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縁の下のバイオリン弾き
128 名誉殺人
2016年8月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
私は少年のころからイスラム文化に深い関心を抱いてきた。ペルシャ語のクラスをとったこともあるし、羊肉を食べる練習だってした。それぐらいだから、「テロを起こすかもしれないイスラム教徒の移民を禁ずる」というドナルド・トランプの人種差別政策には反対だ。無知が不寛容を生み、それが憎悪をあおってとりかえしのつかない事になるのだ。

しかし広いイスラム世界は時と所によりずいぶんことなった様相を見せる。今回書くことは私にとって絶対に容認できないイスラムの一面だ。


7月15日にパキスタンでカンディール・バローチという26歳の女性が殺された。この人はパキスタンでは有名人だったので、この事件は大きな反響をひきおこした。

殺したのは彼女の弟(日本の新聞では兄となっているが、25歳だそうだから弟だろう)。一服盛ったうえで首をしめたという。

このように家族によって女性が殺されることはパキスタン、アフガニスタンや中東のイスラム国ではめずらしくない。その原因は「家名を汚した」ということだ。 一般に「名誉殺人」といわれる。

婚前・婚外セックスをした、あるいはしたと疑われた女性が父親や兄弟などの男性によって殺される。中には母親が殺すという例もある。親の指定した結婚相手を拒んだり、好きな男と駆け落ちしたりした場合も殺人の対象になる。レイプの被害者ですら殺されることがある。

もっとも信頼できるはずの家族に殺されるのだからたまったものじゃない。しかもパキスタンでは(他の国でも)殺人事件で被害者の家族が犯人を許せば事件はなかったことになるそうだ。

名誉殺人の場合、加害者も被害者も同じ家族だ。娘を失ってどんなに悲嘆にくれようとも、さらにその上父親や息子を刑務所に送って何の役にたつだろう。そういう事情だから名誉殺人の犯人は訴追されることが少なく、されても裁判官をはじめ社会全体が犯人の心情に理解を示すので、量刑も手加減されることが多い。今度の事件では犯人の弟は「当然のことをしたまでだ」とうそぶいてむしろ誇り顔だという。

家族の女性によって「顔に泥を塗られた」と感じた男性メンバーが凶行をあえてするのだ。婚前・婚外セックスは「家の恥」なのだ。「名誉殺人」なんて美称もいいところで、「面子(メンツ)殺人」というべきではないかと私は思う。

こういう事件はめずらしくないと上に書いたが、じつはカンディールの場合は特殊な事情があってきわめてめずらしいということができる。

なにが特殊かというとカンディールの場合は婚前・婚外セックスをしたわけではないからだ。

名誉殺人はイスラム教以前から存在する古い習慣だというが、それが最新のテクノロジー、インターネットと交差したところに今回の事件がうまれた。


カンディールは大したことができるわけでもないのに有名だ、という点で現代の世相に特有のセレブだった。しかし彼女には世間に訴えなければならない主義主張があった。それが保守的なパキスタン社会における女性の地位向上である。そのためにソーシャルメディアを存分に活用した。

ネットに掲載された画像や動画は西側諸国ならばなんということもない、むしろどこが刺激的なのかわからないようなものだけれど、パキスタンではスキャンダルを引き起こした。たとえば彼女が水着をきてプールで泳いでいる動画がある。その水着というのが西欧なら百年前に使われたような半袖短パンのほとんど体全体を覆うような水着だ。しかしそもそも女がプールで泳ぐということが許されない、まれに許されても男女別のプールでしか泳げないという社会でその画像をネットに掲載するということは勇気のいることだったに違いない。

つまりその行為自体が社会に対する反抗であって、それがスキャンダラスなのだ。どれだけ肌を見せるかは二次的な問題なのである。

ジーンズやネグリジェといういでたちの画像もある。伝統的な民族衣装のかわりにそういう服装をするということがすでに挑発だ。しかもスカーフをかぶらず化粧までしているのだ。

彼女は女の自立のために戦う「一人軍団」を自称し、自身をフェミニストだと定義している。17歳のときに家族によってずっと年上の教育のない男と強制結婚させられ、家庭内暴力にさらされた。離婚し、ソーシャルメディアを武器として有名になり、テレビで金を稼ぐようになった。彼女は貧しい階層の出身だった。

彼女が殺されなければならなかった「罪」はこのネット上での「ハレンチな」所業であって、婚前・婚外セックスのためではなかった。だからめずらしいのだ。インターネットが存在しなかったなら、彼女は殺されなくてもすんだのだろう。

パキスタン男性のコメントが興味ぶかい。「みんな彼女の動画を一心に見つめたあとで、ゴウゴウたる非難のコメントをつけ加えるんだ」「パキスタンが対処できないものが二つある。インターネットとふしだらな女だ」などは皮肉なコメントだ。「僕はああいうのをネットにのせるべきじゃないと思うね。伝統的な社会を破壊する」というような「正統的」なものもある。

カンディールの行動を売名行為だとする非難もあったけれど、たとえそれが正しいとしても、結果的に彼女は命をかけていたわけだから、そしてそれがわかっていてやっていたにちがいないから(殺すという脅迫状は何度も来ていた)なまなかの覚悟でできることではなかっただろう。実にやむにやまれない、せっぱつまった行動だったのだと思う。

