1989年創立 個の出会いと交流の場 研究会インフォネット
HOME 研究会インフォネットとは 会員規約 お問い合わせ
会員専用ページ
過去のINFONET REPORT カレンダー 会員連載エッセイ なんでも掲示板
会員紹介 財務報告
会員連載エッセイ
最近の記事 以前の記事
縁の下のバイオリン弾き
125 ビスケット
2016年5月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。

サンディエゴにも日本人がたくさん住んでいるので、日本語の「情報誌」というものが存在する。日本のスーパーなどに置いてあって、無料だから、たまに家に持ち帰って読む。

そのひとつ「ライトハウス」誌の4月1日号にプラット・フジミさんという方の次のようなエッセイがのっていた(「プラット家のサンディエゴ奮闘記」)。

「日本にいる友人と電話で話をしていて、ふと朝食の話題になった。『今朝は何を食べたっけ?そうだ、ビスケットにベーコンエッグ…』『ビスケットぉ?』『あ、違う、そっちじゃなくて、ケンタの』『ああ、あっち』。

そう、ビスケットと聞いて友人の脳裏に浮かんだのは、お菓子のビスケット。で、その後、いわゆるケンタッキーフライドチキン風のビスケットと気づいたわけである(後略)。」


これを読んで私は意外な気がした。というのも、あれは吉本ばななさんの「キッチン」(1988)だったと思うけれど、主人公が友人にケンタッキーフライドチキンを届ける、という場面があって、そこに「ビスケット」がでてくるからだ。

ほぼ30年も前に小説にでてくるほど、「ケンタのビスケット」は有名になっていたはずなのに、いまだにこんな混乱がある。まったくちがったものが長い間同じ名前で呼ばれていて、現在でも説明を加えないとはっきりさせることができない、というのがいかにも不思議だ。

これはひとつにはアメリカふうのビスケットはケンタッキーフライドチキンでしか食べられない、ということがあるのではないだろうか。だから「ケンタの」ビスケットと言わなければならないし、また、そう言いさえすればそれで十分なのだろう。

もしケンタのビスケットが大人気で猫もしゃくしもそれを食べる、というようになれば、そのうちお菓子のビスケットを圧倒してしまうだろう。でもそうなっていないところを見ると、「ケンタの」ビスケットには存在理由があまり認められていないのではないだろうか。

その存在理由とは、「ビスケットはパンである」という認識である。

そうなのだ。あれはパンなのです。

厳密にいえば、イーストが入っていないという点でパンではないけれど、その性質と用途を考えるならば、パンに等しいということが理解されると思う。

そしてパンだからこそケンタッキーフライドチキンについてくる。ケンタッキーはアメリカ南部の一州で、フライドチキンもビスケットも南部の名物だ。郷土の名産をくみあわせているわけだ。


もう四半世紀も昔のことになるが、アメリカのテレビで「ロンサム・ダブ」という西部劇のミニ・シリーズが大ヒットした。あまたの賞を獲得しただけではなく、テレビで絶滅しかかっていた西部劇とミニ・シリーズの両方のジャンルを復活させた。

これはテキサスからモンタナまで牛を追って旅する男たちを描いたラリー・マクマートリーの小説が原作だ。

わたしは西部劇映画は好きだけれど、西部小説は全然読まない。でも同名の原作小説(1985)だけは読んだ。映画に影響されたくないと思って、ミニ・シリーズがはじまる前に読んだ。1986年にピューリッツァー賞を受賞している。

2002年に、主人公のひとり、ガス・マックレーが「1900年以降に書かれたフィクションの名主人公100人」という「ブック」誌の人気投票で41位に入った。その当否は別として、それぐらいアメリカのある一面を代表する小説であることはまちがいない。

小説はこのガスがテキサスのメキシコ国境に近い牧場で、たき火をおこし、ダッチ・オーブンでビスケットを焼くところから始まる。牧場で働くカウボーイたちのために朝食を用意しているのだ。

