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140 「乱」と「変」
2014年6月29日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。
承久の乱(じょうきゅうのらん)って、どこかでお聞きになったことがあるでしょう? 平安時代末期に、平清盛を棟梁とする平氏が朝廷や公家から次第に権力を奪い取り、それまでは朝廷の番犬に過ぎなかった武家が政治権力を持つ存在として台頭する途を開いたことはよく知られていますね。その平氏を武力で打倒した源氏は、言わば伏魔殿であった京都を遠く離れて、東国の鎌倉に幕府を開きました。これは頼朝を中心とする源氏による、当時の武家にとっては、それなりに画期的な策であったと思います。

しかし鎌倉幕府の成立後も、新興の幕府の支配が直ちに全国に及んだわけではありませんでした。たしかに鎌倉幕府は、東国を中心として各地に守護、地頭を配置し、警察権も掌握していましたが、西国への支配は決して十分ではありませんでした。西日本では朝廷の力が依然として強く、全国的に見ますと、幕府と朝廷の二頭政治の状態にあったのです。

この宙ぶらりん状態に決着をつけ、鎌倉幕府が圧倒的に力を強め、朝廷権力を没落させたのが、1221年(承久3年)に起きた承久の乱です。

双方の当事者の筆頭は、幕府側は源頼朝の正室、北条政子とその実弟で執権の北条義時(頼朝は、1199年に亡くなっていました)そして朝廷側は、多方面にわたって活躍した、「新古今和歌集」の編纂にも関わったあの、後鳥羽上皇です。

後鳥羽上皇と言えば、壇ノ浦で亡くなった安徳天皇の次に後鳥羽天皇として即位した人物です。たしかに才気にあふれていたようですが、壇ノ浦で失われた「三種の神器」のひとつ、宝剣がついに見つからないまま即位せざるを得なかったという事情も抱えていたようです。そのせいか、強力な王権の存在を示すために、内外に対する強硬な政治姿勢を取ったことでも後世に知られています。

浄土宗の開祖、法然を弾圧し、専修念仏の禁止、さらに法然の弟子4人の処刑と法然の追放という自らの采配による強硬な行為も、後鳥羽上皇のこうした心情の発露かもしれません。でも弾圧された方は、たまったものではありませんね。

よく知られていますように、後鳥羽上皇は「新古今和歌集」を自ら編纂したり、武芸にも通じて狩猟を自ら行うなど、異色の天皇でした。また、それまでの北面武士に加えて、西面武士を設置し、朝廷としての軍事力の強化も行っていました。

鎌倉幕府成立後、次第に政治権力や荘園からの年貢の取り分などをめぐって、後鳥羽上皇と幕府の緊張関係は高まり、1221年5月、後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え(やぶさめぞろえ)」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士達を集めて挙兵しました。手始めに当時幕府の出先機関であった京都守護職を襲い、これを討ち死にさせたのです。

同時に後鳥羽上皇は諸国の御家人、守護、地頭らに時の鎌倉幕府執権、北条義時追討の院宣を発しました。平氏追討の院宣を発した後白河法皇と同じやり方です。それにより、朝廷方の士気は大いに上がり、「朝敵となった以上は、北条義時に参じる者は千人もいないだろう」と挙兵側は楽観的でした。

後鳥羽上皇挙兵と院宣発令の報に鎌倉幕府側の武士は一時、動揺しかかったのですが、ここで有名な源頼朝の正室、北条政子の演説があったのです。館の庭先に集まった多数の御家人達に対して、鎌倉幕府創設以来の頼朝の恩顧を訴え、「讒言にもとづいた理不尽な義時追討の綸旨を出して、この鎌倉を滅ぼそうとしている上皇方を討伐して、実朝の遺業を引き継いでいく」よう命じる、以下のような、涙ながらの堂々たるスピーチを行ったのです。

「皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ浅からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に参らんと慾する者は、只今申し切るべし。」上皇方につきたいものは、今すぐ申し出よというわけです。

こうして武士達の動揺を抑えた鎌倉幕府は、京都に向けて軍勢を発しました。鎌倉の武士達は院宣に従い、北条義時はすぐに討伐されると信じ、幕府軍の出撃などは予測していなかった朝廷側は大いにあわてました。「院宣」や「朝敵」という言葉の威力に頼り切っていたのです。でも一方は、公家の番犬扱いから、やっと抜け出しかかっていた新興勢力の武士団です。荘園制度や年貢で苦労していた時代から、自らの領地を持ったありがたみを痛感していたわけですから、またあの時代に逆戻りすることは到底我慢ならないことでした。

