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縁の下のバイオリン弾き
162 バナーニ
2019年6月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ フィレンツェの婦警さん
フォーカス(focus)という言葉がある。焦点という意味だ。 拡大鏡を使って紙の上に日光を集めると、紙が焦(こ)げて燃え出す。この日光を集めた点を「焦げる点」だから焦点という(落語の「笑点」はこの言葉のもじりだ)。

写真のフォーカスから、一番大事なポイント・真相に光をあてる、という意味合いで使われることが多い。

私はつい最近まで知らなかったのだけど、このフォーカスという言葉の複数形をご存知ですか。フォーカシスなどというんではない。フォーサイというんだそうだ。

フォーサイはfociと綴る。ラテン語に由来すると思うのだが、-usで終わる言葉の複数形は-iで終わる、という規則があるのだ。発音はフォーカスの原音を尊重すればフォーカイだけど、このつづりでその発音ではあまりの飛躍だからフォーサイに落ち着いた。フォーシじゃなくてフォー「サイ」と言わなければならないところが「英語読み」だ。

もっとも焦点は一つだからこそ意味があるのであって、それがいつくもあってはたまらない。したがってフォーサイなんて言葉が使われることはまれで、そのために誰も知らない(と私が思う)言葉になってしまったわけだ。

この-usが-iになるという規則はフォーカスの場合こそ知らなかったけれど、まったく知らなかったわけじゃない。

1979年にトレヴェニアンという筆名の覆面作家が「シブミ」という冒険小説を発表した。シブミはもちろん渋みという意味だ。舞台はヨーロッパだったと思うが、アメリカ人が主人公だ。ガールフレンドが日本人で、ある時食卓で「ねえ、アスパラガス(asparagus)の複数形はなんていうの?やっぱりアスパラジャイ(asparagi)?」と主人公に聞く。主人公は「そんな口のききかたをする奴は鼻持ちならないスノッブだ」と口を極めて攻撃する。つまり-usが-iになるという規則を知っていても、そんなのは「教養」をひけらかす為に一部の人間が必要もないのに使うだけで、心ある人はそのようなはしたないマネはしないものだ、という主張だ。これがいかにもアメリカ人らしいところで、私にはおもしろかった。

サボテン(カクタスcactus)の複数形はcacti(カクタイ)だけど、知っていてもそれを使わず、わざわざ「カクタシス」などという人は結構いる。平等主義のためばかりではなく、実際問題としてカクタイといっても相手がわからないことがあるから、その煩雑さを嫌うのかもしれない。

たこ焼きのたこオクトパスはオクトパイ、かば焼きのかば、いやそうじゃない、動物のかばヒポポタマスはヒポポタマイ、「菌類」という意味だけど、普通には「きのこ」の意味で使われるファンガスはファンジャイというのが正式な言い方だ。

「卒業生」という意味のアラムナイalumniはアラムナスalumnusの複数形だけど、卒業生はうじゃうじゃいるのが普通だから、複数形の方だけ有名になって、単数形はあまり使われない。

などなど、こんな規則はめんどうだから、外国人が必死になって覚えなければならないものではないと思う。

私がサンディエゴに来たばかりのころ、アイリッシュ酒場で会ったのがバンジョーマンドリンをひくキットという名前のアイルランド人だった。バンジョーマンドリンというのはバンジョーの胴体にマンドリンの棹(さお)をつけたものだ。バンジョーというものは何しろやかましいから、その音量で皆を圧倒していた。私がたまたま買ったバンジョーを持って酒場に行くとキットが自分のバンジョーと私のを並べて、「こう並べてみると、フレイマスじゃなくてフレイマイというべきだな」なんていう。私が買ったバンジョーが彼のと同じ西ドイツ製で(西ドイツだなんて歴史を感じますね)、フレイマスFramusというブランドだったので、それが二つあるからFramiとしゃれたわけだ。いかにもヨーロッパ人らしい言い草で、アメリカ人にはこういうことを言える人は少ないと感心したから今でも覚えている。