ダッチ・オーブンは日本でもキャンプする人の間ではよく知られている。名称は「オランダ人のオーブン」という意味だけれど、実はオランダ人とは関係ない。オランダ人は英国人からはケチの権化のようにいわれている。17世紀に英国と敵対したために、以来英語ではオランダというとなにごとによらずネガティブな意味を持つようになったからだ。割り勘のことを「ダッチ」というのはよく知られている。 ダッチ・オーブンはつまり「貧乏人のオーブン」という意味の悪口だ。

厚い鉄製の深なべで、同じ材料のふたがついている。そのふたの上にも炭火をのせられるようになっていて、上下から火で熱することができるから、「オーブン」である。

本物の大きなオーブンを持って歩くことはできない。そのため、この手軽なオーブンは西部開拓時代にカウボーイに愛用された。これでビスケットを焼く。つまり、ビスケットはなべで焼くことができるほぼただひとつのパンなのだ。

そこにこの食品の人気の理由がある。ふだんはつまらない仕事にあくせくしているアメリカの男たちが、ロマンチックな夢を見るときに思い描くのが西部開拓時代のカウボーイだ。たとえ安食堂の朝食でも、ビスケットを食べることでその昔の男の中の男になったような気になれる。

こんな場面は小説のその後にはあらわれないから、「ロンサム・ダブ」の著者がビスケットを焼く場面を冒頭に持ってきたのは周到な計算のあらわれなんだろうと思う。全編をつらぬく「タフで寡黙な男」のイメージを集約したのがこの「ビスケットを焼く」という行為なのであり、「男子厨房に入らず」などという日本の男の美学とは全くちがった形象がここにある。要するになんでも自分ひとりでやる、またそれができなければならないのがカウボーイなのだ。

西部劇だから銃をとっての撃ちあいが随所にあるが、それと同時にこういう過去のアメリカ人の生活と心情を生き生きと再現して見せたところがこの小説のねうちだと思う。


ビスケットはいつたべてもいいわけだけど、レストランの朝食として人気があるのが「ビスケット・アンド・グレーヴィー」だ。焼きたてのビスケットに熱いグレーヴィーをかけただけのもので、卵が入っていないから、メニューの中でまずもっとも安い料理の部類だろう。炭水化物のビスケットに脂肪で作ったグレーヴィーとくれば、健康によいはずはない。しかし、農業や牧畜業が基幹産業だったころのアメリカでは、はげしい肉体労働にエネルギーが必要で、その要求にこたえるカロリー食品だったのだ。上に書いたようなあこがれがあるから、現在これを好んで食べるのはたいがい男だ。

余談になりますが、わたしが子供のころ、翻訳本を読んでいて「スープ」「ソース」「グレーヴィー」などという言葉がでてくるとそのいずれにも「肉汁」という訳が横にカッコ入りでついていたので、とまどったものです。今ではそんな訳をつける必要がそもそもないだろうけれど、戦後の日本では、なにしろ実物におめにかかることがめったになかったのだから、翻訳者はなんとか訳語をひねりださなければならなかったわけだ。ひょっとしたら訳者にもどう違うのかわからなかったのかもしれない。

グレーヴィーは、オーブンで焼いた鶏だの七面鳥だのからしたたり落ちる肉汁がもったいない、という発想から生まれたものだ。この汁を体内にとどめておくために、内臓をとったあとの空洞につめものをする。いわゆるスタッフィングだ。パンくずなどで吸い取るようにする。それでも体外に流れ出す油と肉汁が大量に出るから、これに小麦粉を混ぜ込んでどろどろにし、塩胡椒して味をととのえる。このグレーヴィーを肉にかけたり、マッシュ・ポテトにかけたりする。

「ビスケット・アンド・グレーヴィー」のグレーヴィーはそういうのとはちょっと違う。アメリカの朝食ではだいたい卵と肉をたべる。肉はハム、ソーセージあるいはベーコンだ。これらをいためると、油が大量に残る。とくにベーコンはカリカリにいためて供するから、そのにじみ出る油が半端な量ではない。これを捨ててしまうのはもったいないというので、小麦粉やミルクを混ぜたものがここでいうグレーヴィーだ。味付けのためにたいていはソーセージのコマ切れがはいっている。ソーセージ・グレーヴィーという。これを上下二つに割ったビスケットにこれでもかというぐらい大量にかける。

