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姓というマーカー(上) |
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2005年1月29日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ マフィーもジプシーもマサも、獣医さんのカルテではみんな姓はアメミヤ。獣医さんへ連れて行ったり薬をやったりするのは私なので。 |
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▲ プーキーとタトゥもアメミヤ姓。 |
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生まれたときに私が頂戴した姓名は、雨宮和子ではなかった。和子は和子だが、姓は父親の石山である。それから10年後、両親の離婚で私は母の新しい戸籍に載ることになり、母の元の姓をもらって雨宮となったのだ。そのころは姓は単なる名札ぐらいにしか思っていなくて、雨宮という姓が特に好きでも嫌いでもなかった。
学生時代の仲間の中には、家制度に反発して、結婚の際に夫婦で阿弥陀籤を引いて姓を選んだ人たちもいた(その結果は妻の姓だった)が、私はアメリカ人と結婚したとき、日本の国籍に執着心がなかったと同じように、自分の姓にも強い思い入れがなく、抵抗なく配偶者の姓を名乗ったものである。(アメミヤをミドルナームとしてとってはおいた。)
ところが、その結婚相手といっしょにいると、日本人妻はこうあるはずだと彼が決め込んでいる枠にはめられて、本当の自分がどんどん萎んでいく。これでは私が思い切り翼を広げられるようにしてくれた母に申し訳ない。そういう罪悪感が強くなり、枠から自由になるには離婚しかない、と思うようになっていった。(もちろんそれだけが離婚を決めた理由ではないけれど、とどのつまりはそういうことだ。)離婚を決意したときに、母からもらった姓に戻ることも決めた。そうすることによって母との繋がりを体現したかったのだ。1970年代後半の当時のアメリカでは、離婚後旧姓に戻る女性は多くはなかったけれど、前夫の姓を捨てて、アメリカ人には発音しにくい自分の姓に戻ることに迷いはなかった。そして雨宮という姓が掛け替えのないものと思うほど大好きになった。
旧姓に戻ることについては、特に意識はしていなかったけれども、70年代にぐんぐん伸びたフェミニズムの影響もやはりあっただろう。フェミニストたちは、男との関係によって女のアイデンティティが左右されることに反発し、結婚したら自動的に夫の姓に変えること、いや、変えさせようとする社会の圧力に反抗した。私はフェミニズムの主張を声高に叫んだことはないが、自分らしく生きたいと強く思っていたから、フェミニズムに共鳴することは多かったのである。
アメリカでは結婚や家族に関する法律は州によって異なるが、どこかの州では結婚後の姓について法的規定があるとは聞いたことはない。結婚に関して州政府が関与してくるのは、ゲイやレスビアンの結婚を合法として認めるかどうかぐらいである。カリフォルニアでは(多分、他のどの州でも)夫婦は同姓でも別姓でもハイフンでつなげた複合姓でもいい。慣例として妻が夫の姓を名乗ることが多いというだけのことである。子どもの姓は何でもいい。父方のでも、母方のでも、両親の複合姓でも、親とは全く関係ない人の姓でも、新しく作ったものでも、本当に何でもいいのだ。離婚の場合も同じで、元の姓に戻っても戻らなくてもいい。はっきりした統計はないが、いまは離婚後夫の姓から元の姓に戻る女性がかなり増えてきたと思う。 結婚時に改姓しないこと、イコール、女のアイデンティティを守るため、とは限らない。ご存知と思うが、中国や韓国の女性は結婚しても改正しないのが普通である。姓とは遠い昔の先祖の一族の総称が代々父親を通して受け継がれてきたものであって、本来結婚のような人為的行為では変えられないという考え方が根本にあるからであり、子どもが母方の姓を受け継ぐことはない。昔の中国では、妻は夫の姓との複合姓を名乗ったと言う。たとえば陳さんという男性と王さんという女性が結婚したら、王さんは陳王と名乗るということだ。中華人民共和国になってからはそれは廃止され、夫婦別姓になったが、現在は、同姓でも別姓でも複合姓でもいいらしい。それでも圧倒的大多数が夫婦別姓である。(香港や台湾には複合姓を使う習慣の残っている所もまだあるという。)
ラテン系諸国でも女性は改姓しないで、姓を複合する。そもそも姓名の付け方が男女に関係なくちょっと複雑で、「名前・父方の姓・母方の姓」というふうにする。姓だけで呼ぶときは、父方の姓を使う。結婚しても男性はそのままだが、女性は母方の姓を失って、「名前・父方の姓・デ(de)・夫の父方の姓」と変わる。たとえば、アレハンドラ・ロドリゲス・イグレシアさんがホセ・ゴメス・モレナ氏と結婚したとすると、アレハンドラ・ロドリゲス・デ・ゴメスとなる。国によってはdeを付けたり付けなかったするらしいが、もともとdeというのは「〜の」という所有を表す前置詞なのだから、いかにも女性は男性の所有物という感じがする。
世界には姓に煩わされない人たちもいる。シンガポールに住んでいたときに、マレー人には名前だけで姓がないことを知り、びっくりしたのを覚えている。(自分が慣れきっていることは世界のどこでも同じだろうと思い込んでしまういい例だ。)ビルマやインドネシア、またアラブ諸国やアイスランドも姓がないという。(後者の場合は、父親の名が姓の役割をしたりするようだが。)
世界各国の夫婦の姓については、以下のサイトに一覧表がある。少々記述がわかりにくかったり厳密性に欠けたりするが、世界の状況が見渡せる。
http://www.mizu.cx/minpo/siryo01.html
この一覧表でわかる通り、夫婦別姓を求めない日本は世界の中では少数派だ。夫婦別姓は日本の家制度の根本を敷く戸籍制度を必然的に揺さぶるので、政府としては認めがたいのだろう。それでも夫婦別姓認可は世界の通性になっているので、パスポートだけは別姓も認めるようになった。外国でのイメージを気にする日本らしい。また、図らずも夫婦別姓が事実上成立してしまうこともある。外国人と結婚した日本人が日本国籍を保時続けて改姓をしない場合だ。前回のエッセイでご紹介した祐子さんは、アメリカと日本の両方に婚姻届を出したが、外国人は戸籍に入れないので、祐子さんは改姓しないまま、「マーク・ウェルシュと婚姻」と記載されただけであった。
妻が夫の姓を名乗ることに私は反対ではない。夫婦として姓も共有したいと思うのは、ごく自然の感情だと思うし、夫の姓を名乗った方が便利でもあろう。ただ、そういう個人的なことは自分で選ばせてほしい。
カリフォルニアに暮らそうと意識的に選択したときに、雨宮の姓に戻ることも決めたのは、偶然ではない。いちばん自分らしく生きていける地はここだ、と思ったからである。かくして、海を越え、国境を越えた土地で、私は母との繋がりを再確認し、強めたのであった。 (続く)
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