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思わぬ道草(9)ロールバー |
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2005年6月7日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ トーマスのトラックの運転席。斜めになったロールバーがキャブの背後に見える。 |
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▲ トラック全体像 |
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トーマスの首の手術の前夜、警察の交通事故調査官から、トーマスのトラックの調査が終わったから所持品を取り出していいという待ちに待った電話があった。トラックの処分は保険会社に任せるとして、中に残された農園の鍵や書類や携帯電話はいますぐにでも必要だからだ。トラックは警察署の近くの損傷車場に置かれているということだった。
翌朝、私は病院へ行く途中にある損傷車場に寄った。広い敷地に、ドアのちょっとへこんだ車、窓が割れている車、後ろからぶつけられてような車などが塀に沿って並んでいる。真ん中に置いてある白い大きなトラックが後方が見えた。近寄ってみると、トーマスのトラックだ。
運転席側のドアはトーマス救出のために取り除かれている。前面がメチャメチャで、前方のタイヤがはずれていて、いつもと随分違って見える。座席と床に血の跡がある。頭の傷から流れたものだろうか。キャブの屋根の前頭部がへこんでいる。それでトーマスの頭は挟まれたのだ。目撃者のロバートさんがそう言っていたっけ。屋根全体がへこんでいたら、トーマスの頭は打ち砕かれてしまったことだろう。
キャブの屋根の後頭部がへこまなかったのは、背後のロールバーのおかげだ。ロールバーはトラックの荷台に載せて倒した重いパームツリーを支えるために、わざわざ取り付けた鉄鋼の枠だ。トーマスのトラックはおそらく前方に何回か転がったのだろう。その衝撃でロールバーは付け根の部分から後方に曲がってしまったけれど、キャブの後ろ半分を支えたのだ。
トーマスの事故からちょうど2ヶ月目の5月14日付けのニューヨークタイムズ紙に、フォード社のSUVやトラックの屋根は、転がる事故の場合にへこみ易いという報告の記事が載った。2002年には屋根がへこんだ事故で7000人近くの人が死亡したり大怪我をしたそうだが、そのうち3700人はシートベルトをしていたという。車が転がった事故では毎年1万人もが死亡し、1万6000人が大怪我をしているそうだ。(トーマスもシートベルトをしていたし、彼のトラックもフォードだ。)へこみ易い屋根のことで、フォードは目下訴訟にかけられているが、フォード側は屋根の強さと事故による怪我の度合いとは関係ないと主張しているとか。ボルボ社は2002年にSUVをアメリカに売り込み始めたときに、屋根はアメリカで決められた標準の2倍の強さに補強されていると強調したところ、フォードから苦情が出て引っ込めさせられたという。
無惨な姿になってしまったトラックを実際に見ていると、トーマスが生きていられたというのは奇跡に近いほど幸運だったという思いが身に沁みる。
が、いつまでもそんな感情に浸ってはいられない。鍵や携帯電話や書類の入った鞄を取り出さなくては…と思っていると、どこからか警官が近寄ってきた。 「失礼ですが」と、警官はためらいがちに言った。「何をしているんですか」 「このトラックは夫のものなので、鍵と携帯電話と鞄を取り出したいのですが」と、私が答えると、警官は気の毒そうな顔をした。 「こんなこと言いたくないのですが、業務上仕方ありません。身分証明書を見せていただけませんか」 それで運転免許証を見せると、警官は「いや、ありがとうございました」と丁寧に言って、「ガラスのかけらがいっぱいで危険ですから、触らない方がいいですよ。必要なものは私が取ってあげましょう」と、車の鍵をシャフトからはずし、携帯電話も見つけてくれ、「あっ、メーセージが5つも入ってる」と言ってちょっと笑った。 「あのぉ」と、ためらいがちに言うのは私の番だ。「鍵はこれだけじゃなくて、夫はいつも農園のあちこちの鍵を20個以上も箱に入れて持って歩いているんです。その箱には蓋がないんですけど…」 警官はキャブの床を探してくれた。が、1個も見当たらない。鞄も見当たらない。 「多分現場のあちこちに散らばっちゃったんでしょうなぁ」 きっとそうだろう。どうしたらいいかはあとでトーマスに相談しよう。まだすべきことがもう1つある。できるだけたくさん写真を撮っておくようにと、家族同然のゲアリーから言われたいたのだ。彼は弁護士でもあり、法律的にトーマスを守るためにいろいろアドバイスをしてくれる。 「写真を撮ってもいいですか」と警官に聞くと、「一向に構いませんよ」という返事なので、トラックの写真を左右前後のすべての角度から撮った。
「事務所で書類にサインしてください」と、写真を撮り終えた私に警官が言っているときに、若い女性がやってきた。極端に肥っているのか臨月なのかわからない。 「このトラックは、この人のダンナさんのものなんだ」と、警官は彼女に親しそうな口調で言った。 「へぇーっ! ダンナさん、まだ生きてる?」と屈託なく聞いた彼女の声に、邪気はなかった。思ったことがそのまま口から飛び出るタイプらしい。警官も実はそれが知りたかったけれど聞けなかったのかもしれない。 「大丈夫、生きていますよ。首の骨が折れちゃったけど。きょう、これから手術なんです」 「へぇーっ、良かったねぇ。手術もうまくいくといいねぇ」彼女は心からそう思ったようだった。
この若い女性が事務員だった。陽気におしゃべりをする彼女は、出産予定日まであと1週間だということがわかった。彼女について事務所へ行き、トラックを保険会社に引き渡す書類にサインした。鞄は彼女が荷台のどこかで見かけたので、見つけたら取っておいてくれると言った。
ロールバーのおかげでトーマスの命は助かった。そして、もうすぐ新しい命も生まれ出ようとしている。私は軽くなった気分で病院へ向かった。
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