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ボーダーを越えて
19 ハースマザーの行方
2003年11月6日
雨宮 和子 雨宮 和子 [あめみや かずこ]

1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。ボリビアへの沖縄移民について調べたり書いたりしているが、配偶者のアボカド農園経営も手伝う何でも屋。家族は、配偶者、犬1匹、猫1匹、オウム1羽。
▲ 秘密の場所に安置されたハースマザーの遺骸。
▲ ロバートの娘たちのブリジットちゃん(4歳)とクレアちゃん(2歳11ヶ月)がハースマザーの意義を理解するのは、まだちょっと無理でしょうね。
▲ ブロゥコー養樹園の4代目のブリジットちゃんが坐っているのは、養樹園の名声を築いたハースマザーの幹の一番太い部分。
スペインでの世界アボカド会議から帰宅してからちょうど1週間後の土曜日、私はオレンジ園の間を貫く道路の上を、ある「秘密の場所」に向かって車を走らせていました。そこは、ロサンゼルスの北隣に位置するベンチュラ郡。オレンジや苺、野菜などの他に、アボカドの生産もサンディエゴ郡に続いて盛んな所です。

オレンジ園の向こう側には山が連なっていて、数日前の山火事で斜面は真っ黒。サンディエゴ郡のトーマスの農園にも火事がすぐ近くまで迫ってきてはらはらさせられたのですから、このベンチュラ郡の農園経営者もどんなに不安だったろうかと、他人事ではない思いで黒い斜面を横目で睨めながら、私は運転していきました。が、火事は治まり、前夜は雨が降って煤も洗い流し、その日は快晴。雲1つない青空の下に広がるオレンジ園とアボカド園の緑は、格別に美しく見えます。しかも特別の所へ行くのですから、私は鼻歌でも歌いたいような気分でした。

目的地で会うのはブロゥコー養樹園のロバート・ブロゥコーさん。ブロウコー養樹園とは、そう、あのハースを広めた大本で、ハースマザーの遺骸を保管していた所です。(お忘れの方は、「16 ハースマザーの木(下)」をもう1度ご覧ください。)ロバートはブロゥコー養樹園会長のハンク・ブロゥコー氏の長男で、若いときにスペインでブロゥコー養樹園を設立したのですが、現在はカリフォルニアに戻ってきて、ブロゥコー養樹園のマネージャーをしています。彼とは12年前の世界アボカド会議主催のメキシコ見学で知り合いになったのですが、今年の世界アボカド会議でも顔を合わせ、そのときに、ハースマザーの遺骸の写真を撮らせてくれないか、と彼に持ちかけてみました。

「オーケー」と彼は即座に快諾してくれたのですが、「いまは秘密の場所に移してあるから、その場所は誰にも言わないでほしい」という条件付き。もちろん、そう約束しました。そして帰国後、その「秘密の場所」へと私は出かけて行ったのです。

指示通りの場所に着くと、ロバートが幼い娘2人を連れて、待っていてくれました。なんと言っても土曜日ですからね。おまけに海外出張が多くて、子どもたちといっしょに過ごせる時間は貴重なのだと言い、彼は2人の娘の手を引いて、私をハースマザーの安置所へ連れていってくれました。

私は切り刻まれた幹や枝が単に積み重ねられているのを想像していたのですが、そこにあったのは、厚くて大きな白いプラスチックに覆われたこんもりした2つの山。とっさに、霊安所に安置された遺体を連想してしまいました。「15 ハースマザーの木(上)」で、「枯れる」ではなく「死」という言葉の方がぴったりすると言いましたが、まさにその通りだったのです。そのことをロバートに説明すると、「そうだね、なんと言ってもマザー(お母さん)だからね」と、日本語を知らない彼も感慨深げに頷きました。彼が白の覆いをはずすと、2つの山の1つは枝の積み重ね、もう1つは幹の積み重ねでした。

ハースマザーは根の病気にやられてしまったのです。その命を救うために、ハンク・ブロゥコーさんは必死になってあれこれ手を尽くしたといいます。でも、それもかなわず、75年の生涯を閉じてしまった。
「ハースマザーの命を救えなかったことを、父は悔いているみたいなんだ」
ロバートは少々声を落としてそう言いましたが、すぐさま、
「でも、彼女(she)は年老いていたんだから」
と、父親をかばうような口調で付け加えました。「彼女」とは、もちろんハースマザーのことです。ブロゥコー養樹園の人たちにとって、ハースマザーはあくまで「お母さん」であって、ただの木ではないのですねぇ。

ハースマザーの遺骸は最初はブロゥコー養樹園に置いてあったのですが、8月下旬に新聞にこの木の記事が載って以来、大変な反響が沸き起こり、多くの人が押し寄せて来たそうです。うっかりすると、知らない間にハースマザーは少しずつちぎって持っていかれてしまうかもしれないという心配が出て来ました。それで秘密の場所に移したのだそうです。ベルリンの壁が無数のかけらとなって、大勢の人の手に渡ったことを考えれば、ブロゥコー養樹園の懸念も無理からぬことと思えます。

それでは、この遺骸はどうするつもりなのでしょう。
「さあ‥」ロバートは他人事のような顔をしました。多くの人々のハースマザーに対する思い入れの強さは大変なものだとのこと。
「そういう人たちにハースマザーの形見を分け与えようとすれば、この木から数万本の楊子を作らなくちゃならない」と、ロバートは冗談を飛ばしましたが、実際、あれこれ提案やら要求やらが舞い込んだのでしょう。それで、しばらくほとぼりが冷めるのを待つのが一番いいということにしたそうです。

こうしてハースマザーの遺骸は、虫がついたりカビが生えたりしないように手当てをされ、切り口には木が割れないように薬が塗られて保存されて、秘密の場所に、静かに横たわっています。その間にも、彼女の子孫はどんどん世界中で生まれている。日本で皆さんが食べるハースだって、祖先を遡っていけば、このお母さんの木に辿り着く。このハースマザーが生きている間の立ち姿を見逃したのが、私には残念でなりません。

「くどいようだけど、ブロゥコー養樹園の我々以外でこの場所を知っているのは、あなただけだから、決して誰にもこの場所を教えないでほしいな」
ハースマザーの秘密の場所を離れるとき、ロバートは念を押しました。
「わかってます。トーマスにも言わないから」
「いや、彼にだけは教えてもいい」
にっこりそう言いながら、ロバートは私を見送ってくれました。
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