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宣告(下) |
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2009年11月10日 |
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 | 中山 俊明 [なかやま としあき]
1946年4月23日生まれ。東京・大田区で育つが中2のとき、福岡県へ転校。70年春、九州大学を卒業後、共同通信に写真部員として入社。89年秋、異業種交流会「研究会インフォネット」を仲間とともに創設、世話人となる。91年春、共同通信を退社、株式会社インフォネットを設立。神奈川県・葉山町在住。 |
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アメリカ1ヶ月の旅から帰国するやいなや、通信社時代の後輩Aから電話がかかってきた。
「お帰りなさい」 「いやにタイミングいいなあ。さっき自宅に着いたばかりだよ」 「そろそろかと思いましてね」
たぶんこの研究会サイトを見ていたのだろう。歳は十いくつか離れているが、同じ九州出身で気が合う。この男、話があっちへ飛んだり、こっちへ飛んだりで、何を話しているのか分からなくなることがある。が、注意深く話を聴いていると、頭脳の回路が普通人と少々違っているだけで、実は頭のたいへん良い男だということが、僕には分かっている。
「いったいこの人はなにを言いたいのだろうと思うことがしばしばあるんですが、あとから考えると筋が通ったことを言っていたんだということが分かる不思議なひとです」というのが、彼と仕事をする記者の分析。思ったことをずばりという正義派だから、いまどきの大企業の流れには合わないかもしれない。その彼が奥歯にもののはさまったような言い方で尋ねる。
「あのーですね。言いたくなかったら別に言わなくてもいいんですが・・・」 「なんだなんだ。何かあったのか」 「研究会サイトのエッセイにあった、人間ドックのこと。あれその後どうなりました」
「宣告(上)」というのを書いたのが5月28日。なんとその後、(下)を書かないまま5ヶ月半も放置したままだ。気にはなっていたのだが、手付かずのままアメリカに発ってしまった。
「ああ、あれね。ワッハッハ。結局はなーんでもなかった」といった瞬間、電話の向こうで「あほうっ」というすっとんきょうな大声が上がった。
「すまん、すまん。じゃなにか、俺がガンの宣告を受けた。余命いくばくもない身でアメリカへ最後の旅に出た。そう来るか」 「そう来るか、じゃないでしょうが。普通のひとが普通に読めば、そう考えますよ。ったく。僕のようにあらぬ心配をしてる人がたくさんいるんじゃないですかっ」。社内で僕と親しくしている人たちに「なにか知りませんか」と聴いて回ったという。あーあ。
しかし確かに彼のいう通り、無責任の極みだ。急いで書かねば、と思いつつ日はどんどん過ぎる。孫、病気、株その他蓄財に関すること、この3つのテーマにだけは、仲間との会話でも、エッセイでも触れない―ということを大事にしてきたつもりだったが、ついその禁断の「病気」の世界に踏み込んでしまった。案の定、書いたはいいが収拾がつかなくなってしまったのだ。以下、正直に書きます。
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「宣告」を受けた病院からの帰り道、どんよりと鼠色に光る海を左手に見ながらハンドルを握る僕は、6年前に亡くなった友人Sのことを考えていた。研究会インフォネットをともに立ち上げ、副代表として活躍してくれた彼のことは「親友」と書くべきだろう。だが、彼の死後、「われわれは果たして『親友』だったのだろうか」と考え続けている。なぜなら彼の死を知った(知らされた)のは、彼とごく「普通のつきあい」だった人たちより、僕はずっと遅かったからだ。そのときのわだかまりめいたものが(正直に言うと)ずっと残っている。
今度は自分の番がめぐってきた。もし僕が余命いくばくもないという宣告を受けたら、どうするだろう。家族は別として、誰にそれを伝えるだろう。伝えるべき「親友」はいる。しかしその「親友」とはどこまでを言うのだろう。「親友」と「普通のつきあい」のあいだに存在する「友人」がけっこう多い。その「友人」にも近さの濃淡がある。いったいどこで区切ればいいのか。
