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かくてありけり
45 原爆を撮った男
2007年8月6日
沼田 清 沼田 清 [ぬまた きよし]

1948年、新潟県生まれ。千葉大学工学部卒業。2008年、通信社写真部を卒業、以後は資料写真セクションで嘱託として古い写真の掘り起こしと点検に従事。勤務の傍ら個人的に災害写真史を調べ、現在は明治三陸津波の写真の解明に努めている。仕事を離れては日曜菜園で気分転換を図っている。
 今年もまた広島原爆の日がやってきた。実は6月から広島原爆の報道史を調べていた。記事の一報は当時の同盟通信広島支社の中村敏編集部長が広島近郊の原村にあったNHKの原放送所の連絡電話を借りて、NHK岡山放送局経由、同盟通信岡山支局へ送稿し、東京の本社へ昼前に伝えたことが知られている。「6日午前8時16分頃、敵の大型機1機ないし2機、広島上空に飛来し特殊爆弾を投下、広島市は全滅した。死者およそ17万人の損害を受けた」17万という数字は本社で桁を間違えたと受け止められ、最初は信じてもらえなかったようだ。

 では写真の第一報はどうだったろうか?中国新聞写真部員の松重美人氏(故人)が原爆投下当日、市内御幸橋で無残な犠牲者の姿を撮ったことは有名だが、それが公表されたのは翌年の7月である。それまで一切の写真報道はなかったかというと、1945年8月19日以降の全国の主要新聞に「焦土と化した広島市街」や「爆風で吹き飛び転覆した貨車」など惨状を伝える写真が掲載された。しかし撮影日付もクレジットもなく、詳細は不明であった。報道写真に携わる者として「誰が撮ったのか」調べてみたいと思っていた。ところが昨年9月24日付で中国新聞がずばり答えを出してくれた。これらの写真は、同盟通信大阪支社編集部の中田左都男記者(当時25歳)が撮影したものであったと。

http://a-bombdb2.pcf.city.hiroshima.jp/PDB/PDBimage.jsp?ImageURL=images/PDB050/HH150.jpg

 後に作家の石川達三が「戦いの権化」という作品の中で「あの広島の焦土の荒寥たる報道写真の方が、ロシヤの美術家の名画より七倍も十倍も凄惨な鬼気を描いている」と書いたのは、中田記者の写真を念頭においたものといってよいだろう。また外国特派員の先駆けとして9月2日に現地入りしたウィルフレッド・バーチェットの「スチームローラーをかけられ消滅してしまった広島」の表現もこの写真をイメージして書かれたのではないか。これほど強烈なインパクトを読者に与えながら、撮影者については知られないままだった。その経緯を丹念に調べ上げたのは中国新聞のN編集委員である。手掛かりは原爆記録映画制作に携わった日本映画社の相原秀次氏が残した膨大な資料と、1973年に米国から返還された千数百枚の写真記録である。
 
 中田記者は海軍が委嘱した大阪大学の調査団に報道班員として同行、8月10日に広島入りし11日にかけて取材、撮影した。そのことは調査団報告にも記録として残っていた。中田記者は映画用の35瀬侫ルムを詰めたライカで30コマ以上撮ったと思われる。12日に大阪支社に戻ったが、支社は空襲で焼け難波橋下に仮住まいで写真部の現像設備も不十分なため、フィルムは東京本社に送り、そこで現像され、8月18日に写真は本社から全国に配信された。

 戦後乗り込んできた米軍は報道各社に原爆の記録写真を提出させた。その取りまとめを務めたのが日本映画社の相原氏であった。「相原資料」の中には中田記者撮影の写真32枚と彼についてのメモが残っていた。一方、米軍返還写真にはNAKATA Satsuo撮影と書かれた写真があり、両者は一致する。

 共同通信には同盟から継承した原爆の資料写真が残っているが、大半はいつ、誰が撮影したか不明なものが多かった。その内のかなりの分が、相原資料により中田記者撮影と分かった。さらに今回、ネガ庫を数日かけて調べたら、「転覆した貨車」「広島駅の建物とホーム」「西練兵場の黒焦げ遺体」など11コマのオリジナルネガが見つかった。そのうちの4コマは今まで知られていなかったカットだ。いずれも1〜2コマに切られ、あちこちに分散していた。露出も現像もオーバーで真っ黒なネガだが、大変貴重な歴史的記録である。

 「原爆を撮った男たち」と呼ばれる一群の人たちがいる。前述の松重美人氏を筆頭にその数は20人を超え、それぞれがどこで何をどう撮ったか明らかになっている。しかしその中に中田左都男の名前を見ることはほとんどなかった。同盟通信の業務を引き継いだ共同通信でも知られていない。彼が埋もれてしまった一番の理由は、本人が同盟解散時に記者を辞め、報道界とのつながりが切れたことだろう。
 投下後に現地入りして残留放射能に被爆することを「入市被爆」と呼ぶそうだ。入市被爆者となった中田記者は、自分が見た広島の惨状を、公の場で語ることはなかったようだ。N編集委員の調査では、同盟退社後、大阪で輸入洋品店などを営み、1994年に74歳で亡くなった。死因は肺がんの転移という。

 62年の時を経て残った中田記者撮影のオリジナルネガを見ていると、写真の記録性や証言力をしみじみと感じさせられる。彼の撮った広島の記録は「広島平和記念資料館ウェブサイト」(http://www.pcf.city.hiroshima.jp/)の「平和データベース」で「写真」のページを開き、「中田」で検索すると27枚を見ることができる。
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