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日比谷公園と本多静六氏 |
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2017年3月9日 |
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 | 原田 美佳 [はらだ みか]
東京都出身。学生時代から長年関わった韓国文化院を2015年末に退職。現在は、日本ガルテン協会の広報部長の仕事をしながら、これまで関わってきた韓国文化を日本に紹介するための著作、交流活動を中心に自分のライフワークを模索中である。共著書に『コンパクト韓国』(李御寧監修)、『読んで旅する韓国』(金両基監修)、「朝鮮の王朝の美」、『朝鮮王朝の衣装と装身具』などがある。 |
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▲ 「公園の父」と呼ばれる本多静六氏によって設計された日比谷公園の一部。江戸城の堀の石垣の一部を利用している。 |
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▲ 日比谷公園見取り図 |
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▲ 本多氏が守った大木の「首賭けイチョウ」は、日比谷公園内のレストラン『松本楼』の前にある。 |
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日比谷公園ほど多くの人々が思い出をもつ庭はほかに多くはないだろう。 東京のど真ん中にあって皇居に近く、霞ヶ関、帝国ホテルもすぐ前である。
日比谷公会堂で初めてオーケストラを聴いた人もいれば、日比谷図書館で学んだ人、フォーク、ロックなどを野音で楽しんだ人、日比谷花壇で薔薇を買った人、テニスを楽しんだ人、松本楼で100円カレーに並んだ人…とさまざまであろう。政治家の山縣有朋や大隈重信の葬儀が行われたのも、この日比谷公園であった。 私自身は、2009年から日韓両国間の文化交流の一環として開催されている「日韓交流おまつり」が年々規模が大きくなり、数年前から日比谷公園で行うようになり、公園内に設営されたテントで、勤務先の韓国文化院の職員として、毎年2日間、千人ほどの韓服の試着を手伝った思い出がある。 日比谷公園は、「公園の父」と呼ばれる本多静六博士が、ドイツ留学から帰国後、1903年に江戸城の堀の石垣の一部と心字池や雲形池といった日本庭園の要素を残しつつ、西洋式の公園として作ったものである。 近代的な洋風公園には、公会堂、図書館、花壇、音楽堂、スポーツ施設、遊歩道、噴水、食堂の8つの要素が必要だといわれる。
本多静六氏はその後、明治神宮、大濠公園、偕楽園、羊山公園と、北海道から鹿児島まで日本国内で数百ともいわれる国立公園、風景地、水源林などの設計改良と林業に尽力した。そのなかで明治神宮は百年の計で作られた都会の人工森であるが、実は我が家に近く、最近は公園から我が家のベランダに毎日のように飛んでくる鳥たちが母を喜ばせてくれている。 日比谷公園内のレストラン『松本楼』の前にある大木の「首賭けイチョウ」をめぐって、本多氏の人柄を表す象徴的なエピソードがある。日比谷通りにあって切られそうになったこの銀杏の木は、自分の首を賭けてでも守るといった氏の愛情と優しさによって生き残り、今も大きくそびえている。 作庭当時は、花壇から花を盗む人がいるのではないか、門がなければどうするのか…などさまざまな批判が寄せられたという。日比谷公園のみならず多数の公園を手掛けるには、努力だけでは補いきれない財政面での苦労もあったろうと想像する。 氏は苦学生の頃から、師にいわれた「経済の自立なくして、自己の確立(精神の確立)なし」をモットーに、「四分の一天引き預金」を自分に課し、給料から投資なども続け、退職時には資産家となって、自らが成した財のほとんどを公益関係・育英関係の諸団体に寄附したといわれる。 流れる水のごとく弛みなく強く生きよ、「人生即努力、努力即幸福」が本多氏の教訓でもあった。
長寿社会の今、生活に必要な経済力をもち、見栄を張らず、心も持ち物も断舎利しつつ、日々努力して幸せに生きる…一昨年末、長年勤めた仕事を退職した私自身も今後、父が主宰する「日本ガルテン協会」の仕事をしながら、本多先生のこの処世訓のように生きることができればと願う。
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