|
|
|
25 |
|
 |
|
ゴールドラッシュの波紋(下) |
|
2004年3月20日 |
|
|
|
 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
|
|
ゴールドラッシュのおかげで、サンフランシスコには世界中からいろいろな人が集まりました。一躍、ちっぽけな村から、さまざまな民族がひしめく一大都市へと変貌したのです。1847年にはたったの16ドルだった敷地が、その1年半後には4万5千ドルにも急騰。なにしろ1850年代には5億ドル近くに相当する金がサンフランシスコを通過したそうですから、急速に発展したのも不思議ではありません。
ゴールドラッシュで大金持ちになったのは、採掘者では1848年に真っ先にやって来たほんの僅かの人だけだったようです。お金をどっぷり儲けたのはむしろ商人たちです。最初に百万ドル長者になったのは、サンフランシスコでシャベルを売ったサム・ブラナンという人でした。なにしろゴールドラッシュ前は1つ20セントだったシャベルが、たちまち15ドルに値上がりし、ブラナンさんはたったの9ヶ月間で3万6千ドルという当時では大変な金額を儲けたとか。
急増した人口を養う食糧品や生活物資を売る商売も繁昌しました。鉄道も道路もなかった時代ですから、物資は帆船で運ばれて来ました。パナマ運河開通前ですから、東海岸からは南米をぐるりと回って3ヶ月以上もかかる航海だったのですが、それでも大変に儲かる商売だったようです。1850年7月1日にはサンフランシスコ湾や近辺の港には荷下ろしを待つ船が626艘も停泊していたそうです。
商品の中で特に人気があったのはオレンジでした。金採掘者たちが壊血病予防のために、1個1ドルもするオレンジを競って買い求めたからです。記録によると、1851年5月9日にサンフランシスコ港に到着した帆船ベティ・ブリス丸は、10万個のオレンジを積んでいたそうです。つまりこの船1艘だけでも、10万ドルの市場価値のある商品を運んでいたのですから、儲かるはずですね。このオレンジはカリフォルニア産でした。といっても、もともとカリフォルニアにオレンジが自然に育っていたわけではありません。オレンジの原産地は南アジアで、ポルトガル人が中国からイベリア半島へ持ち帰り、コロンブスが2度目の航海のときにハイチに持っていったのが西半球最初のオレンジでした。その後1565年に スペイン人がフロリダにオレンジを持ち込んだのですが、カリフォルニアにはもっと遅れて、ミッション建設のために北上して来たカソリック僧たちといっしょにやって来ました。はっきり記録に残されている最初のオレンジ園は、1804年にロサンゼルスの近くにあるサンガブリエル・ミッションに植えられた木です。
1830年代半ばに、そのサンガブリエル・ミッションを、ウィリアム・ウルフスキルという開拓者が訪れました。このウルフスキルさんは、カリフォルニアで一旗揚げようと、1831年にカンザス州からカリフォルニアにやって来て、毛皮用としてラッコの捕獲をしていました。が、ブドウとオレンジの大規模生産に将来性があると見込み、農業を始める気になり、ミッションのオレンジ園に種をもらいに行ったのでした。その種でオレンジ栽培をロサンゼルスの農園で数年試みた後、1841年に一斉に2エーカーの土地にオレンジを植えたら大成功で、彼のオレンジ園はどんどん拡大されていきました。それでゴールドラッシュが始まった頃には、ウルフスキル農園は黄金色のオレンジを大量にサンフランシスコに向けてロサンゼルス港から船積みすることができたのです。
カリフォルニアのゴールドラッシュはたった12年しか続きませんでしたが、その間に人口は爆発的に増大し、商業や農業の土台が築かれて、ゴールドラッシュが終わった後もカリフォルニアへの人口流入は続きました。ウルフスキルさんは1866年に亡くなりましたが、そのときには彼のオレンジ園は70エーカーにもなっていたそうです。
1869年には金の発見と同じくらい画期的なできことがありました。大陸横断鉄道が完成したのです。それで運送時間が大いに短縮されたので、ウルフスキルさんの息子ジョーセフは、オレンジを1個ずつ紙にくるんで木の箱に詰め、氷で冷やしながらロサンゼルスから中西部のセントルイスに出荷してみたところ、大当たり。おかげで急にオレンジ栽培を始める人がさらに増えました。こうした状況の中で、オレンジの新しい品種の開発に関心が高まり、政府の積極的な指導や援助が始まりました。1870年にブラジルからの新種の苗木が12本ワシントンに送られ、そのことを聞いたエリザベス・ティベッツというリバーサイド(ロサンゼルスから東に行った内陸部)のオレンジ生産者は、その苗木を分けてほしいと農業省に請願の手紙を書いたそうです。1873年に送られて来た2本苗木を実験的に植えてみると、5年後にはそれまでにはなかったほどおいしいオレンジの実がなる木に生長しました。それがネーブルオレンジで、大人気を呼んでますますオレンジ栽培が広がり、カリフォルニアのオレンジ産業の確固たる土台となったのです。1875年にはカリフォルニア全州で1000エーカー足らずだったオレンジ園が、1885年には4万エーカー以上にも拡大し、「第2のゴールドラッシュ」と言われるほどの勢いで、カリフォルニア経済の発展を担ったのでした。
そうすると、オレンジだけではありません。増え続ける人口と富の需要を充たすべく、新しい果実の開拓が熱心な関心を呼び、果物探検隊が世界各地に出かけて行きました。こういう社会状況の中で、アボカド栽培の関心も生まれたのです。
ゴールドラッシュが大きな影響を与えたのはカリフォルニアの経済と社会だけではありません。野心に燃え、「駄目でもともと」とリスクを承知で新しいことに挑戦するカリフォルニア人気質をも生み出したのです。100年近くを隔てながらも、最初にオレンジを一大商品としたウィリアム・ウルフスキルさんと、ネーブルオレンジを実験的に植えたエリザベス・ティベッツさんと、アボカドのハース種を生み出したランドルフ・ハースさんに、私には共通のものが感じられてなりません。
ウルフスキル園のオレンジからティベッツ園のネーブルオレンジへと移行してアメリカ中にカリフォルニアのオレンジが広がったように、アボカドもフエルテからハースに移行して世界中に広がっていったのです。アボカドが「緑の金」(Green Gold)と呼ばれる所以です。まわりくどい説明になりましたが、ゴールドラッシュがなかったら、カリフォルニアのアボカドもなかったことが、納得いただけたでしょうか。
|
|
|
|