結局、関東から3方向で京都へ進撃した幕府軍は、美濃、尾張等各地で朝廷側を撃破し、京都への快進撃を続けました。相次ぐ敗戦の知らせに朝廷側は動揺し、洛中は大混乱となりました。

あわてた後鳥羽上皇は自ら武装して比叡山に登り、僧兵の協力を求めましたが、上皇のそれまでの寺社抑制策や、寺社に対する強硬な姿勢に反発していた比叡山は、これを拒絶しました。そこで朝廷側はやむなく残った全兵力をもって宇治・瀬田に布陣し、宇治川で幕府軍を防ぐことに決め、一部の公家も参陣しました。口先だけの公家にしてはまことに異例なことでした。

でも兵力と士気の差は明らかで、朝廷側は潰走し、幕府軍が京都になだれ込み、朝廷側の寺社、公家、武士達の屋敷に火を放ちました。

「承久記」によると、敗走した朝廷側の武将、藤原秀康、三浦胤義、山田重忠などは最後の一戦をしようと御所に駆けつけましたが、上皇は門を固く閉じて彼らを追い返してしまいました。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨したとあります。

ここに至り、後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして、北条義時追討の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を発しました。同様なことは歴史上には何度もありましたが、なんとまあ身勝手で見苦しいことでしょうか。上皇に見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠ら朝廷方の武士は東寺に立てこもって抵抗しましたが、すぐに討ち取られました。

この乱の結果、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。親鎌倉幕府派で、挙兵前は後鳥羽上皇によって拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになったのです。

後鳥羽上皇が持っていた広大な荘園は没収され、行助法親王に与えられましたが、その実質的な支配権は幕府が握りました。

討幕計画に参加した上皇方の「合戦張本公卿」と名指しされた一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、坊門忠信らその他の院近臣も各地に流罪になったり謹慎処分となりました。また藤原秀康、藤原秀澄、後藤基清、佐々木経高、河野通信、大江親広ら一部御家人を含む朝廷に与した武士達も多数粛清、追放されました。

この承久の乱後、幕府軍の総大将であった北条泰時、時房らは平氏が根拠地とした京都の六波羅に、六波羅探題を設置し、朝廷の監督・監視や西国武士の統率を行うようになりました。こうして皇位継承をも含む朝廷に対する鎌倉幕府の圧倒的な統制が実現したのです。平清盛が夢見た武家政治が、ここでやっと実現したと言えると思います。

ところで、この「承久の乱」のことを「承久の変」と書いている場合があります。歴史上で「変」とは、不意に発生した政治的・社会的事件を指し、「乱」とは武力の行使を伴う事件を指します。そういうことから言いますと、双方併せて10万以上の兵力による武力行使があった「承久の乱」は、決して「承久の変」ではないと思います。

実際、この事件については大正中期までは「承久の乱」の表記が主流でしたが、日本社会が大正デモクラシー時代から、軍国主義時代に変化する段階で、なんとこれが「承久の変」という表記に変えさせられました。たかが「乱」から「変」への一文字の変化なのですが、実はその根底にはとても大きな思想的な意味があったのです。

それは皇国史観です。天皇や天皇家を絶対的な存在として理想化・絶対化し、日本の歴史を特別視する思想を根底にした極めて危険な歴史観です。「大日本帝国臣民」をあの悲惨な戦争に駆り立てた歴史観です。

この「承久の乱」の場合も、上皇が「反乱」を起こすはずがないという皇国史観の思想的立場を優先させて、「承久の変」としたわけです。でも事実、大規模な戦乱が発生したこの事件を「変」と呼ぶのは無理がありますよね。という次第で、戦後は再び「承久の乱」という表記が主流になっています。

でも注意しておきたいのは、最近動きが活発化している一部の教科書などでは「承久の変」という表記が復活しているのだそうです。たった一文字のことですが、その根底にある考え方を思いますと、決しておろそかに考えてはいけないと思います。社会の流れは、こうして変えさせられてしまう危険性があるのですから。日本を急速に危険な方向に向けようとしている現政権のやり口を見ていると、この一文字は絶対に譲ってはならないことだと思います。ですから私はこれからもずっと「承久の乱」と言い続けます。
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