑獄事件」は、近代の疑獄事件の典型のひとつであり、また元祖とも言えるものだと思います。そしてそれはまた、近現代史にいろいろな意味で強い影響を与えたという点で、かねてから私が注目しているものでもあります。まず、ちょっとその概要をお話しておきましょう。

パナマ運河は、ご存じの通り、太平洋と大西洋を結ぶ、現在でもたいへん重要な運河です。中米・パナマにあり、アメリカが、1914年8月15日に開通させたものです。運河の規模は全長約80キロ・メートル、最小幅91メートル、最大幅200メートル、深さは一番浅い場所で12.5メートルだそうですが、開通から100年を経た現在、かなり大がかりな拡張工事が行われているようです。ちなみに上の写真は、パナマ運河の近影です。

運河が開通した1914年という年は、奇しくも第一次世界大戦が始まった年でもありました。オーストリアがセルビアに宣戦布告して、戦争が始まったのは、同年7月28日のことでしたから、開通はそれからほんの半月余り後のことですね。

ところが、この運河はそんなにすんなりと完成したわけではなかったのです。開通から遡ること4分の1世紀前、たいへんな事件をフランスで引き起こしていたのです。

パナマ運河開通の半世紀近く前、地中海と紅海を結ぶスエズ運河が完成しました。世界的に見て、もうひとつの重要なこのスエズ運河が、人的にも大きな犠牲を払いながらも完成したのは、1869年(明治2年)のことでした。そしてその巨大プロジェクトの指揮者は、フランス人外交官のフェルディナン・レセップスでした。

スエズ運河を開通させたレセップスの圧倒的な名声は、次には、パナマ運河の建設に利用されることになりました。大西洋と太平洋を結ぶという壮大な計画実現のために、レセップスを代表として、1879年、フランスにパナマ運河会社が設立され、翌年から工事が始まりました。つまりこの時点では、アメリカは運河建設にはまったく関わっていなかったのです。

こうした巨大事業には、いつの世でも、それに関わる巨大なお金 = 経済的利権を巡って、実に様々な輩が活躍(暗躍)します。この事件は、まさに近代的疑獄事件の元祖というにふさわしいものでした。

まず、中米パナマの熱帯雨林での工事は、予想を以上に困難を極めました。想像以上の難工事続きの中、会社は幾度となく資金難に陥りました。しかし、何度も発生した巨額の資金ショートの度に、運河会社は政府と議会に対して社債の発行を認可してくれるよう工作し、それに成功して、問題を先送りしていきました。運河会社は、認可をスムースに進めるために、なんと国会議員の過半数、官僚の全部、新聞界の半数以上を買収していたのです。

運河建設の現場では、極端な難工事、熱帯の厳しい気候、風土病、士気低下などで、途中から開通などほとんど絶望的と見られていたにもかかわらず、国民は甘い幻想を抱かされ続け、社債を買い続けました。

さらに運河会社は各新聞社に対しても、途方もない金額の「広告費」を払ったのです。そして、それに対する新聞界の御礼と言えば、もちろん「開通の夢」を新聞紙上で語ることでした。

また、大きな一獲千金を夢みる人物達が金儲けをしようとする際の最も確実な方法は代議士になることでした。政治が商売となっていたのです。議員にとっては、自分を選出してくれたグループに、国家から特権を引き出して、それを貢ぐことが仕事となっていました。当然その見返りは巨大なものでした。そのあたりの仕組みは、残念ながら今も一部に存在しているように思えますが、いかがでしょうか? 当時の代議士達は、党派の違いによって「論争」はしても、自分たちのこの秘密については、かばいあったのです。「自由」が「自由競争」に、「平等」が「腐敗」に、「友愛」が「徒党の目くばせ」になり果てたのです。

こうしてパナマ運河会社の社債発行は完全に国家的詐欺になりました。結局、開通祝賀式を開催する予定であった1888年、パナマ運河会社はついに行き詰まり、翌89年に破産宣告を受けました。工事期間中の8年間に、社債として国民から引き出したお金は13億3500万フランにのぼりました。(現在の金額に換算すると、少なく見ても数千億円以上になるだろうと思います。)それがすべて紙くずとなってしまったわけです。当然、工事は完全にストップし、1903年に、アメリカが再着工するまでの10数年間は、熱帯雨林に埋もれていました。