区切り方がむつかしいと思うのは、過去に「通告」で失敗した経験があるからだ。23年勤めた通信社を辞めるとき、だれにまずその決意を伝えるか迷った。決意に迷いはなかったのでひとつの「方針」を決めた。組織人であるいじょう、退社が公けになるまで、秘密は厳守されねばらならない。そこで「退社に反対しそうもない同僚」から決意を伝え始めたのだ。僕の想像どおり、僕が退社のことを打ち明けた同僚たちはみな退社に反対しなかった。彼らは「親友」だからこそ、僕のことを理解していた。「秘密」が彼らの口から漏れることはなかった。
「その他」の同僚たちは、もし僕がもし退社のことを打ち明けたら、真っ向から反対しただろう。そして僕を説得にかかったり、なかには社内工作で退社を阻止する動きを開始した同僚もいたかも知れない。そして「秘密」は間違いなく、たちまちのうちに社内の噂となって広がっていっただろう。
もちろん組織だから、僕の退社を聞いて、内心喜んだ同僚もいたに違いないし、無関心な同僚もいたろう。それらは当然無視していい人たちだが、問題は「仲間だと思っていたのに」と思ってくれる位置にあった同僚たちである。「知っていればなんとしても退社を思いとどまらせたのに」といってくれたであろう「やさしい同僚たち」の存在である。そういう同僚たちの言葉が僕の退社の決意を翻意せることはなくても、僕を一時的に動揺させたり、疲れさせたり、説明にエネルギーと時間を取られる可能性があった。
僕自身は良かれと思って決めた方針だったが、「話してもらえなかった」と思う同僚たちの多くは、退社後の僕とはいくぶん、(なかにははっきりと)距離を置くようになった。それは当然だろう。親しい同僚たちを取捨選択、線引きし、その距離のほどを明確にして「実はあなたのことはあまり重要視してなかったのですよ」と「通告」してしまったのは僕自身だったのだから。
今度はもっと大きな「死を迎えるに際して」の問題である。Sは「自らの迫りくる死のことを、家族以外の誰にも、例外なく、知らせない」という方針で臨んだのだ。妻への遺言は「死後ぴったりひと月後、お付き合いがあった人たちに郵便でいっせい知らせること」というものであったらしい。奥さんはそれを忠実に実行しただけだ。僕はといえば、「死の連絡」が郵送されたとき、たまたま海外にいて、押し寄せる共通の友人からの問い合わせや弔いのメールに気がついたとき、何が起きたのか、認識するすべがなかっただけだ。
では、僕が同じ状況を迎えたらどうするか。海を横に見ながら、僕はそんなことを考えていた。死を目前にしながら、この研究会サイトにエッセイを(死の影を読者に感じさせることなく)平然と書き続けることができるか。あるいは病状と精神状態を、命と意識のある限り、克明に書き続けるか。どちらも僕にはできそうもない。それこそ時々刻々、僕の病状を読まされる読者の方ははたまったものではない。言葉をどうかけるべきか、いっそのこと気がつかないふりをしておくべくか。近いにせよ、遠いにせよ僕のことを知る「読者」を悩ませるだけだ。Sはそういう事態を考え、「例外なく平等に」という方針を貫いたのだろう。
その後いろいろ検査はあったが、結論から言うと、幸いにも「がん」はなかった。しばらく生きられそうである(アメリカ旅行でまだまだ体力は十分にあるということが分かった)。そのことを早く書くべきだったのだが、なんとなくぐずぐずとしてしまって、もしかしたらあらぬ心配をしていただいた読者もいるかも知れない。アメリカ報告で、「元気ぶり」をしこたまアピールしたつもりだが、Aの言うように、逆に「思い残すことのないよう旅を楽しんでいる」「元気なふりをしている」と、とんでもない誤解を抱いた人もいるかも知れない。まさに平身低頭である。
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数日後、そのAからまた電話があった。
「先日は失礼なこと言いまして…」 「いや、君らしい愛情表現だと思ったよ。君の言う通りだよ」 「普通の人は僕と同じように考えるはずだから、早く続きを書いたほうがいいですよ」 「そうするよ。でもなあ、君から普通の人の話をされてもなあ」 「なぜですか」 「だって普通とかけ離れてるだろう、お前さんは」 「何を言うのですか、この常識人を捕まえて」 「へん、よく言うよ」
Aには死期が迫ったときは正直に伝えよう、受話器を置いたとき、ふと思った。
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