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縁の下のバイオリン弾き
181 バロックのレディ・ガガ
2021年1月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
https://youtu.be/_V6HpGCmId0

まずはここにあげたYouTubeのビデオをご覧になっていただきたい。7分ちょっとのビデオだから、クラシック音楽がお好きでない方にも我慢してもらって、ともかく全編を見ていただきたい。なぜかというと、私はこれを見て魂が震えるような経験をしたからだ。皆さんとその時の感激を分かち合いたい。

曲はビバルディのバイオリン協奏曲。ビバルディの作品には通し番号がついているのだが、これはそのRV 212、通称を「聖アントニオ」という。といっても、クラシックにうとい私がそんなことを初めから知っていたわけではない。偶然といっていい事情から、このビデオにたどり着いた。

独奏者(兼指揮者)はアラナ・ユセフィアンという女性で、彼女を支えるのは「ボイセズ・オブ・ミュージック」という古楽の楽団である。サンフランシスコを本拠にしている。

古楽というのはモーツァルトやベートーベンなどのいわゆる古典音楽よりも古い、ルネサンスやバロックの音楽をさす。アラナが弾いているのがバロック・バイオリン、現在のバイオリンよりも古い形式のバイオリンだ。

それが簡単にわかるのが弓の形だ。現在のバイオリンの弓は水平にしてみた場合、まっすぐであるよりも少し上の方に向かって反(そ)っているのだけれど、バロック・バイオリンの弓はそうなる以前の形で逆の方向に向かって反っている。極端に言えば武器の弓と同じような形をしている。


ビバルディはバロックの代表的な作曲家で、バイオリンの名手だった。そのため、彼の作曲したバイオリン協奏曲は240という驚異的な数にのぼる。だから、ビバルディのバイオリン協奏曲をいくらCDで聴いたところで、その全部を聴くなんてことはとてもできない。第一その全部が演奏されているわけではないだろう。

したがって、ある特定の曲を知らなくても少しも恥ではないと思うのだが、このビデオのような超絶技巧を要する、誰が聴いても唸(うな)るほかない曲が有名ではないのは、そのこと自体おどろきだ。


肝(きも)をつぶすは最後の方になってアラナが独奏する場面だ。バロック・バイオリンは現行のバイオリンに比べて指板(フィンガーボード)が短い。その当時にはそれ以上の高音を出すことは考えられなかったためだが、彼女はその指板が下に存在しなくなってものぼり詰めて行き、ほとんどブリッジ(駒)に届きそうになるまで弾いている。これはビバルディの楽譜がそうなっているからだ。

バイオリンで音を出すためには指で弦をおさえて指板までくっつけなくてはならない。バイオリンにはどこで指をおろすかという印がないから、特に高音域では正確な音程を出すのに非常な努力と修練が必要なのだ。従って、下に指板がなくなってしまったのにさらに音を出すという芸当は普通ではできない。けれど、彼女は弦に指を触れるか触れないかのタッチで高音を出すハーモニクスという技法を使ってそれをなしとげている。

これがどれだけ至難のわざかということは、共演者の表情でわかる。「まさかそこまで!」と眉を僅かに上げて感嘆している男もいれば「いや、彼女ならこれぐらい余裕なはずだ」と微笑みを浮かべて聴き入っている女もいる。

そんな極端にむずかしいパッセージを弾いているご本人はといえば、もちろん真剣白刃取りの気迫なのだが、そこを通り越してしまうとまわりに微笑みかけたりしている。そしてこれは他の多くの動画でも確認できることなのだが、彼女が本当に音楽を楽しんで演奏していることがよくわかる。クラシックの音楽家にみられがちな気難しさ、自己陶酔、尊大さといったものがみじんも見られない。私は特にそれにひかれるのである。

ご覧の通り、彼女は若くて美しい。などというとセクハラ一歩手前と受け取られる危険があるが、言いたいことはその逆だ。若くて美しければ、一般的にはそれだけで価値である。何もしなくても世間はチヤホヤしてくれる。それなのに、そんなことには目もくれず、バイオリンの修行に打ち込んでこの高みに到達するまでには、どんなに長い、厳しい道程があったことだろうか。

それを考えると、私は目がくらむような気がする。その業績があるから、この人は本当にすごい、と心底考えることができるのだ。


私は彼女のことをもっとよく知りたいと思ってウィキペディアに当たってみたけれど、これを書いている現在、彼女の項目は立っていない。ということは、私のこの文章が彼女を日本に紹介するものになるかもしれないのだ。書いていても思わず力が入ってしまう。もっとも日本で演奏したこともあるそうだから、知る人ぞ知る、という存在なのだ。

