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144 「漱石枕流」
2014年8月31日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。
猛暑が急に中断し、秋のような気候が突然やって来ました。気温が一気に10度も下がると、身体の適応はたいへんですが、私の場合は本を読む気持が少し強くなります。

そんな中で久しぶりに、半藤一利(はんどう かずとし)氏の本を読みました。半藤氏は、現在は近現代史、とりわけ昭和史に関わる様々な著作で名のある作家ですが、かつては、文藝春秋編集長から、さらに同社専務取締役までこなした文芸界の著名人でもあります。

ちなみに氏が結婚した相手、つまり奥様は、夏目漱石の孫にあたる末利子さんです(漱石の長女、筆子さんの娘さん)。ですから、半藤氏は夏目漱石の義理の孫にあたることになります。

という方ですが、氏が太平洋戦争終結までの日本近現代史を見る目は、まことに適確だと私は思っています。皇国史観や、肥大化した軍部や軍事産業に関する分析は本当に見事だと思います。

そんな半藤氏の「漱石先生ぞな、もし」という随筆を先日読んだのですが、これは、あの文豪、夏目漱石の実像を楽しく知ることのできる、すばらしく面白い本でした。もしも関心をお持ちになった方がおられましたら、是非お読みください。文春文庫から発行されています。

その中の逸話のひとつに、夏目漱石の「漱石」の語源に関するくだりがありました。実はお恥ずかしいのですが、私はこの本を読むまで、漱石という名前の謂われを知りませんでした。(これは実は、かなりよく知られていることのようです。お恥ずかしいです。)

もしかして、これをお読みの方の中にも、うっかりして私と同様な方がおられるかもしれないという老婆心から、ちょっとご紹介させていただくことにしました。

漱石は、本名は夏目金之助と言いました。漱石は雅号なのですが、まあ考えてみれば、明治の作家は、ほとんど雅号を使っていましたね。坪内逍遙、幸田露伴、尾崎紅葉、森鴎外、嶋崎藤村などなど、すべてこれ雅号です。雅号とは、もとをただせば、中国の宋時代(960年 〜 1279年)末期に流行した文人趣味でして、それが400年くらい経ってから、江戸時代の日本に伝わり、盛んにはやった趣味趣向でした。日本では江戸時代からの伝統的な洒落のひとつでしたから、明治期はそれを引き継いだのでしょう。

実は漱石自身は、自分でつけたこの雅号を、後年は必ずしも気に入っていたわけではなかったようですが、「俗な雅号ではあるが、別に取り替えるのも億劫だから、そのまま用いている」と言っておられたとのこと。

さて、その「俗な」雅号の出典すら知らなかったこの私は、まことにお恥ずかしいことになってしまうのですが、漱石が「俗な」と言っているのは、中国・唐代の8世紀半ばに編纂された「蒙求」(もうぎゅう)という故事集から取っているからなのだそうです。

「蒙求」とは、歴史に名を残した様々な人物のエピソードや、その教訓などが、短編物語として数百もおさめられている故事集でして、平安時代に日本に伝わってからは、漢文・歴史・故事・教訓を学ぶための入門書として大いに読まれました。貴族だけでなく僧侶、武士階級の人々が学芸を学ぶ時の初心者用入門書だったのです。

それによると「漱石」の謂われはこうです。

もともと中国には「枕石漱流」(ちんせきそうりゅう)という言葉がありました。「枕」は眠る時の枕、「漱」は口をすすぐという意味です。ですから、「枕石漱流」とは、「石を枕にして眠り、川の流れで口を漱(すす)ぐ」ということになります。これは、そのように俗世間を離れて自然の中での生活を楽しむこと、つまり隠遁生活をするという意味でした。

三国志で有名な三国時代(180年頃〜280年頃)の末期から西晋時代(265年〜316年)に生きた、西晋の孫楚(そんそ)という人物は、かねてから秀才の誉れ高い人物でした。

この孫楚(そんそ)が、ある時、隠遁を決意したことがあり、親友の王済(おうさい)にその気持を打ち明けました。その時、「枕石漱流」(ちんせきそうりゅう)と言うべきところを、間違えて「漱石枕流」(そうせきちんりゅう)と言ってしまいました。これでは、「石で口をすすぎ、川の流れを枕にする」ということになってしまいます。

それを聞いた王済は、「流れを枕にすることなんかできないし、石で口をすすぐことなんかできないじゃないか! 君の気持はそんな程度なのだから、隠遁なんか、とても無理だよ。」と笑い飛ばしました。

でも突っ込まれた孫楚はすかさず、「流れを枕にしたいというのは、汚れた俗事から耳を洗いたいからで、石で口をすすぐというのは、汚れた歯を磨こうと思ったからだよ」と言い返しました。もちろん負けず嫌いの屁理屈の反論です。

でも、王済はこの切り返しをみごとだと思ったのでしょう。この故事が元になって、「枕流漱石」とは、負けず嫌い、へそ曲がり、屁理屈を言う者、とかいう意味になったのだそうです。

ちなみに、感心する意味で「流石」を「さすが」と読みますが、これもこの故事が語源だという説があるのだそうです。広辞苑にも、「流石」は「さすが」の当て字だとありますが、私もかねてからどうしてこんな読み方をするのか不思議に思っておりましたが、これで納得できました。明らかな言い間違えを、屁理屈ながら即座に反論したのは、「さすが」だということなのでしょう。

実はこの雅号は、当初、漱石と交友のあった、俳人の正岡子規が使っていたものを、夏目漱石が譲り受けたものなのだそうでして、つむじ曲がりで負け惜しみが強かったおのれへの自省の気持を込めた雅号であったろう、というのが義理の孫の半藤一利氏の結論でした。

漱石の由来、おわかりいただけましたか? ちなみに、隠遁生活を決意した孫楚は、一生ついに隠遁とは無縁の人生だったようです。「枕流漱石」は、やっぱり屁理屈だったなあ、というところですね。
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