彼女は弟に殺されるかもしれないとうすうす予感していてそのおそれを友人に語っていた。

パキスタンは悲劇的な国だ。ベナジル・ブットという女性首相を出しただけでなく、女性でしかも世界最年少のノーベル受賞者、マララ・ヨスフザイを生んだ。それだけを見ると女性の社会進出が進んでいるように見えるけれど、実はまったく反対で、ブットは暗殺されてしまったし、マララは女性が教育を受ける権利を主張したためにタリバン系の組織から銃撃されて瀕死の重傷を負った。それが15歳のときだ。それでもくじけなかった彼女は翌々年ノーベル平和賞を受賞したけれど、パキスタンの後進性をも世界に印象づけることになった。

パキスタンだけではない。世界中で一年間に5000人ほどが名誉殺人で殺されているという統計がある。


「名誉の殺人」(アイシェ・ヨナル著、朝日選書)という本がある。これはトルコのジャーナリストが刑務所で服役している名誉殺人の犯人たちにインタビューしたものだ。

トルコといえば最近クーデター騒動があったが、中東でも政教分離が進んだ「世俗主義国家」として有名な国だ。

1923年の建国以来宗教(イスラム教)が政治に介入することを禁止してきた。国字をアラビア文字からトルコ語によりふさわしいアルファベットに変えたために識字率が高いといわれる。

そのように近代化を果たしたはずのトルコで、毎年300件以上の名誉殺人があるというからあきれる。家族によって自殺に追い込まれた女性はそのほぼ3倍だという。

なんとも悲惨な話でやりきれないが、その悲惨さは犯人の話を読むと倍加する。

愛する家族、それもか弱い女性を殺す、という犯罪はわれわれの想像を絶した異常な出来事に思われるが、なぜそんなことをするか、という動機を解明していったのがこの本だ。

そこに現れるのは男の弱さである。社会からの圧力にがんじがらめになって、どうにも逃れるすべがないと感じたとき、男は自分より弱いものを犠牲にするのだ。

名誉殺人は本質的にはイスラム教と関係ない。コーランのどこにもそんなことをしていいとは書いてない。イスラム教国ではないインドにもこの犯罪がある反面、イスラムを奉ずるインドネシアやマレーシアでは聞かれない。やはり地域による因習というべきだろう。

でも何百年もその名のもとで正当化されてきた殺人だ。イスラム教が免責されるわけにはいかないと思う。


名誉殺人を犯させるものは「うわさ」である。あの家のあの娘はふしだらなことをしている、と街でひそひそとささやかれる「うわさ」がその家の男にとっては耐えられない重圧となる。

信仰が強ければ強いほどこの重圧はどうにもならない。神のおきてを破っている娘や姉妹をそのままにしておけば、自分の立場がなくなる。

それでわかるように名誉殺人は男の問題なのだ。自分が社会に居場所がなくなること、親戚知友から排斥されること、「男になれない」ことを彼らは極端に恐れる。

多くのイスラム国で女の地位は低い。サウジアラビアでは女に選挙権はないし、裁判での証言は男の半分の信憑性しか与えられない。車の運転はおろか、一人で外出することもできない。一家の娘はもの扱いで羊何十頭と交換に結婚させられる。

そんな社会で「女ひとりにいうことをきかせられない」ことは男の沽券(こけん)にかかわる。そういう反抗の最大のものが性的自由だ。

さらに長老だの伯父さんだの、足腰もたたない老人どもが「なにをするべきか、わかっているんだろうな」と無責任にけしかける。

意外なのは自分も被害者候補である女たちまで名誉殺人を肯定することだ。おびえながらも「正しいことだと思う」という。

この本の中でも極端に悲惨な例は母親を殺さなければならなかった男の話だろう。また妹の性的放縦をうたがい、殺したあとで司法解剖の結果処女だったと知らされた兄の話もある。

そんなことになる前になぜ本人の話を聞かないのだ、と誰しも思うだろう。しかし犯人の男にとって大事なのは「世間体」であって、女性の幸福など頭にない。


「男として社会に認められなければ生きていけない」「女をコントロールできなくてどうする」という考え方自体は洋の東西を問わず、どの社会にもあると思う。日本のように家父長制度が基本だった国でひびき合うものを見つけるのはむずかしいことではない。

江戸時代の武士階級では「不義密通はお家の御法度(ごはっと)」で「姦夫姦婦(かんぷかんぷ=不倫の当事者)は重ねておいて四つにする(切る)」ということがたてまえだった。

近松門左衛門の「鑓権左重帷子(やりのごんざかさねのかたびら)」では不倫をしていないのにそのうわさをたてられ、それに抵抗できず駆け落ちしたあげく夫に殺されるカップルが描かれる。

こういうのを妻敵打(めがたきうち)というがそれをやらないと夫のほうが切腹させられる場合もあったというからまさに「男として社会に認められなければ生きていけない」だ。

そのころ結婚すると女は眉を剃り、お歯黒(はぐろ)をつけた。つまり自分がだれかの所有であることをはっきりさせなければならなかった。

中国には纏足(てんそく=足を縛って極端に小さくすること)があったし、西欧にはコルセットやハイヒールがあった。いずれも女の自由をうばう制度だった。

現今のアメリカでも女が殺される場合、夫やボーイフレンドに殺される可能性のほうがそうでない場合にくらべて2倍高い。


カンディールは女性の人権のためにたった一人でたたかった。その勇気はマララにも劣らない。でも当の敵である前近代的な封建社会を生き延びることができなかった。

身の危険を感じて保護を頼んだけれど、警察はとりあってくれなかった。そのため国外に脱出しようとしていた矢先の殺害だった。

彼女は死んでしまったけれど、その遺産はかならず次世代の女性に受け継がれていくと信じたい。第二、第三のカンディールが出て、男尊女卑の亡霊に引導を渡すことを期待したい。
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