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ボーダーを越えて
41 姓というマーカー(下)
2005年2月5日
雨宮 和子 雨宮 和子 [あめみや かずこ]

1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。ボリビアへの沖縄移民について調べたり書いたりしているが、配偶者のアボカド農園経営も手伝う何でも屋。家族は、配偶者、犬1匹、猫1匹、オウム1羽。
▲ 親友の画家、アルフレード・アントニーニさんが今年の結婚記念日にプレゼントしてくれた私たちの「肖像画」。アルフレードさんはアルゼンチンの出身。
私が自分の姓を取り戻したかったのには、もう1つ理由がある。カリフォルニアで生活する中で、アジア人として自分を意識するようになり、アメミヤという自分の姓は東アジアの一角で生まれ育った自分のルーツを示すもの、つまりマーカー(marker)を大事にしたいという気持が強くなったのである。(インドネシア人やマレー人のように名前だけで姓がないのも、一種のマーカーであろう。)

1970年代には、○○系アメリカ人という呼び方が盛んになっていった。自分が継承している文化のルーツを前面に押し出そうというものである。その中で、アジア系アメリカ人(Asian Americans)という意識と概念も生まれてきた。私はそういうアジア人の範疇内の日本人だと思っている。大学院生時代に、サンディエゴの東南アジア難民の大掛かりな健康状態調査に加わったことがある。そのときベトナム人やカンボジア人、モン民族と親しくする中で、私は東アジア人の姓のおかげで、より彼らと連帯感を深めることができたような気がする。

日本の姓を名乗るのは、日本人としての誇りなどというものではない。日本人であることを強調したいのでもない。外形も中身も日本人なのに、人生の途中からヨーロッパ系の姓をぶら下げるのは、どうも居心地が悪い。アジア系である自分にそのまま正直に忠実でいたかったのである。いまもそう思う。

アメリカにいる日本人の中では、複合姓や夫婦別姓はもはや珍しくない。この状況を若い女性たちは当然のように受け取っている。私がたどった紆余曲折など、彼女たちは関心もないだろう。そうやって社会は変わっていくものなのだ。前回のエッセイでご紹介した祐子さんは、結婚して自分の姓とマークさんの姓をハイフンで繋げてTerada-Walshとした。
「理由は臨機応変に対応できるからです。正式な書類以外では、Yuko Terada、Yuko Terada-Walsh、Yuko Walshと3通り、状況に応じて使い分けが可能で、便利かな、と」。
自称「オプション好き」の祐子さんらしい。同じくご紹介したことのある陽子さんは、ハイフンなしの複合姓で、2つの姓を器用に使い分けている。夫の方は、というと、マークさんもケンさんも複合姓は名乗っていない。

私はトーマスと結婚するときに、改姓はもちろん、複合姓にするつもりもなかった。妻だけが複合姓というのは男女平等ではないという考えもあったが、本当のところは、彼の姓をはり付けたくなかったのだ。それは全く個人的な領域での私の意地である。彼と私には男と女ということだけでなく、社会的に不均衡な力関係の要素があまりにありすぎる。それに抗して彼と対等な関係を保つには、私は雨宮でい続けなければいけないという突っ張りである。

彼はかつて世界を制覇したイギリス人である上に、産業革命を担って資産と地位を築き上げたブルジョア階級の出身で、特権に包まれた裕福な家庭に育った。いまは家族の資産はほとんど消えてなくなってしまったが、トーマスの兄は称号を受け継いでいて、非常に気さくな一家ではあっても、家系の威信というのはそう簡単に消えるものではない。一方、私は非欧米諸国では真っ先に近代化に成功した日本に生まれたとはいえ、欧米人からは蔑視されたアジア人であることに違いはなく、しかも家族は離婚で崩壊し、母子家庭で貧乏生活をしながら育った上に、若いときに母を亡くした。家族がいない者は社会でまずうさんくさいと見られる苦みを、私は何度も味わわされたことがある。

こんなに出身環境が違うのに、トーマスと私は世界観も価値観も好みも不思議なほど一致している。だから彼に惹かれたのだけど、私たちが対等に向き合っていっしょに暮らしていくには、自分のものは守っていくことだと思う。私は日本人としての誇りというものは持っていないが、ありのままの自分には誇りを持っている。それは誰にでも持ってもらいたいものだ。

結婚式の翌日、トーマスの妹が「ミセス・ロイドン、ご機嫌いかが?」と、茶化してきたので、私はつい、「あら、まずミスター・アメミヤをご紹介しましょうか?」と、やり返してしまった。彼女とは気心が知れているから(だからそんな冗談も叩けた)、アッハッハで終わったけれど、私もかなりひとが悪い。でも、そういう些細なことでも最初は突っ張った。さいわいにも最初に突っ張っても、いや、突っ張ったからかもしれないが、私はイギリスの親類たちとは仲良く対等に付き合っている。

これと似たような突っ張りを、もっと若いときにもしたことがある。大学で知り合った中国系シンガポール人と結婚を前提に付き合っていたとき、大学院に進もうかどうしようかと迷った。そのことを聞いたシンガポールの父親が、学資を援助しようと言ってくれた。親のいない私の心配をしてくれたこの父親は、私が断っても大学院に入ればきっと送金してくるだろう。気持は本当にありがたかったけれど、そんな恩は背負いたくない。それで、大学院進学はきっぱりやめた。結婚しようと思っていた相手は長男だったので、シンガポールに帰ったらどうせ親に代わって弟妹の面倒を見なければいけないのだから、援助してもらってもいいのに、と言ったが、弟妹の世話をするのは一向に構わないけれど、心からしたいからするのではなくて、恩があるからという理由でするのはいやだったのだ。そういう私の気持がわからない彼とは、結局結婚するのをやめにした。

トーマスは進歩的男性と自負しているので、私の考え方に基本的に賛成している。だから、結婚を決めたとき、「でも改姓はしないわよ」と念を押すと、「わかってるよ」と言っただけであった。そのとき私は、「雨宮を名乗るのは私が最後で、あなたは次男坊だから、日本だったらあなたが改姓したっていいのよ」と、彼をからかいながら、日本のイエ制度の概念を説明した。彼はちょっとびっくりした顔をして、「そうしてほしい?」と私の本意を確かめるような口調で聞いた。もちろん冗談である。でも、彼が雨宮に改姓したらおもしろいだろうなぁ。

夫婦別姓でいて不便な思いをしたことは1度もない。法的には自由でも一般の考え方はまだ保守的なイギリスの空港でチェックインするときに、結婚しているのに姓が違うのか?と、聞かれることがたまにあるぐらいである。そのたびに我が夫の言うことがふるっている。
「 私は頑固者でね、改姓には抵抗があるんだ」
相手がキョトンとしたら、彼はこう念を押す。
「日本では夫が妻の姓に変えるのは珍しくないのですよ」

おかげさまで、私たち夫婦は姓も国籍も人種も出身階層も違うけれど、平穏に楽しくやっております。    (終)

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