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182 ママハハだった母
2013年3月11日
雨宮 和子 雨宮 和子 [あめみや かずこ]

1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。ボリビアへの沖縄移民について調べたり書いたりしているが、配偶者のアボカド農園経営も手伝う何でも屋。家族は、配偶者、犬1匹、猫1匹、オウム1羽。
▲ 私が5歳ぐらいの頃。母と多摩川で。
多くの友人や知人たちが年老いていく親の世話をどうするかということに直面しているのを見ていて、母が生きていたら私はどうしただろうと、ときどき考えます。いえ、母が早死にしなかったら、私の人生はどんなに違っていただろうと想像してみたりするのです。

私が幼かったころ、近所の人たちの間で、私の母はママハハ(継母)らしいという噂がたったそうな。私が生まれる前に母のお腹が大きかったのをみんな見ていたはずなので、そんな噂が立つのはおかしいのですが。

私は東京の世田谷で生まれ、幼年時代を過ごしました。東京といっても、自転車で多摩川に行けるほど、端っこで、しかも近所には農家もまだたくさん残っていて、保守的な考え方が、戦後の新しい考え方と並行して根を張っていました。敗戦直後で、物資も食料も職もなにもかも不足していた時代です。父の遠い親類がそこの農家で、広い敷地に二軒長屋があったので私と両親はその一部を借りて住み、父はそこから東京の北の端っこにある赤羽の進駐軍基地に通勤していました。長屋のお隣さんは小学校の小使いさんの家族で、私より2つ年上の女の子に続いて男の子が3人という6人家族でした。竹やぶの向こう側も農家で、その家の前には別の家族の住む一軒家があり、お勤めから引退した老夫婦が娘夫婦と一緒に暮らしていました。

小田急線の成城学園前駅から南に向かって歩いて坂を下りると、一面に田圃が広がっていたものです。はたちのときに一度そこへ戻って行ってみたことがありますが、高速道路が近くを走っていたり、高級マンションが建っていたりで、すっかり様相が変わっていました。いまだったら昔の面影などはいっさいないでしょう。大家さんだった遠い親類は、きっと土地を売って大金持ちになっているに違いありません。

大家さんが親類とはいえ、私の両親はよそ者だったのです。しかもまだ20代前半の若い夫婦で、戦後の新しい日本の中で、古い世代とは違う考えを持っていました。「結婚とは何かなんていうことは全然考えないで結婚しちゃったのよ」と言っていた母は、最初はご飯の炊き方も知らなかったそうですが、私が生まれると、「この子はしっかり育てよう」と固く自分に誓ったとか。「しっかり」というのは、自分の考え方に基づいて、という意味が含まれていたようです。

私が子どものころは、大家さんの家族は牛を使って田圃を耕し、田植えのときにはおとなはみんな田圃で働いていました。いつも野良着姿で働きずくめのおばあさんが豚を数頭飼っていて、私の母が残飯などを豚に持って行ったのを覚えています。そのおばあさんはとってもやさしい人でした。そのやさしさが、どうやら噂を生み出したようです。

お年寄りの目には、私の母はとてつもなく厳しいと映ったらしいのです。たとえば、よちよち歩いていた私が転ぶと、大家さんのおばあさんが、「あらあら、かわいそうに」と言って、私を抱き起こそうとする。それを母は、「手を出さないでください」と、遮ったとか。「この子はちゃんと自分で起き上がれますから」と言って。あるとき、私は何を欲しがったのか、駄々をこねた。そのときは父も家にいましたが、両親は私に向かってはいつも共同戦線を張っていましたから、どちらを攻めてもだめで、私は悔しくて泣き出した。そうしたら大家さんのおばあさんが飛んで来て、「和子ちゃんはまだ小さいんですから、許してやってください」と、私の両親に頭を下げて私をかばってくれた。それに対して母は、「この子は我がままを言っているだけなんですから、放っておいてください」ときっぱり言い放ち、父は苦笑いをおばあさんに向けるしかなかった、という場面を覚えています。(そして、私の我がままは通らなかったことも覚えています。)

また、若かった私の両親は、私を連れて新宿や渋谷に頻繁に遊びに出かけましたが、混んだ電車やバスの中では、母は私を坐らせようとしませんでした。誰かが席を譲ってくれても、です。「ありがとうございます。でも子どもは元気ですから、立ったままで大丈夫です」と断り、頑として私を坐らせてくれませんでした。

万事がそんな感じだったのです。それで、あんなに厳しい母親はママハハに違いないという噂話になったのでしょう。(継母は厳しくて意地悪だという偏見が、当時は堂々とまかり通っていたのですね。)でも、私の記憶の中の母の姿はちっとも厳しいものではありません。むしろ私を無限に愛してくれたという思いでいっぱいでしたし、私がどんなに幼くても私の希望をいつも尊重してくれましたから。「どっちがいいの? はっきりおっしゃい。こっち? そっち?」とたびたび私に聞きました。そのうち私にも悪知恵がついて、「あっち」と返事をするようになって母を苦笑させたそうですが。また私とよくいっしょに遊んでくれました。「子どもと一緒によくそんなに遊んでいられるわねぇ」と、母の姉があきれたくらいに。そして私の欲しかった本は何でも買ってくれたし、私が凧が欲しいと言うと、奴凧を買ってくれた。その凧を得意になってもって外に出たら、遠くから男の子の一団に、「なんだ、女のくせに凧なんか持って、おかしいなぁ」とからかわれ、そのとき初めて、凧揚げは(当時は)男の子が遊ぶものされていることを知ったのです。家に帰ってそのことを母に言うと、「そんな男の子の言うことなんか聞かなくていいの!」と、母は揺るぎませんでした。