書いているだけで身体に悪そうだなあと思うけれど、わたしは嫌いではない。メニューにのっていれば(安くてもうからないのでこれを出さないレストランのほうがむしろ多い)迷いつつも結局はオーダーしてしまう。

そのビスケットはケンタッキーフライドチキンのものよりはずっと大きいことが多く、そのかたわれだけで満腹してしまうことがしばしばだ。

はじめて食べたのは30年前、ウィスコンシン州で夏季学習の講師をつとめるためにアメリカ大陸をシカゴあたりまで車で横断したときだ。ネバダのバトル・マウンテンというひなびた街のさらにひなびたレストランでたべた。その場所までおぼえているからよほど印象が深かったのだろう。そのときは「なんて愛想のないたべものだろう」と思った。食欲を高めようとか、見た目を美しくしようとかいう算段は少しもない。まったく掛け値なし、「実費だけいただきます」というたたき売り精神だ。

口の中でほろほろと甘くくずれる日本のお菓子のビスケットから、いかに遠くかけ離れたものか、お分かりいただけるだろう。

アメリカのたべものとは本質的にこういうものだ。実用品なのである。それをおいしくないといってけなすのは見当違いもはなはだしい。

日本のたべものには日本人のこまやかな心づかいがあふれている。隠し味がどうとか、いろどりがどうとか、小さなことにまで心をこめて作るのが日本料理だ。しかしその心づかいが度をこすと、そんなことははじめから眼中にない他国の料理まで日本の間尺(ましゃく)にあわせようとする。

グレーヴィーはあぶらを捨てるのがもったいないから作るのだ。それをのこらずふきとって食べてしまうためにあるのがビスケットだ。大味だとか不健康だとか、かれこれいうのはこの根本精神がわかっていないのだ。

日本の料理を作るときだって「もったいない」ということが大切なのはもちろんである。でも、それと同時に、「けちけちしたくない」「おうようなところを見せたい」という気持ちがたべる方にあって、全部たべないことがかならずしも悪いということにはならない。

わたしは今でもおぼえているが、大学を出て香港に住み始めたとき、たまにたべる洋食についてくる銀紙につつまれたバターを、それまでとはまったくちがった目で見るようになった。日本では、あの小さなバターのかたまりを全部たべることはほとんどなかった。ロールパンだって全部たべるとはかぎらなかった。社会全体にそういう小さな「ぜいたく」を許す雰囲気があったのだ。刺身のツマをたべなくても、焼きそばの紅生姜を残しても、だれがそれを「浪費」だというだろうか。