なぜこんなことを思い出したかというと、イタリア語では名詞の複数形は英語やフランス語のように-sをつけるのではなく、語尾の母音を-iに変える、ということをイタリアで実地に経験したからだ。

イタリア語はラテン語の直系の子孫だ。だから英語でのように-usだけを-iに変えるのではなく、 すべてを-iにする。

いうのは簡単だが、実際にやってみるとなかなかそう簡単には頭を切り替えられない。

私はラテン語はむろんのことイタリア語も勉強したことはない。イタリアに行く前に泥縄式に「旅行者のためのイタリア語」というクラスに2回出席したけれど、文法は教えてもらえなかった。旅行者がいいそうなことをとにかく丸覚えさせられただけだった。


でもイタリア語の複数は 「イ」で終わる、ということだけはイタリアに行く前から知っていた。

大昔のことだが、イタリアで公演した日本のある舞台監督のコラムを日本の新聞で読んだことがある。

監督がイタリアに到着して現地のスタッフと仕事を始めてみると、彼らのやり方が日本人とは違う。それには不満を持ったけれど、表向き何も言えないから、その不満は内向するばかりだった。

でも監督はある日、スタッフが段ボールの箱から日本の着物を取り出すのを見た。舞台衣装だ。その箱には大きくKIMONIと書いてあった。ここに至って堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒が切れた。

「これはキモノというんだ。キモニじゃない。そんなことも知らんのか」この時とばかりスタッフを叱りつけ、命じてKIMONOに書き換えさせた。スタッフの戸惑ったような表情が気にかかったけれど、無視してしまった。

後になってkimoniはkimonoの複数形だということを教えられて、穴があったら入りたい気持ちになった、と書いていた。

それを読んで以来、私はイタリア語の複数は皆-iで終わるもの、と肝に銘じた。


日本ではどうだか知らないが、イタリア風のサンドイッチのことをアメリカではパニーニという。しかしイタリアではそれはパニーノで、パニーニは複数形だ。私はイタリアに行って始めてそれに気がついた。アメリカではパニーノという言葉にお目にかかったことはない。いくらキッチンでたくさんのサンドイッチを作っているにせよ、オーダーされたサンドイッチはお客一人につき一つだろう。それではやはりパニーノというべきではないだろうか。

そういうことがわかっても、それを実際口にするには勇気がいる。どこの駅でのことだったか、リンダがバナナが食べたいというので、私は売店に行って「ドゥエ・バナーニ・ペル・ファボーレ(バナナ2本、お願いします)」と言ってみた。言ってはみたものの、全く自信はなかった。バナナはイタリア人にとっても外来語だろうから、「バナナ」と言って始めて意味がわかるはずだ、と思っていた。それを「バナーニ」なんて…。果たして通じるのだろうかと危ぶんだ。ところが売店のおばさんはこともなげに「はい、ドゥエ・バナーニね!」と復唱して2本のバナナを渡してくれたではないか。私は正しかったのだ、と有頂天になった。

これに味をしめて「ドゥエ・エスプレッシ」(エスプレッソ2杯)、「ドゥエ・アメリカーニ」(アメリカーノ2杯)などとやるとちゃんと通じる。


今回の旅行で私はイタリアの鉄道が全くあてにならないことを痛感した。ローマからフィレンツェに行ったときは、どのプラットホームに行ったらいいのかわからないので往生した。そんなことは日本ではあり得ない。何時何分に何番線から発車する、と決まっていて何日前だろうが変わらない。盤石(ばんじゃく)の情報だ。ところがホームを告げるべき電光板にその番号が現れない。駅員に聞いても、電光板を見ていろ、と言われるだけ。私は全く混乱してしまった。

だいたいそういうことを尋ねられるはずの案内所からしてどこにあるかわからない。日本の駅だったらどこに行っても「?に丸」のインフォーメーションがある。それが見当たらないから駅員に聞くとちゃんと教えてくれるのだが、その場所に行ってもインフォーメーションがない。これ本当の話です。

