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僕の偏見紀行
31 春の予感、鹿沢(かざわ)高原にて
2006年3月20日
時津 寿之 時津 寿之 [ときつ としゆき]

1945年、九州にて誕生。2010年4月65才で長年勤務したメーカーを定年退職。家族は息子2人が独立し、今は配偶者と二人暮し。趣味は読書、散歩、旅行。読む本は何でもジャンルを問わず、旅先も国内外を問わずどこでも、気の向くところへ。
▲ 白樺の向こうに赤みを帯びた落葉松林が見える。
▲ 原生林の白い雪上に伸びる木々の影
▲ 雪原に立つ
 3月初めの週末、信州上田駅で新幹線を降りた。さすがにまだ風は冷たいが、晴れ渡る青空に明るい日差しが眩しかった。

 それにしても今年の冬は事の外寒く、春が来るのが待ち遠しかった。さらに、今年は僕にとってもう一つ春を待ち望む切実な理由があった。
 
 鹿沢高原は、上田から宿の迎えのバスで約1時間、真田の里を抜け、峠道を登りつめた群馬県嬬恋村にあった。軽井沢とは浅間山をはさんで反対側に位置し、周囲は落葉松林や白樺、ブナ、ミズナラ等の原生林に囲まれ、温泉も湧いている。

 今回はいつもと趣きが多少異なり、いわゆる公共の宿「休暇村鹿沢高原」に宿泊したが、これが良かった。勿論、ぞろりとした着物姿の女将などおらず、サービスもビジネスホテル風のあっさりしたものであるが、僕には快適だった。温泉も大浴場と露天風呂が男女別にあって、これで1泊2食1万円以下なのはお得だと思う。

 ビュッフェスタイルの食事も、前菜からデザートまで充実しており、大いに満足した。血糖値を気にする僕としては、カロリー計算と元を取る精神の間で心が揺れ動き、食事コース組み立てに頭を痛めてしまった。

 翌日も上天気だった。早速、宿の周りを散策する。遠くの山すそに広がる落葉松林がなんとなく赤みを帯びているのは、もう新芽が芽吹きつつあるのだろうか。

 原生林の中を歩くと、落葉した木々の黒い影と白い雪のコントラストが美しい。見上げると、青空を背景にして、細い木の枝が逆光に浮かんで見える。その中を吹き抜ける風は頬を切るように冷たく澄み切って、ほてった身体に心地よい。

 足元の雪は30センチくらいあるが、人の踏跡を辿れば足をとられることは無い。油断して脇道へそれると踵まですぐ埋もれて歩けなくなる。変化に富んだ原生林の散策は飽きることが無かった。時に渓流にかかる短い橋を渡るが、雪が盛り上がっており油断できない。文字通り薄氷を踏む思いで、自然に早足となった。

 原生林の中は雪深くまだ冬の気配だが、樹間から降り注ぐ光はもう春の兆しに満ちている。もうすぐ春なのだ、やっと春がくるのだと思って嬉しかった。

 今度の春が待ち遠しかったもう一つの理由、それは4月一杯で今の仕事からリタイアすることだ。1年くらい前からこの日を待っていた。もともと僕は、仕事は60才まで、それ以降はやりたいことしかやらず、気儘に生きたいと思っていたのだ。

 若い頃読んだ高橋和己、かって全共闘世代に思想的影響を与えた、のエッセイに「人は、行軍に疲れた兵士が、その重みに耐えかねて愛する人の写真さえ捨てさるように、様々な思想や希望を捨てながら、その人生を生きていく。」とあった。僕自身一体何をどれだけ捨ててきたのだろうか。白い雪を踏みしめながら僕は考え続けた。
 
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