でも香港で一銭もむだにできない貧乏暮らしに直面して、このバターが身を養うのだと思うとあだやおろそかにはできなかった。わたしはなんでもすべてたべるようになった。

以来料理を考えるとき、その視線が底辺からのものになった。「ビスケット・アンド・グレーヴィー」は、そんなわたしにはことさら訴える力が強いたべものだといえるだろう。
最近の記事 ページトップへ 以前の記事
ボーダーを越えて
雨宮 和子
かくてありけり
沼田 清
葉山日記
中山 俊明
寄り道まわり道
吉田 美智枝
NEW
僕の偏見紀行
時津 寿之
NEW
老舗の店頭から
齋藤 恵
ぴくせる日記
橋場 恵梨香
縁の下のバイオリン弾き
西村 万里
やもめ日記
シーラ・ジョンソン
徒然.... in California
明子・ミーダー
きょう一日を穏やかに
永島 さくら
ガルテン〜私の庭物語
原田 美佳
バックナンバー一覧
142 黒い雨
141 ベーコン
140 根付
139 プリーズ
138 キャベツあれこれ
137 スピリチュアル
136 柿と卵焼き
135 移動と定住
134 ベジタリアン
133 王女と真珠
132 七人
131 イディオムということ
130 平等
129
128 名誉殺人
127 ラフカディオ・ハーンのこと
126 楽器
125 ビスケット
124 動物
123 アイヌ
122 ヘクター・ザ・ヒーロー
121 レッツ・リヴ・ア・リトル
120 果実の皮
119 コンニャク問答
118 安岡力也の生涯
117 事実は小説より奇なり
116 レイルウェイマン
115 火を起こす
114 ふし穴
113 ジュリー・デューティー
112 目玉焼き
111 歌に歌われる
110 組織
109 人種差別
108 丸い足
107 宗教と女性
106 ディーベンコーン
105 神の味噌汁(みそしる)
104 健さんと平戸
103 バグパイプ考
102 ないです
101 聖地
100 マッカンチーズ
99 再造の恩(2)
98 再造(さいぞう)の恩(1)
97 行水
96 かまわぬ
95 本場もの
94 グーリックさんのこと
93 ケセラセラ
92 日本人の肖像
91 センス・オブ・ワンダー
90 カティ・フラードのこと
89 屋根瓦(やねがわら)
88 一人っ子政策
87 文化の違い
86 干し野菜
85 恐れを知らないギター
84 銀シャリ
83 ターナー
82 デリシャス
81 モハメッド・アリの大勝負
80 ハンマーダルシマー
79 白無常(はくむじょう)
78 アメリカいれずみ事情
77
76 ひつじ
75 ひげにまつわる話
74 ぐちゃぐちゃ
73 宗教の周辺(2)ヘズース
72 宗教の周辺(1)翼と銃
71 となりの芝生
70 ピンピンパンパン
69 帯とバックル
68 レ・ミゼラブル
67 テーブルマナー
66 朝の穀物
65 二人松浦
64 好きこそものの上手なれ
63 パイについて
62 Xのこと
61 琴棋書画(きんきしょが)
60 爪紅(つまべに)
59 絵に描いた餅(もち)
58 ブレーキ
57 シャーロック・ホームズとカレー
56 ポール・マッカートニー
55 野蛮な茶
54 パサディナ
53 複数たち
52 玉米(ぎょくまい)
51 それにつけても
50 はしとさじ
49 ローズバーグ
48 ジャカランダ
47 サンドイッチの話(2)「O.J.シンプソンとハンバーガー」
46 バンジョー
45 ジャージー・リリー
44 工夫
43 かゆのいろいろ
42 ホイットニー・ヒューストンと「ボディガード」
41 イニシャルについて
40 無用の人
39 具眼の士
38 天使も踏むをおそれるところ
37 ビスカイーノ
36 サンドイッチの話(1)「センス・オブ・プロポーション」
35 パトリシア・ハイスミス
34 茶飲み話
33 柴五郎とジョニー・ビーハン
32 戦場のゴムぞうり
31 やきもの
30 記憶としての絵
29 アイリッシュ・ミュージック
28 乳と蜜の流れる土地
27 レディ・ハミルトン
26 Mto.
25 『チャイナタウン」
24 ドライ・ランチ
23 プリンス談義
22 帽子の話(3)「新撰組」
21 アメリカの大学から
20 帽子の話(2)「衣冠を正す」
19 帽子の話(1)「男はつらいよ」
18 マイ・バレンタイン
17 理想
16 ビリー・ザ・キッドの恩赦
15 おらんだ正月
14 シャーベット(下)
13 シャーベット(上)
12 カナダロッキーへの旅―最終回
11 カナダロッキーへの旅―11
10 カナダロッキーへの旅―10
9 カナダロッキーへの旅―9
8 カナダロッキーへの旅―8
7 カナダロッキーへの旅―7
6 カナダロッキーへの旅―6
5 カナダロッキーへの旅―5
4 カナダロッキーへの旅―4
3 カナダロッキーへの旅―3
2 カナダロッキーへの旅―2
1 カナダロッキーへの旅―1
ページトップへ
Copyright(C) FORUM INFONET, All rights reserved. Copyright(C) FORUM INFONET, All rights reserved.
掲載の記事・写真・イラスト等、全てのコンテンツの無断転載・複写を禁じます。
0 7 5 9 8 1 9 6
昨日の訪問者数0 4 0 6 3 本日の現在までの訪問者数0 2 7 1 1