町中にも案内板と言えるようなものがどこにもない。フィレンツェでダビデの像のある美術館に行こうと狭い路地をあっちこっち探し回っても矢印一つない。その辺の店員に聞くと「あっちの方に行けば人がいっぱいいるからすぐわかるよ」なんていう。この路地だってもう人でいっぱいだというのに。

すべてこんなふうだから、駅であわててもしかたがないと悟った方がいいのだけど、重い荷物を持って駅で走るのは大変だから、プラットホームがわからないのは気が気ではなかった。駅員にしつこく聞き質して、電光板に番号がのるのは発車の10分前だ、ということがわかった。なんたること!それは電車がちゃんと時間通りに到着するかどうかわからないから、そして到着の際にはたまたま空いているホームに入れてしまうから、事前にどこから発車するかわからない、ということに違いない。実際電車はどこの駅でも遅れに遅れた。そしてその情報の方は電光板にのるのである。それも最初15分遅れだったのが、25分遅れになったりする。

そのために私はイタリア語でプラットホームをなんというのか覚えた。駅では何本もあるプラットホームに通じる入り口に「ビナーリ(binari)」と書いてある。それを覚えて、「5番のビナーリはあっちの方ですね」とか「ビナーリにエレベーターはありますか」とか、得意になってやっていた。

ところがある駅のプラットホームでそのホームの番号が目に入った。Binario 5と書いてある。最初私はなんのことかわからなかったのでじっとそれを見つめた。そして突然ひらめいたのだ。プラットホームはbinariというんじゃない。Binario(ビナーリオ)というんだ!ビナーリは複数形だったんだ!

ビナーリオを複数にするときに最後のオをイに変える。するとbinariiになるけど、日本語の「飯(いい)」のように二つの母音を重ねて「ビナーリ・イ」と発音することはイタリア語にないのだろう。だから発音は「ビナーリ」になってしまう。したがってつづりを簡単にしてbinariになっているのだ。今まで特定のホームのことを「数々のホーム」と呼んでいたのはとんだ誤りだった、と内心赤面した。


ヨーロッパは本当に一つの文化圏なんだなあ、とイタリアで感じた。滞在中にパリのノートルダムの焼失事件があったが、ホテルのテレビはチャンネルがたくさんあって、イタリア語、英語、フランス語、ドイツ語その他、どこの国かわからないような言葉で報道していた。

イタリア語はスペイン語とはいとこ同士のようなものだし、英語やフランス語とも共通の言葉が多い。

それぞれの言葉はなんだかヨーロッパという大きな国の方言のような気がしてきた。人々は多かれ少なかれ他の国の言語のことを知っていて(たとえ話せなくても)、例えばイタリア語では複数は-sではなく、-iで終わる、などと聞いても大して驚かないのではないだろうか。

「シブミ」で日本女性が「アスパラガスの複数形はアスパラジャイ?」などと聞くのも舞台がヨーロッパだからこそ、とうなずける。そしてそのような言葉の使い方をスノッブ扱いするアメリカ人の主人公の感性も、わかる、わかる、と思う。



後記)

イタリア語の名詞には性別があって、複数形は男性名詞が-i、女性名詞が-eと終わる、ということをイタリアから帰ってきてから知りました。バナナは女性名詞ですから、複数形はバナーネと言わなければなりません。生兵法(なまびょうほう)は怪我のもと、というおそまつでした。でもあの売店のおばさんは確かに「ドゥエ・バナーニ」と言ったのです。かなわぬまでもイタリア語を使おうと努力した外国人(私)に同情して調子を合わせてくれたのでしょう。そしてその時の私の感激は本物でした。

アスパラジャイという言葉はありません。あれは作者の虚構です。アスパラガスは 単・複両用に使われます。

Binarioは厳密にはホームそのものではなく、日本語の「…番線」にあたる言葉です。しかし実際問題としてはホームを指します。

トレヴェニアンは2005年になくなりましたが、今では身元が割れていて覆面作家ではありません。
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