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海の中に(上)
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2005年2月11日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ この太平洋の風景を、私は我が家から毎日眺めている。地平線の向こうは日本だ。 |
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我が家から太平洋が見える。太陽の沈む水平線のもっともっと向こうへまっすぐ西へ西へと進むと、大分県あたりにぶつかるはずだ。九州は一度さっと縦断したことしかないけれど、我が家から見える水平線のずうっと先がとにかく日本だと思うと、やはりどこか心が和んでくる。懐かしいとかいうのではない。もちろん恋しいのとも違う。
身体はカリフォルニアに上陸しているけれど、心理的にはカリフォルニアンにはなりきれず、私はオフショア・カリフォルニアンのまま、32年を過ごしてきたような気がする。あの海のどこかを、私の心はうろついているかのようだ。それでも、西に向かえば必ず自分の生まれ育った土地だとわかっていると、太平洋上のどこにいても、迷わずにいられるのかもしれない。(と、ここまで書いて、ふと気が付いた。イスラム教徒はメッカの方向に向かって毎日お祈りをする。その教義的意味はともかく、そのときの彼らも、生きていくことに迷わずにいられるという気持になるのではないだろうか。)
やがて死んだら、私は灰となって太平洋に撒いてもらおう。水面にプカリプカリと浮かんだ私の灰を、小さな魚たちが呑み込んで栄養分として吸収してくれたら本望だ。私はこれまでずっと海の幸に滋養を与えられてきたのだから、少しはお返しができる。そう考えるようになってから何年にもなる。死後は火葬にということは、20年近く前に初めて作った遺書に明記しておいたが、灰をどうするかは書いてなかった。
遺書などというとびっくりする人もいるかもしれないが、アメリカではちっとも珍しいことではない。何でもきちんと書いて、証人に署名してもらった遺書がないと、政府(州)が介入してきてなんでも官僚的に処分してしまうのだから。私は家族といえば連れ合いしかいないので、特にきちんと法的に有効な文書にしておく必要があるので、新たに作り直すつもりである。遺言執行人の役は、連れ合いの親類の中で一番親しいヘザーが引き受けてくれた。姪のような存在である彼女は、法律の専門家でもある。
それでも心残りが1つある。母のことだ。母の遺骨は横浜のお寺にある雨宮家のお墓に、祖父母の遺骨といっしょに納められている。もともとは山梨県の笛吹川を見下ろす山の中腹にある雨宮家先祖代々のお墓に埋められていたのだが、その土地は祖父が若い頃に出たまま、戻ることがなく、少々行きづらい場所であった。そこで伯父が、娘が嫁いだ横浜のお寺に新しくお墓を建てて祖父母の遺骨を移した際に、母が一人残されては淋しいだろうからと、いっしょに移してくれたのである。
お恥ずかしいことだが、横浜に移されてからも、私は母のお墓参りをほとんどしたことがなかった。そもそも母も祖父母もお寺とかお墓参りとかには無関心で、子どもの頃にお墓参りに連れて行かれたという記憶がない。そうでなくても、母への想いは私らしいやり方で表現したいと思っていたから、お墓参りという与えられた形式にはめ込まれるのが、とてもいやだったのである。個人の自由を尊重した母は、私のそういう考え方を許してくれたに違いない。
が、それはこちらの勝手な言い分で、遺骨を託されたお寺にしてみれば、迷惑千万であったろう。それでも住職さんも従妹も、一度も文句を言ったことがない。その寛容さに自分は甘えてきたのだと気が付いたのは、比較的最近のことである。これはなんとかしなければ…と考え始めると、急に母の遺骨を引き取って、カリフォルニアの我が家にある仏像の足元に置いておきたくなった。しかも、自分が広い海の中にゆったり漂うことを想像すると、母の遺骨もいっしょに漂えたらたらどんなにいいことか、という思いでいっぱいになった。いや、是非そうしたい。
そういう想いを秘めて、昨年の春、伯父の一周忌に出席した。同行したトーマスは、生まれて初めてお焼香というものをしたのだが、意外とさまになっていて、私は秘かに感心した。儀式とは、それに参加することによって感情を分け合うことに意義がある。儀式と名のつくものはすべて嫌いだった私も、近年、その意義がわかるようになり、またそれを楽しめるようにもなってきた。伯父の法要も親類たちとの和やかな再会の場となり、トーマスも楽しかったという。私も母の思い出を親類たちと分かち合うために、日本仏教の慣習通り法要をしようと素直に思いながら、帰ってきた。 (続く)
(註)欧米の火葬は高温なので、骨としては残らず、灰になってしまう。だから火葬にされたものはお骨(bones)とはいわず、灰(ashes)という。
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