なお、アメリカは1903年、パナマと条約を調印し、地峡を通る大洋間を渡る大型船通行可能な運河の計画に着手しました。翌年、アメリカはフランス運河会社から権利と所有権を4千万ドルで買い取り、本格着工し、10年後の1914年に完成にこぎつけたわけです。

ところで1889年のフランス・パナマ運河会社の破産は、フランス国内の約50万の中産階級の家族の生活の破綻を生み出したと言われています。

疑獄事件の裁判が姶まり、何人もの国会議員が喚問され追及されましたが、長い裁判が終わってみると(1903年)、政治家で有罪となったのは、工事期間中の元建設大臣1人のみでした。「法の前の平等」も「法治国家」も、誰からも信用されなくなりました。

議員が商人であり、互いに利権をめぐって「自由競争」しても、この特殊な商人達は自分達の共通の利害に関してはかばいあうものであることを、国民はよく理解しました。こうして、腐敗した共和政に対して、噴出先のない憎しみが国民の中で、発酵していったわけです。

パナマ運河疑獄事件が明らかにしたもう1つのことは、運河会社という私的事業と国家機構をとり持つ斡旋役をユダヤ人が独占していた、という事実でした。これは、その後に起きた「ドレフュス事件」に大きな影響を与えました。いや、ドレフュス事件の根は、このパナマ運河疑獄事件にあったと言ってもよいかもしれません。

パナマ運河会社が議員や官僚を買収した際のお金の配分を担ったのは、ジャーク・レーナックとコルネリウス・エルツという名の2人のユダヤ人でした。彼ら同士は互いに悪事をタネにゆすりあう関係であったのですが、一大疑獄事件に発展したその端緒は、そのうちの1人が自分だけの免罪を条件に、収賄議員の一覧名簿を新聞に譲り渡したことから始まったのです。

結局はその後、彼ら自身が「いけにえ」の役目を負わされることとなり、「国の経済・政治を牛耳っているユダヤ人」に対する憎しみの火がついたのです。

ところで、これをお読みのあなたは、「ドレフュス事件」ってご存じでしょうか? 上記のパナマ運河疑獄事件が発覚してから数年後の1894年に、フランス社会を揺るがした事件なのですが、ヨーロッパ諸国の帝国主義的発展とその後の戦争の時代に、大きな関わりがあったと私は思っている重要な出来事でした。

ヨーロッパの近代史の本には必ず登場するこの事件です。いささか長くなりますので恐縮ですが、ついでにちょっと「ドレフュス事件」の顛末もお話してみます。

時は1894年(日本では日清戦争が始まった年です。これもまた日本の帝国主義発展の大きな一里塚でした。)、パリのドイツ大使館から1通の手紙が盗み出され、それが回り回ってフランス陸軍省の手に入りました。ところが、その手紙の中に、フランス陸軍の機密文書のリストが記載されていたから、たいへんなことになったのです。つまりフランス陸軍の中枢にスパイがいることが明らかになったわけです。

当時のフランスの状況はと言えば、普仏戦争(1870〜1871)でプロシャ(ドイツ)に大負けして、アルザス・ロレーヌ地方を奪われ、工業生産力もアメリカ、ドイツに抜かれて、世界第4位に転落して焦りを深める一方では、チュニジアやインドシナを植民地化するという、帝国主義的競争のまっただ中におりました。

また、フランス国民の戦争相手国ドイツに対する復讐心は強く、社会的には軍部や右翼が台頭し、第三共和制を揺るがしておりました。王党派、ボナパルト派などもこれに加わり、第三共和制を倒して、軍部独裁政権の樹立をねらうクーデター計画まであったくらいです。(ブーランジュ事件 1889年)

こういう雰囲気の中では、必ずと言ってよいほど「産軍複合体」の利益を代表して、争いの中で金儲けを企む「愛国者」を自称する輩が多く登場します。「愛国主義」を声高に叫び、それを他に強制する人達の本質には、昔から指摘されているように、常に自己の利益追求がその隠された根底にあるものです。このあたりは現在もまったく変わっていませんね。

