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縁の下のバイオリン弾き
122 ヘクター・ザ・ヒーロー
2016年2月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ アーネスト・ロングドンによる肖像画。スコットランド人の伝統衣装キルト(スカート)をはいている。
19世紀から20世紀の変わりめにスコットランドに J(ジェームズ)・スコット・スキナー(1843−1927)という作曲家がいた。自身もフィドル(バイオリン)をひいた人で特にエアー(air)という種類の曲で名高い。エアーを辞書で引くとメロディーだとか歌曲だとかの訳しかのっていない。民謡と訳される時もある。しかしケルト音楽でエアーというとある特別な曲調だ。ゆっくりした感傷的なメロディーの曲をさす。よく知られているアイルランド民謡に「ダニー・ボーイ」というのがある。お聴きになった方も多いと思う。あれが典型的なエアーで、もともとの題名を「ロンドンデリー・エアー」といった。

そのスキナーの有名な「ラメント」(哀悼曲)に「ヘクター・ザ・ヒーロー」というのがある。ラメントというからにはだれかなくなった人に捧げた曲であるはずなのだが、私はこのヘクターが誰だか知らなかった。ホメロスの「イーリアス」にトロイの英雄ヘクトールというのが出てきて最後にギリシャ軍の武将アキレスに殺されるから、あるいはこの人のことかもしれないと思っていた。

そうではないということを知ったのは比較的最近のことだ。なんのはずみだったか、この曲のことを調べたら、このヘクターというのはサー・ヘクター・アーチボールド・マクドナルド(1853−1903)という軍人でスキナーの友人だったということがわかった。

ヘクターはスコットランドの小作人の子で、食うためにイギリス軍の一兵卒になったのだが、その死をおそれない勇敢さで名をとどろかせた。アフガニスタン(ワトソン博士が負傷した)やアフリカ(ボーア戦争・スーダン戦役)で武勲をあげ、「ファイティング・マック」とたたえられた。勲章か士官になるかどちらがいいと聞かれ、士官になる道をえらんだ。それからも勇猛を世にうたわれ、戦略家としても名声をほしいままにした。出世街道をばく進し、最後は少将にまでなった。その軍功のためにサーに叙爵された。

彼は配下の兵隊から敬慕された。なぜかというと当時の士官はみな上流階級の出身で、下層階級出身の兵など頭からバカにして人間扱いしなかったのに、ヘクターは自身がたたき上げだから兵隊の気持ちがよくわかっていたのである。

それと同時にヘクターは同僚のはげしい嫉妬と羨望の対象となった。ただでさえ軍隊内では昇進が速いものはねたまれる。ヘクターはいわば英国の植民地であるスコットランドの下層階級の出身だ。それが上流階級の子息で構成されている軍隊上層部のなみいる士官をおしのけて栄誉に輝いた。

かれは長い海外体験を買われ、当時イギリスの植民地だったセイロン(現在のスリ・ランカ)の軍司令官に任命された。ところがここでかれは同性愛者だとして糾弾(きゅうだん)された。

「縁の下のバイオリン弾き35:パトリシア・ハイスミス」で書いたように軍隊における同性愛はアメリカでも2011年まで「臭いものにふた」のあつかいを受けていた。その100年前のイギリスでの同性愛者に対する迫害がいかにすさまじかったか、想像にあまりある。

ヘクターは軍法会議にかけられることに決まった。旅行中のパリのホテルでそのニュースを朝刊で読んだかれは何も言わず次の間に入り、ピストルで頭を撃ち抜いた。1903年、50歳のときのことだった。

この自決が自分の非を認めた結果だとは限らないことは切腹という伝統のある日本では理解されると思う。誇り高い軍人にとってあらぬ噂を立てられるだけでも耐え難い屈辱だったにちがいない。

死後、実はヘクターは30歳の時に15歳の少女と秘密結婚していて息子までいることが明るみに出た。この結婚を秘密にしていたのは相手が若すぎたから、そして貧乏だったからだそうだ。

このスキャンダルは英国の朝野をゆるがした。かれは軍隊内の嫉妬の犠牲者だったのだという評判がもっぱらだった。「公爵かなんかの息子だったらこんなことにはならなかっただろうに」という批評が残されている。

出身地スコットランドでは国民的英雄を惜しむあまり記念碑まで建てられた。J. スコット・スキナーは「ヘクター・ザ・ヒーロー」を作曲してすぐに出版した。死にいたるいきさつを考えると当時として勇気のいる行為だっただろうと思う。

「ヘクター・ザ・ヒーロー」はもちろん「英雄ヘクター」という意味だ。この題名にスキナーの抗議のすべてがこめられている。

去年6月、アメリカ合衆国連邦最高裁は同性結婚が憲法上の権利であると認めた。そのように世界が変わってきている現在から見ればヘクターが同性愛者であったかどうかは本質的な問題ではない。つまるところ、かれは無実の罪で社会から抹殺されたのである。


イギリスの階級意識には根強いものがあるようだ。先日テレビで俳優マイケル・ケインのインタビューをやっていた。かれはコックニー(ロンドンの下層階級)出身。30歳になってようやく「ズールー戦争」(1964)という南アフリカでの英軍を描いた映画で上流階級出の将校を演じて認められた。そのケインが言っていた。「私は断言してもいいが、イギリスの監督で私を高級軍人の役に使おうというものは一人だっていやしない。一人も、だ。『ズールー戦争』でそれができたのは監督がアメリカ人だったからだ」。この名優を使えない理由というのが下層階級の出身だからだ、というのだ。

