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145 桂離宮と豊臣秀吉
2014年11月7日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。
▲ 月の字形引手
▲ 花手桶形引手
▲ 市女笠取手 & 松葉形引手

長年にわたり京都にはずいぶんと足繁く通った妻と私が、拝観を望みながらも、それを果たしていない場所が未だいくつかあります。その代表格が、過日までは桂離宮でした。

市内から五条通りを西に向かって進み、西京極運動公園を過ぎたあたり、桂川を西大橋で渡る際に、南側にこんもりとした茂みが見えてきます。総面積は1万7千坪以上といいますから、かなりの敷地面積です。それが江戸時代初期に創建された桂離宮です。

でもここの拝観は宮内庁による完全な事前予約制でして、2〜3ヶ月先のスケジュールなど、仕事の関係でまったく決められない私達には、これまでは縁遠い存在でした。一度は見てみたいと思っていたのですが、直前の申し込みでは、まず予約が無理だったのです。

それが過日、偶然にも拝観できることになりました。決してずるい方法を使ったわけではありません。キャンセルによってできる空席を入手することができたのです。まあ、それも一種の裏ワザと言えば言えるのですが、知っていればどなたでも可能な、しかも至極まっとうな方法です。

ところで桂離宮は、創建以来、1883年(明治16年)に宮内省が管理を始めるまでは、桂山荘と呼ばれていました。所有者は安土桃山時代に創立された八条宮家でして、桂山荘は八条宮家の別荘だったのです。そういえば「離宮」とは、皇居以外に設けられた天皇や上皇の別邸のことです。八条宮家は、天皇や上皇を出したわけではありませんので、それに該当していなかったのです。

記録によれば、桂山荘の普請が始まったのは1620年で、創建を始めたのは八条宮(はちじょうのみや)智仁(としひと)親王で、その子、智忠(としただ)親王が完成させたということですから、親子2代がかりの大事業だったのです。

初代、智仁親王が1629年に50歳を前にして亡くなると、一時山荘は荒廃した時期があったのですが、2代目が、1642年に加賀・前田家から奥方を迎えると、加賀藩や将軍家の財政的援助を受けて改修を進め、1640年代末頃に完成させたもののようです。

ところでこの記事のタイトルに「桂離宮と豊臣秀吉」と書きましたが、1598年に亡くなった豊臣秀吉が、没後20年以上経ってから建設が始まった、この桂離宮とどういう関係があるの?というのが、今回のおしゃべりの主なテーマです。桂離宮に関して、秀吉の名前が登場することは私の知る限り皆無なものですから、きっと不思議に思われる方もおられることと思います。

ちなみに初めて中に入って見た桂離宮は、想像以上にすばらしいものでした。多くの建物や庭園づくりのセンスと、その裏付けになっている趣味の良さと教養の深さは、さすがに見事と言うべきものでした。季節の異なる時期にまた是非拝観したいと思っています。

桂山荘完成の少し後に、後水尾天皇の命を受けて徳川幕府が造営した修学院離宮(造営期間は1655年〜1659年)と比べますと、桂山荘の総面積ははるかに小さいのですが(桂離宮の1万7千坪余に対して、修学院離宮は16万5千坪余)、その造営的センスは、私見ですが、やはり桂離宮の方が上回っていると思います。

さて、秀吉との関わりですが、初代の智仁親王は、1579年(本能寺の変の3年前)に生まれたのですが、1588年、9歳の時に秀吉の猶子(ゆうし)となりました。この猶子とは、現在は存在しませんが、明治以前の日本にあった制度でして、養子に近いのですが、養子とも少し違うのです。

他人の子供を自分の子として親子関係を結ぶことには違いないのですが、養子とは異なり、より契約関係的な面が強く、しかも子供の姓は変わらないのです。つまり親子としての結びつきが弱く、擬制的な側面が強いのです。現代の観点では、「特に目をかけている(被)後見人」と考えると理解しやすいようです。

猶子の目的としては、 

1) 官位などの昇進上の便宜
2) 婚姻上の便宜
3) 他の氏族との関係強化

などが挙げられるのだそうです。秀吉と智仁親王の場合は、1)と3)がからんでいたようです。智仁親王は、祖父が正親天皇で、父はその第一皇子でしたが、智仁親王はその父の第六皇子として生まれましたので、彼自身が皇位につく可能性は、まずなかったのでしょう。