そんな母でしたから、女の子には赤い服を着せるなどという慣習は軽蔑して完全に無視していました。私に着せた服はブルーとか緑とか紺が多く、明るい色はというと、せいぜい黄色ぐらいでした。薄給の父が「清水の舞台から飛び降りる思いで」買ったという(いや、買わされた、と言うべきでしょう)私のオーバーは、母が選んでくれたものですが、くすんだ鶯色でした。私が初めて赤いブラウスを着たのは母が亡くなってからですから、はたちを過ぎたころです。(でも、自分で選んで着たのですから、母は承認してくれたことでしょう。)

私は一人っ子でしたら、ご近所のおばさんたちが、「和子ちゃんが大きくなったらお婿さんをもらわないといけないわね」と言ったそうです。それに対して母は、「そんなことは全然考えていません。この子の将来は、この子が自分で決めることですから」と言い返したとか。私の母が言いそうなことです。当時の母はとても青臭かったのでしょう。ママハハだなどという噂がたったのは、少々理屈っぽくて固かったことも影響していたのだろうと思います。

一人っ子の恩典で、私は近所の子どもたちの中で、一番たくさんおもちゃを持っていました。おままごと道具はもちろん、学校ごっこ用の黒板も持っていましたので、私は年上の子も生徒に仕立てて、先生役を得意になってやっていたものです。そんな私を見ていた母は、あるとき私の耳にささやきました。「あなただけ先生になっていちゃだめよ。みんなと交代でやりなさい」

近所のおばさんたちの間の噂など、もちろん私は知りませんでしたし、私の母がフツーの母親とは違うなどと思ったこともありませんでした。でも、1度だけ、母に驚かされたことがあります。5歳ぐらいのときだったでしょうか。母に連れられて外出して帰ってきたときのことです。家の近くの広場で、近所の子どもたちがワイワイ遊んでいたので、私もいっしょに遊ぶことにしました。それで母は1人で家に帰り、私は子どもたちのほうへ走っていきました。「私も入れて!」と言うと、子どもたちは一瞬、立ち止まりました。が、一番年上の子が、「だめ! 後から来た子は入れないの!」と言うのです。びっくりして私は家に飛んで行きました。母の顔を見るなり、「後から来たからだめだって、仲間に入れてくれないの」と訴えて、泣きべそをかきそうになりました。そのとき私は、母がその子たちのところへ行って、「みんなで仲良く遊んでちょうだいね」と仲介してくれるだろうと思っていた、というか、それを期待して母に訴えたのでしょう。母親とはそういうことをするものだという社会の通念のようなものが、幼い私の頭の中にも入っていたのですね。

ところが、です。母の言ったことはまったくの期待はずれでした。
「そんなことを言う子たちと遊ばなくていい」
ハァ? 母は仲介も同情もしてくれないというわけです。私はそれで悲しくなるどころか、ただただ呆気にとられて、ちょっとさっき傷ついたことすら忘れてしまいました。

それから間もなく、さっきの子どもたちが家の前に来て、「カコちゃん、いっしょに遊ぼう!」と呼びました。大喜びで外に飛び出していくと、一番年上の子が、「さっきはごめんね」と言い、私も「うん」と即座に言って、いつものように夢中で遊び始めたものです。かくして、私はへりくだらなくて済み、子どもたちはおとなの介入なしに問題を解決できたのでした。

数日前の3月8日には、一日中そんなことを振り返っていました。45年前のその日に母は亡くなったのです。(ちなみに、忠犬ハチ公も3月8日に他界したそうですね。)42歳になる8日前で、私がはたちのときでした。母はいまある私を形成してくれた大事な人です。いまでもそう思い続けています。

我が家には東南アジア製の仏像があります。連れ合いがイギリスの競売で買ったもので、多分ビルマの小さな村の寺院からイギリスに持って行かれたのでしょう。なんだかとっても人間臭い仏像です。その足元に、母の位牌が置いてあります。それに向かって3月8日にはお線香を焚きました。

「親として、あなたがちゃんと大学を卒業できるようにするのは私の責任なの。でも、卒業したら、私たちは友だち同士よ。お互いに頼らず、でも助け合って生きていきましょうね」そう言っていた母でした。そして私が大学に入ると、母は自分なりの人生を模索し始めました。その矢先に、ガンに命を取られてしまった。母が生きていてくれたら、私の人生もずいぶんと違っていたでしょう。それでも海外には出ていただろうという気がします。そして、多分、母もいっしょに。
 
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