マイケル・ケインも長年の映画に対する貢献により、サーに叙爵されている。それでも監督が英国人であるかぎりは(今でも!)高級将校の役はもらえない、という。

日本でもむかしは同じだったのだろう。維新戦争の時に高杉晋作が武士と農民・町人の混成部隊として「奇兵隊」を創設したのがいかに革命的なことだったか、当時の人でなければわからないことかもしれない。

明治から昭和にかけて軍の士官たちは自分たちを「さむらい」だと思っていた。それが私にはよくわからなかったけれど、考えてみればほかの世界はどうあれ、軍隊だけは階級が絶対で士官であれば命令ひとつでどのようにも動かせる兵がいたのだから、自分たちが「特別な人間である」と感じないほうがどうかしているのだろう。だから民間人を「地方人」と呼んでバカにし、統帥権(とうすいけん)という虚構のもと、天皇に直結しているという幻想に酔った。天皇が「主君」で、自分たちが麾下(きか)のさむらいだったわけだ。「文民統制」という概念も機構も日本にはなかった。

ヘクターは「兵営のにおいがする」とさげすまれた。足軽ふぜいが、という意味だ。 しかも植民地も同様のスコットランドの出身である。そのかれが帝国主義の尖兵としてアジアやアフリカを植民化する戦争で戦ったのは矛盾というほかはない。しかし植民地出身者はそのためにこそ本国人にもまして職務に精励しなければならないという宿命があっただろう。

ヘクターのような例はきわめてまれだと思われるが、日本軍にもよく似た経歴の持ち主がいた。洪 思翊(こう しよく、1889−1946)である。かれは当時の日本植民地朝鮮に生まれ、ほとんどあり得ないことだと思うが日本軍で中将にまでなった。

第二次世界大戦でフィリピンでの統治の責任を問われアメリカ軍によって処刑された。実際にその責任があったかどうかは議論のあるところだが、植民地に生まれ、偏見にさらされながらただひとつの出世の道として職業軍人を選んだのに、それがわざわいして殺されることになったのはかわいそうだと思う。

植民地生まれではなかったけれど、「朝敵」の烙印(らくいん)を押されながら将軍にまでなった会津出身の柴五郎(1860−1945)もそのような人ではなかったか。


私は軍隊というものにおよそ同情がない。平和憲法を持つ日本にうまれて幸せだと思うものである。だから誰が将軍になろうが司令官になろうがなんの興味もない。勇敢さが最大の美徳であるとされる風土自体、考えただけで身ぶるいがでる。軍隊を持つ「普通の国」にならなくていいと思うし、海外派兵を可能にする法律など論外だ。

しかしヘクターの場合のような悲劇には無関心ではいられない。嫉妬という漢字は女偏がついているけれど、実は本当に恐ろしいのは「男の嫉妬」だと思う。この感情のためにどれだけの男がためらいもせず醜い陰謀をたくらむだろう。どれだけの人材がその犠牲になることだろう。そのスケールの大きさのために「嫉妬」という言葉があてはまらないように見える場合がたくさんある。でも実は嫉妬なのだ。

ヘクターが優れた軍人だったことは軍歴が証明している。なんのうしろだてもなく、軍功だけによって兵卒から将軍になったなどという軍人は英国陸軍の中でもたぐいまれな存在だった。

それだけではなく、当時の軍人としては異例のことに、任地のことばを学んだ。ヒンドゥスタニ語、ウルドゥ語、パシュトゥーン語(インドとアフガニスタンの諸言語)およびアラビア語ができた。これも上流階級の高級将校にはできない芸当だっただろう。

どれもメジャーな言語とは考えられていなかったところに注目していただきたい。

英国の上流階級の生まれならば、一種の気取りとしてのフランス語は別として、そもそも外国語を学ぶ必要をはじめから感じないだろう。

イギリスの軍人で外国語に堪能だった人には「アラビアン・ナイト」を英訳したリチャード・フランシス・バートン(1821−1890)、また「アラビアのロレンス」として知られる T・E・ローレンス (1888−1935)がいる。二人ともアラビア語の達人だった。バートンは、方言もいれて40数ヶ国語を話したといわれる。

かれらはヘクターのような極貧ではなく、比較的めぐまれた階層の出だったが、それにもかかわらず英国の本流に溶け込むことができず、生涯をつうじてアウトサイダーだった。軍人として功なり名とげても悲劇的な最後を迎えなければならなかったヘクターとどこか共通するところがあるように感じられる。


ヘクターはそのあまりの人気の高さのため、死んだということがどうしても信じられない、という人たちによって、不死身伝説の主人公とされた。義経は衣川(ころもがわ)で死んだのではなく、大陸にのがれてジンギス汗になった、というあれである。

かれの死後10年ほど経って第一次世界大戦がはじまるのだが、ドイツ軍のアウグスト・フォン・マッケンゼン元帥(げんすい)が、何を隠そう狂言自殺を演じてひそかに国外にのがれたヘクター・マクドナルドその人なのだ、とささやかれた。マッケンゼンは年かっこうがだいたい同じで、傑出した名将だった。どこの国でも同じようなことを考えると見える。


この間から J・スコット・スキナーのこの曲をフィドルで練習しているので、主人公のヘクターのことをちょっと書く気になった。





「ヘクター・ザ・ヒーロー」をお聴きになりたい方はこちらへ。

https://youtu.be/TCwut-wg7fE
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