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フエルテ |
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2003年10月13日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ フエルテはこんな形。 |
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▲ アトリスコ(Atlixco)の町。
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▲ カリフォルニアから発祥地に戻ってきたフエルテ。 |
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完熟すると黒くなるハース。皮が固くて輸送と貯蔵に適し、味も優れていて、世界中にアボカドを広め、アボカドの最大国際商品となったことは、前回お話ししました。でも皮が黒くなるがために、ハースがアボカドとして受け入れられるのには大変な時間がかかり、執拗なマーケティングの努力が必要だったことも述べましたね。
ハースの市場拡大を阻んだのは、いつまでも緑色を保っているフエルテという種類でした。実はそのフエルテは、現在のカリフォルニアのアボカド産業の土台を作ったのです。
始めにフエルテの発音についてお断りしておきます。日本の雑誌やウェブサイトで、「フェルテ」とか「フエルティ」とか書いてあるのを見たことがありますが、どちらも誤りです。「フ・エ・ル・テ」と1音ずつ発音してください。
カリフォルニアで一番最初にアボカドが植えられたのは1850年頃だろうと言われています。それ以後、いろいろな種類のアボカドが個人の庭に植えられたようですが、アボカドを売る目的で幼木が植えられたのはそれから半世紀以上もたった1908年でした。なにしろ果実は甘いものという固定観念があって、アボカドは果実なのに甘くないので、商品価値はないだろうと長い間考えられていたからです。(でも、トマトだって果実なのに甘くありませんよね。もっとも、最近はデザート用の甘いトマトが出回ってきましたが。)
当時、パサディナ(覚えていますか? ハースさんがミルウォーカーからカリフォルニアにやって来て落ち着いた町です)のお隣のアルタディーナという町に、フレデリック・ポプノウという園芸所経営者がいました。そのポプノウさんは、珍しい果実のなる木を育てて商品化しようと考えていて、1911年に、使用人のカール・シュミットをアボカド探検にと派遣しました。イギリスでは、ヴィクトリア朝時代に、ブルジョアたちが競って世界中の珍しい花や樹木を単に収集する目的で集め回ったものですが、アメリカ人はまず、ビジネスを考えたのですね。
さて、シュミットさんの任務は、カリフォルニアで育てられるようなアボカドの種類を集めることでした。シュミットさんはメキシコのプエブラ州アトリスコという所に、多くのアボカドの種類があるのを知っていたので、その町の市場で良さそうなアボカドを見つけては、その実がなった木を突き止め、新芽の出ている枝を切ってそれぞれ番号を振り当て、カリフォルニアに送りました。(これも覚えていますか? アボカドは接ぎ木で同じ種類を増やしていくのです。)その中に、レブランという人の庭に生えていた木があり、シュミットさんは15の番号をつけてカリフォルニアに送りました。その15番も他の種類と同様に、ポプノウさんの園芸所で接ぎ木され、幼木として育てられていったのです。
それから間もなくの1913年、南カリフォルニアは大寒波に襲われ、アボカドの木はほとんど壊滅状態になってしまいました。ところが、15番だけはちゃんと生き残っているではありませんか。そこでポプノウさんは、寒波に耐えうるほど強いこのアボカドを、フエルテ(Fuerte)と名付けました。フエルテとは、スペイン語で「強い」という意味なのです。
そのフエルテの幼木を最初に買って植えたのは、ジョン・ウィードンという人です。ウィードンさんはポプノウさんの園芸所に、アボカドの幼木を50本注文しておいたのですが、大寒波で大半がやられてしまったので、仕方なく、フエルテを50本受け入れたといいます。そうして仕方なしに植えたフエルテは、メキシコ系のように緑色の皮が薄いけれど、グアテマラ系のこくのあるクリーミーな味がある。ということで、大変人気を呼び、ロサンゼルスやサンフランシスコの一流ホテルからの注文が絶えず、1個1ドルの値段でも飛ぶように売れたそうです。当時の1ドルといえば、相当な金額だったでしょうね。
こんなふうに高値で実がうれると、自分もフエルテを植えようという人が続出したのも、無理はありません。ウィードンさんの所には、フエルテの木の新芽需要も殺到しました。ある年には、新芽だけでも6000ドルの収入があったそうです。ハースさんがハース(アボカド)の特許が有効だった17年の間に、4800ドルしか得られなかったことと対称的ですね。
こうしてフエルテはカリフォリニアにどんどん広がっていき、アボカド生産者を増やすことにも貢献したのです。長い間、アボカド総生産のうち、80%以上を占め、1972年にハースに追い込まれるまで、カリフォルニアのアボカド産業に君臨していました。世界にはまだフエルテを生産している国もあります。日本の沼津にも、フエルテの大木を10本持っていて、実を収穫している人がいますよ。
1991年に南カリフォルニアのアナハイム(ディズニーランドのある所)で世界アボカド会議が開かれた折、会議の前のメキシコ見学旅行ではフエルテの故郷であるアトリスコのレブランさんの庭園跡を訪れました。その際、カリフォルニア・アボカド協会は、もう何の木も植わっていないフエルテの発祥地に記念碑を立て、幼木を再び植えて、フエルテを蘇らせたのでした。
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