ところでドレフュスは、アルザス出身のユダヤ系フランス人で、当時フランス陸軍参謀本部に勤務していた砲兵大尉でした。事件発覚後まもなく、彼がこのスパイ事件の犯人として逮捕され、右翼、愛国主義者達の声高な主張の中、陸軍は異例の速さで軍法会議を結審させ、無罪を主張するドレフュスに終身禁固刑を言い渡して、官位剥奪の上、南米ギアナ沖の悪名高い監獄へ送り込んでしまいました。実質上は、死刑のようなものでした。そこは、ひどい環境で、どんな人でも、とうてい長く生きられるような場所ではなかったからです。

ところが、実は真犯人は別にいたのです。事件発覚の2年後に、陸軍情報部のエステラジー少佐が犯人であったことが、陸軍の内部調査で判明したにもかかわらず、陸軍は体面を保つために、そのもみ消しをはかりました。

そしてこのあたりから、お金と権力、それに社会的な名誉を求める亡者達の暗躍も始まり、フランス社会を2分する大騒動になりました。

反ユダヤ主義、愛国主義、産軍複合体の利益擁護、帝国主義的権益の保護、排外主義等々が声高な主張を繰り返す中、軍部や産軍複合体の横暴を非難して、真実を明らかにせよ、という世論も沸き上がってきました。

その代表的な論客は、作家のエミール・ゾラです。「私は弾劾する」という大統領宛の公開質問状を新聞紙上に発表し、ドレフュス擁護の論陣を張ったことで有名です。多くの知識人、自由主義者達も立ち上がりました。この時フランス国民は、その後のナチスにも通じる、排外主義、帝国主義の途か、共和主義の途のいずれをとるのか、選択を迫られていたのです。

ところで、パナマ運河会社の最盛期に、社債投資によるお金儲けに熱中したのは、植民地事業への投資の見返りを期待した小金持ちばかりではありませんでした。国家機構を利用して国民から金を巻き上げ、私腹を肥したのは、政治家、議員達、そして官僚、更にはスキャンダルをタネに議員たちをゆすって、ひと儲けを企んだ新聞界等、要するに徒党に分裂したフランス共和政そのものであったのです。

スキャンダルの連続と破産の大波の中から、多くの国民は、自分達が代表されていない議会を憎み、そして自分達を破産させた社会の在り方を憎んだのです。また、こうした人々の凶暴な憎しみを煽り、組織し、方向を与えたものは、減びつつある古い社会の基盤に依って立ち、共和政にひと泡吹かせようとチャンスを狙っていた軍とカトリック教会の勢力でした。

そして彼らの標的となったのが、「いけにえ」としてのユダヤ人将校ドレフュスだったのです。さらに悲劇的なことは、その後、ドレフュスの無罪が明白になった時点でもなお、フランス共和制はドレフュスという1人の人間に下された誤まった審判を正すことが出来なかったことです。

世界中からの非難と注目の中、1900年の「パリ万博」の開催までもが危ぶまれる事態となった1899年9月に開かれた事件の再審で、ドレフュスは情状酌量禁固10年に減刑され、その1週間後、大統領特赦で釈放されました。そしてその年の暮れ、大赦によってドレフュス事件は「終止符」を打たれることになりました。

1906年、クレマンソー内閣の発足と同時に、また再審が開始されたのですが、そこでも、「無罪」を下すことは裁判機構上「権限」がないとされ、ついに暖味なまま終わりました。あれほど広範に国中を覆った反ユダヤ主義の嵐に対しても結局、理性的なケリをつけることができなかったのです。さらに、1909年、ドレフュスは暴漢に襲われたのですが、結局暴漢は無罪となりました。

感情的議論と憎悪をベースにした愛国主義や、拝外主義は、極めて凶暴なものですし、もっとも警戒すべき国民感情だと思います。それは戦争の世紀と言われる20世紀の凶暴性そのもののようにも思えます。その後のナチスドイツ、大日本帝国等がたどった道を考えると、こうした感情的愛国主義、拝外主義は、極めて危険な意識だと言わざるを得ません。

現在の日本も、周辺各国との関係において、感情的な論が声高になりそうな危険性を私は強く感じています。そしてそれを煽り、それに便乗して国家主義的な施策を次々と投入しようとしている政府があります。だからこそ、憎悪や感情をむき出しにした議論の危険性を、歴史からも大いに学んでいきたいと痛感しているのです。

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