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英語とアメリカ |
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2005年2月25日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ 私は大きな辞書をキッチンのカウンターに置いて、わからない言葉はすぐ調べられるようにしてある。辞書に載っていない言葉ももちろんあるが、それ以上に、メガネ(老眼用)と虫眼鏡(イギリスの骨董市で見つけた)がないと見出しも見えなくなったのが、もどかしい。 |
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南米のチリが大変な意気込みで英語教育に取り組んでいるという記事を、最近読んだ。なんでも2010年までにすべての高校卒業生が英語ができるよう、さらにその5年後には小学生から高校生までの全員が英語の聞き取りと読解の標準テストに合格するように徹底的な英語教育を始め、究極的な目標は1500万の全チリ人が英語が話せるようになることだという。
英語教育に打ち込むこと自体は新しいことではない。が、チリでそれをやっていることには驚いた。なにしろ、南米はアメリカに反発する意識が強いからだ。ましてやチリは1973年9月11日に、民主的に選ばれたサルバドール・アイェンデ大統領がCIAに煽動された軍事クーデターで殺害され、アウグスト・ピノチェットの率いる軍事政権体制が17年間も続いたところだ。この件に関して、キッシンジャーは未だにヨーロッパを訪れられずにいる。
西半球を自分たちの裏庭としか思っていないアメリカは、南米諸国にとって目の上のたんこぶ以上にうっとうしい存在である。しかも、強力な経済力と軍事力に任せて各国の主権を踏みにじるアメリカの南米支配は、陰に日向にまだまだ続いているのだ。ベネズエラでは、新自由経済主義を押しつけてくるアメリカに反抗を続け、貧困層の生活向上政策を取っているウーゴ・チャベス大統領を追い出そうと、2002年4月に軍がクーデターを起こしたが、すぐさま、当時安全保障担当補佐官だったコンドリーサ・ライス女史は、クーデターの新政権を承認すると発言した。それはあからさまに1973年のチリのクーデターを思い起こさせ、ゴウゴウたる非難を沸き起こして、ライス女史はその発言を撤回せざるを得なかったが、このクーデターにもCIAが機材を提供したことが明らかになっている。チャベス大統領は国民の信任を得て、昨年8月のリコール選挙にも圧勝したが、それはアメリカの介入を排除してベネズエラの主権を守ろうという人々の意思の表示でもある。
また南米で最も貧しいボリビアにも、新自由経済主義への圧力がかかっている。2002年6月のボリビアの大統領選挙では、その流れに逆らい、唯一の換金作物であるコカイン栽培を続ける先住民を代表するエボ・モラレスが立候補した。ニューヨーク・タイムズ紙もイギリスのファイナンシャル・タイムズ紙もエコノミスト誌も、モラレスを「コカインを噛む過激なインディオ」と決めつけたが、彼は左翼ではあっても、交渉に応じる柔軟性があり、決して過激ではない。が、とにかく彼が気にくわないアメリカ大使は、モラレスなんぞを当選させたらボリビアへの援助は断ち切るぞ、とアメリカの経済力を使ってボリビア選挙民を脅したものである。この発言は逆にモラレスの人気を高めてしまった。おかげでモラレスは、最初の予想に反して最終選挙の一騎打ちにまで残ったのだから、ボリビア人のアメリカに対する反発が伺われよう。
もう1つの英語圏大国(だった)イギリスも、資源を求めて南米を支配しようとした足跡を残しており、南米諸国にとって英語の導入は、独立国家としての主権と自国の文化に対する脅威と往々にしてみなされる。ブラジルでは、店舗の名前や広告に英語を使うのを禁止し、国語(ポルトガル語)のコンピューター関係用語を考案しようという法案が議会に提出されたくらいである。
こういう南米の状況から見て、チリが積極的な英語教育促進政策を打ち出したことは、国際社会の構図を否応なしに感じさせる。チリは南米諸国民の中でも最も地味で実質的だといわれ、民主化が進むと、積極的に国際社会に参加して経済発展を図ることに努めてきたので、イデオロギーより実質的価値を求めているのだろう。
それだけ、国際社会は英語で動かされるようになっているということだ。英語という言語が、論理的で誰にも学びやすいからではない。大国アメリカの影響がはびこっているということなのだ。コンピューターやインターネットの普及がそれに拍車をかけている。そのおかげで、大部分のアメリカ人は他国語を学ぶ必要性をますます感じなくなるだろう。いや、もっと困るのは、自分の英語がどこででも通じるという思い込みがもっと強くなることだ。
イラクでの米軍の行動は、自己検閲を敷いているアメリカのメディアでは滅多に見られないが、たまに、米軍兵士が恐怖におののいているイラク市民に、英語で「座れ!」「動くな!」と怒鳴ったり罵倒を浴びせている姿がテレビの画面に映されることがある。イラク人は何を言われているのか、もちろんわからない。また、新聞や雑誌では、全く無実のイラク市民が、米軍兵士に「止まれ!」と言われても意味がわからず動き続けて射殺されてしまったことが報道されている。イラクの一般市民に英語が通じると考える方がおかしいと思うのだが。
そのイメージと重なるのは、数年前にニューオーリーンズ郊外で日本の青年がごく普通の住宅のドアを叩いて射殺された事件だ。日本でもアメリカでも、この事件は“Freeze!”と言われた日本人青年にはその意味がわからなかったために起きた悲劇と報道された。撃ったアメリカ人の、自分の言ったことは相手にわかったはずだという思い込みには、誰も注目しなかった。でも、銃を簡単に扱う社会で、しかも人種偏見の強い南部という要素があっても、このアメリカ人が、一見して外国人とわかる青年に言った自分の言葉が「果たして通じたのだろうか?」とちょっとでも考えたら、この殺人事件は避けられたかもしれない。
英語ができるのはもちろん悪いことではない。言葉はたくさんできればできるほどいい。でも、英語が話せる人が世界中でもっと増えたら、アメリカ人は英語を話せない人に対してますます傲慢になり、世界のことにはもっともっと無知になっていくだろう。そんな心配を、チリの英語教育促進の記事を読んで抱いてしまった。
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