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思わぬ道草(5)OR |
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2005年5月11日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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「長いこと待たせちゃってすみません」と言いながらも、ソーシャルワーカーはそうすまなそうな顔はしていない。「ドクターがロイドンさんの容態を安定させるのとレントゲン撮影に時間がかかったものですから」 それならそうとちょっとでも教えてくれていたら、私はもっと平静でいられたのに… そう言いたかったが、今さらそんなことを言っても始まらない。いや、そんなことはもうどうでもいい。トーマスが生きている、しかも危篤状態などというのでもなさそうだとわかっただけで、コチコチだった全身が緩んできた。
ソーシャルワーカーはドクター・スミスという救急担当医に私を紹介した。髪は真っ白だが、まだおじいさんとは見えないドクター・スミスは温厚な感じで、まことに口数が少ない。 「ロイドンさんは大丈夫ですよ。頭に怪我をしてかなり出血したので、輸血しましたが、いまのところ、どこも折れている形跡はありません」 「本当に?! 手や足も動かせるんですか?」 「イェス」 「じゃあ、脳や神経に異常が起きたということもないんですね?」 「そういうことです」 あぁ… 不死鳥のようないつものトーマスなのだ… 思わず「ありがとうございます」ということばが口から飛び出した。ドクターに、というより、トーマスを私から奪わないでいてくれた幸運に。
そのとき、廊下の角のドアのない部屋から、トーマスらしい声が聞こえてきた。いつものように大きくて、しかも格別によく通る声だ。 「彼の様子を見に行ってもいいですか?」 黙って頷いたドクター・スミスに今度はちゃんとお礼を言って、私はその部屋へ行った。
トーマスは大きな輪の付いたベッドに寝かされていた。首には固定帯がされ、身体は何枚も重ねられた白い毛布で覆われている。頭の右半分はガーゼで覆われているけれど、そこがひどい怪我らしいことはわかる。看護婦さん(というと、言葉警察に叱られてしまうかもしれませんね。女性看護師ということです)が2人いて、若い方の看護婦さんが彼の右側に立って、凝結して顔中にこびりついた血を拭き取っている。胸にまで流れた血の固まりがついている。私は左側に廻って、ベッドが高くしてあるので私の胸の辺りにある彼の顔を覗き込んだ。 「ひどい姿ねぇ」無事だとわかった彼を、私はついからかってしまう。 彼はニヤット笑って、「何が起こったのか、全く記憶がないんだ」と、言い訳するような口調で言った。 私は目撃者のロバートさんから聞いた事故の経過を彼に話した。ロバートさんが真っ先に私に連絡してくれたことも。
私の話に陽気に相槌を打つトーマスの調子には、大事故に遭った直後という気配が全くない。ただ、大変に暑がりのはずのトーマスが「寒い、寒い」と連発する。やっぱりフツーじゃないんだ。年上の方の(といってもまだ30代半ばぐらいの)看護婦さんが、暖めた毛布をもう1枚、彼の胸に、さらにもう1枚を頭の回りに掛けてくれた。私は彼女から大きなビニール袋を2つ渡された。その1つには血だらけのシャツとショーツとお財布が、もう1つにはこれまた血だらけのブーツが入っている。病院としては患者の所有物を勝手に処分するわけにはいかないのだろう。( 家に帰ってからすぐ、お財布以外はゴミ箱に捨てた。)
整形外科医がやって来ると言われてから間もなく、若くて(イケメンというのはこういう男の人をいうのだろうと、とっさに思ったほど)ハンサムなドクターが、ブリーフケースを持って急ぎ足で入ってきた。「ドクター・モフィッドです」と、トーマスと私に手を差し出して自己紹介した。見かけだけでなく、フレンドリーでマナーも満点。トーマスの頭の右側を手早く調べて、「傷が大きく、皮膚がごっそり剥けていて、耳の上部3分の1が落っこちそうですね。これはすぐ対処しなくちゃいけません」と、私に言った。 「まぁ、そんなにひどいんですか? 全然見ていないのでわからなかったけど」 「いや、見ない方がいいですよ」 ニッコリしながら優しくそう言うと、ドクター・マフィッドは「ORをすぐ準備して」と 看護婦さんに指図して、姿を消した。なるほど、救急室(Emergency Room)がERなら、手術室(Operation Room)はORというわけだ。
ORの準備ができるのを待っている間、いくつもの書類に署名する。手術の危険を知っていて手術に同意すること、輸血の可能性があるので血液銀行からの血液の輸血に同意すること、等々。トーマスの入院中に何度も繰り返させられることとなった同意書署名の始まりだ。それが済むと、私はトーマスに、あしたは給料日なので私が給料袋を準備して農園に持っていくつもりでいること、また、パームの出荷はトラックの運転手と打ち合わせてキャンセルするつもりでいることを話した。仕事が大好きな彼が一番気にしているのは農園のことだろうから。彼は安心した顔をして、親指と人差し指で丸を作り、オーケーと合図した。
そうこうしているうちにORの準備ができたらしい。トーマスはベッドごと運ばれていき、わたしもORの入り口まで付いていく。そこでERの看護婦さん2人はORのチームにバトンタッチ。トーマスは今度はORの看護士さんたちの手で中へ行く。 「また後でね」(See you later)と、私は彼に手を振った。 「オーケー」と彼も陽気に応えると、扉が閉まった。 私はそままORの入り口前の待合室へ行って、椅子に腰を下ろした。ERロビーに座ったときとは比べものにならないほど落ち着いていられる。時計を見ると、もう10時になっている。あれから1時間半が経ったのだ。
いま振り返ると、あの夜、トーマスも私もなんとアホらしいほど楽観的だったことか。あの夜の私たちは遠い過去の存在だったような気がする。
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