まず私は彼女がどこの人か、ということが気にかかった。アメリカ人かヨーロッパ人かもわからない。ユセフィアンという名前は滅多にある姓ではない。私はなんとなくアルメニア人ではないかと思った。そのうち、去年前半に行われた彼女のインタビュー動画を発見した。その中で、彼女は「言葉はできないけどイラン人」だと言っている。ニューヨーク近くのニュージャージー州で生まれ育った、とも言っている。

イランというと、私は何十年もの昔に呼び戻される気がする。学生時代、私は東洋史に魅力を感じていて、特に中国と中東との関係に興味があった。そこに、たぶん日本で初めてだったろう、私の大学にペルシャ語(イラン語)を教える講座ができたのだ。私はかなわぬまでもペルシャ語の基礎ぐらいは自習したいと思って、英語で出ていたペルシャ語の入門書をすでに買っていたぐらいだったから、これこそおあつらえむきのクラスだと思った。私が取らなくて、誰が取るのだ、とふるい立った。

ところが初めてのクラスに出てみると、数少ない同級生はみんなもうアラビア語を勉強している大学院生で、すごい大人に見えた。アラビア語というのは難しいと聞いている。そういう難しい言葉の洗礼を受けている人と、入学して1年ばかりの私とでは天地の差がある。

結局、私は一学期で挫折した。必ずしも難しい言葉ではないと思うのだが、中国語の勉強をしていたし、高校で惨敗したフランス語に二度目の挑戦をしていた。

フランス語なんかやる人はいくらもいる。そんな気取りは捨てて、ペルシャ語に専念するべきだった。50年後の今日、アラビア語を勉強した小池東京都知事を見るたびにあの人は偉いと思う。

挫折した口実をいくら並べたって仕方がない。真剣さが足りなかった、ということに尽きる。けれど、それ以来、イランは私の心の中にロマンチックな想念として生き続けている。

もっとも、「言葉はできない」という通り、インタビューで見るアラナはごく普通のアメリカ人の女性である。動画のコメントの中に彼女を「バロックのレディ・ガガ」と呼んでいるのがあって笑ってしまったけれど、アメリカ人にとってはそれがぴったりくる形容なのだろう。


どうやって彼女を「発見」したのか?バロック音楽をCDで聴くことはよくあるけれど、クラシック音楽をYouTubeで見る、なんてふだんはやらないことだ。

ケルティック(アイリッシュやスコティッシュ)の音楽はフォーク・ミュージックだから、根は深い。ドヴォルジャークだのコープランドだの、クラシック音楽に民謡を取り入れた作曲家はあまたいるけれど、一方でクラシックと関係なく、クラシックの作曲家と同時代に生きたケルティックの音楽家たちがいた。

18世紀スコットランドにニール・ガウ (Niel Gow, 1727-1807)という有名なフィドラーがいた。この人の手になる曲に「ニール・ガウが二度目の妻の死に際して彼女にささげた哀悼曲」(Niel Gow’s lament for the death of his second wife)という長い題名の曲がある。この曲は最初の妻と死別したガウが、晩年をともにした後妻にまたも先立たれた時、悲しみに堪(た)えず作曲したものだ。いや、このセカンド・ワイフは妻同様に彼が愛したフィドル(バイオリン)のことだ、とまことしやかに語る伝説があるが、それは正しくない。

ガウの代表作で、かつスコットランドで、もっとも有名な伝統曲の一つだ。

私はこれをYouTubeで探したのだ。何人ものフィドラーによる動画が見つかった。その中で、ローラ・リスクがボイセズ・オブ・ミュージックと演奏したものがその異色さで目を引いた。

ローラ・リスクはサンフランシスコ出身のフィドラーで、個人的な交友はないが、ミュージック・キャンプの講師として私はよく知っている。この人がバロック・バイオリンを使って弾いたのがこの動画だ。

https://youtu.be/8fX8qqotwqk



ニール・ガウの曲をバロック仕立てで演奏することは不思議でも何でもない。ビバルディの「聖アントニオ」は1712年の作曲であるが、ニール・ガウはその15年後に生まれている。モーツァルトが生まれたのはさらにその29年後である。

だからガウをバロックの作曲家とみなして古楽器を使って演奏することには意味がある。そしてローラの演奏は哀悼曲というこの曲の性格をフルに表現したみごとなものだ。

けれど、私自身の感想を言えば、フォーク・ミュージックをこのように大時代に演奏することにはやはり無理があると思う。英語のたとえにいう、「りんごとみかんを比べたような」違和感がぬぐえない。やはり野に置け蓮華草(れんげそう)、である。

このビデオで私は初めてアラナ・ユセフィアンを見た。その時に、この人はこんなに手持ち無沙汰気味に突っ立っているが、たぶん名のある演奏家に違いない、これではかわいそうだ、と思った。もっと本領を発揮したビデオがあるはずだ、と。

その期待は裏切られなかった。


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