でも秀吉の猶子となることで大きな後ろ盾を得て、一時は将来の関白の座を約束されたことがあったのだそうです。これが1番の内容です。さらに豊臣家と皇室の関係強化という側面も強いので、これが3番の内容です。そういえば、秀吉自身も、近衛前久の猶子となってハクをつけ、その後、関白に就任したという経緯があります。

ところが、1589年5月27日に、秀吉の側室となった淀の方が、秀吉の子、鶴松を出産したところから、事態は変化しました。ホンネでは秀吉にとっては自身の子供がいなかったことが、猶子を持つ最大の理由だったものですから、鶴松が生まれたことにより、智仁親王との猶子関係を解消することに踏み切ったのです。いかにも秀吉らしい決断ですね。でも結局、鶴松は3歳で病死してしまったのですが、それはその後のことでした。

こうして1590年、親王が12歳の時に、猶子関係は解消され、いわばその代償として八条宮家が1590年12月に設立されたのです。八条宮家の屋敷は、御所の北側、現在の同志社大学や今出川通りに面した地に与えられました。石高は山城国に3千石を与えられましたが、これは他の親王家と比べて最も大きな石高でした。

ちなみに親王家という宮家は4つありましたが、他の伏見宮家、有栖川宮家、閑院宮家の石高は、それぞれ、ほぼ千石程度でしたので、新設の八条宮家の3千石が如何に大きな石高であったかがわかります。これはもちろん、秀吉側の慰謝料としての意味合いがあったことは容易に推測がつきます。

豊臣秀吉は、1582年に織田信長が本能寺の変で没すると、急速に天下取りを進め、1585年に関白となって全国統一を果たしたものの、1598年には病没していますから、いわば「天下人」として活動したのは、15年足らずでした。そんな短期間に今でも名前の残るたくさんのことを、京都を中心にやってのけたわけですから、たいへんな人物であったことには違いありません。

とりわけよそ者には得体の知れない、ラビリンス(迷宮)の中にあるような公家社会や朝廷を上手に活用し、多くのことをやってのけたわけですが、基本的には経済的な力を最大限に利用したのだと思います。出自といい、教養や趣味といい、公家社会は秀吉を敬意を持って迎えたとは到底思えないのですが、今に残る足跡は秀吉に好意的なものが多いのです。つまり秀吉は、公家社会からあまり悪く言われていないのです。まあ、これは後の徳川幕府に長い間、陰に陽に締め付けを受けた朝廷や公家社会が幕府を否定するために意図したという側面もありますが、それにしても秀吉の功績を好意的に受け止めた跡は京都にはたくさん残っています。

私見ですが、この主たる理由は経済的、つまりお金を大量にばらまいたことだと思います。それも従来、都に乗り込んで来た覇者達とは異なる水準で。

現在残る桂離宮のすばらしさは、もちろん発注主の八条宮家の2人の親王の意向や趣味、教養が前提ですが、秀吉からの猶子関係解消時の「慰謝料」も大きな力を果たしたように思えてなりません。他の3つの親王家の石高の約3倍という破格な石高に加えて、秀吉のことですから、かなりの金額の「慰謝料」的なお金を支払ったに違いありません。

友人に茶道のかなりの達人がいるのですが、彼女はこれまでに桂離宮を数回訪れています。各地の名だたる茶室や名刹を熟知しているその方が、桂離宮は別格だと、しみじみと語っておられました。あそこは間違いなく「超」が付く一流だと。

上の写真は、桂離宮内の書院にある引手や取手です。ふすまや開き戸の引手や取手なのですが、ここまで凝った装飾性は、まず他では見ることがありません。少なくとも私の知る限り、ここが最高です。こうした余裕の元は、やはり秀吉ではないかと過日、桂離宮内でスタッフの方の詳細な説明を受けながら考えておりました。またその内、2度目の拝観に挑戦してみます。

ちなみに、上の写真は上から、こんな名前がついておりました。

月の字形引手

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