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思わぬ道草(11)看護師騒動 |
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2005年7月9日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ 手術翌日、喉の管をやっと取ってもらった後のトーマス。この写真を撮るのも、それを阻止しようとする「悪魔」との闘いだった。 |
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「この病院で働きたいと思っている人をご存知ありませんか? そういう人が採用と決まったら、紹介してくださった方に2500ドル差し上げます」という呼びかけカードが、病院のカフェテリアの全部のテーブルに載っている。
アメリカの病院は深刻な看護師不足なのだ。看護師の仕事はきつい。そのわりには報酬は高くない。とはいえ、他国と比べると、労働条件も報酬もいいそうで、高い需要に吸い込まれて外国から看護師が流れ込んでいる。昨年だけでも1600人の看護師がイギリスからアメリカに渡ったという。フィリピンからはもっと多いだろう。看護師流出は、出身国に深刻な問題を起こしているに違いない。
4週間の入院の間、トーマス担当の看護師さんの中にもフィリピン人(多数)、イギリス人(2人)、イラン人、コロンビア人、ナイジェリア人がいた。看護師の質が出身地に左右されるということは決してない。看護師個人の資質に、いいケアをしてくれるかどうかがかかっている。そしてその看護師の資質が、入院中の患者や家族に最も大きいインパクトがあるのだ。そのことを、トーマスの入院中に痛感した。
実は、トーマスの首の手術の翌日という一番大事な日に、大変な看護師にぶつかってしまったのだ。
その日、私は午前11時まで病院に行かれなかった。トーマスは前夜とはうって変わって、60度ぐらいに立てたベッドで、まん丸に目を開けていた。 「起きてからもう4時間になるのに、CNNのニュースの繰り返しで気が狂いそうだ」 私を見るなり、そう紙に書きなぐった。喉に大きな管が挿されたままなので、しゃべれないのだ。ベッドに向かった壁に掛けてあるテレビには、CNNが映っている。
トーマスはひどく機嫌が悪かった。太い管が喉の挿されたままなのが苦痛なのかもしれない。痲酔が取れたらすぐ抜いてもらって良さそうなものなのに、呼吸担当医が来て承認するまでは抜けないという。午前中には来るはずだというが、もう正午近い。
が、トーマスにはもっと気になることがあった。「胸に耳を当てて聞いてみてくれ」と、紙に書く。言われた通りにしてみると、彼が呼吸をするたびに、胸の奥で、ゴロゴロ、と鳴る音が微かに聞こえる。が、本人にはもっと大きく聞こえるに違いない。胸に水が溜まったいる感じがして、横になると、自分の胸の中の水で溺れそうな恐怖感に襲われるのだ。私も数年前に手術をしたとき、手術後3日ぐらい経ってからだったが、同じような思いをした。だから、その辛さはよくわかる。そのとき私は脱水剤を飲み、昼間はできるだけ身体を動かし、夜は上半身を縦に座って寝てなんとか乗り越えたのだが、手術をしたばかりで、しかも絶対に首を動かせないトーマスには、それができない。
看護婦さんが点滴袋を取り替えに来た。その彼女に向かってトーマスは「聞いてくれ」と紙に書き、胸を指差した。驚いたことに、彼女はそれを無視しようとする。トーマスは彼女の腕をつついて、自分の胸を叩くように指差した。彼女はいかにもいやいやながらという感じで、トーマスの胸に耳を当てた。 「なんにも聞こえないわよっ」 私はびっくりして彼女の顔を見た。つっけんどんに放たれた彼女の声は、傍らにいた私にもグサッと突き刺さる。彼女は私の眼差しを無視してさっさと出て行った。トーマスはカンカンである。 「あいつは悪魔のようだ!」 そう書きなぐる。多分、私が来るまでの間に、同じようなことが繰り返されていたのだろう。トーマスが苛々していたのはCNNのせいではなさそうだ。
お昼過ぎにやっと呼吸担当医が来た。トーマスの様子を見て、すぐ管を外すように指示した。やっとしゃべれるようになった途端、トーマスは「首のドクターが今朝来た」と、私に言った。 「3ヶ月も首を動かせないと言ったよ。我々は破産だ…」 そうか、彼はそのことが気になっていたのだ。手術の結果を知らせるときは、彼のそばにいてあげたかったのだが、医師がいつやって来るかわからなかったし、今朝は農園運営資金の調達をやっていて、どうしても早く来られなかったのが残念だ。トーマスは1週間もすれば農園の仕事に戻れると思い込んでいたので、長期療養へは心の準備ができていなかったのだ。自営業は自分が休めば収入は即なくなる。10人も抱えている労働者の賃金や農園経営の経費をどうしたらいいのか、と彼は不安にとらわれたのだろう。 「そのことは後で心配しましょ。いまは早く良くなることに専念しなくちゃ」 私はそう言うしかなかった。意外にもトーマスはおとなしく頷いて黙った。一番気になるのは、やはり自由にならない身体のことなのだろう。
太い管が長時間入れられていたためだろうか、トーマスの口も喉も痛いくらいにカラカラに乾いている。けれど、水をくれと訴えると、きちんと呑み込めると喉専門セラピストが判断するまでは何も喉を通させられないとビシッと言われる。それはそうかもしれないけれど、口の乾きを癒す方法がなんとかありそうなものだ。が、この看護婦さんはそんな配慮をしようともしない。同時にトーマスは、胸の中は水がどんどん溜まっていく感じがして、呼吸ができなくなるのではないかという恐怖感に襲われた。そう訴えても、「手術後はそれが普通なんだから」と繰り返すばかりで取り合ってくれない。トーマスは次第にパニック状態になっていった。それと比例して、看護婦さんとの関係はますます険悪になっていく。トーマスが寒いと言うので、毛布をもう1枚持ってきてほしいと私が頼むと、「もちろん何でもして差し上げますわよ」と言葉は丁寧だが、口調は皮肉たっぷりで、私もカッとしてしまった。
私が小学校6年生か中学1年生の頃、日本の看護婦さんたちが「白衣の天使」などとおだて上げられながら厳しい労働条件と低賃金を強いられてきたことに抗議してストライキをし、一般人をびっくりさせたことを覚えている。もちろん、私は看護師が天使であってほしいと望んでいるのではない。でも、トーマス担当のこの看護婦さんはあまりにひどい。「天使」どころか、トーマスが「悪魔」のようだというのも無理はない。ベッド脇のモニターに示されているトーマスの血圧が高いのは、彼女のせいかもしれないと、つい疑ってしまう。私の血圧まで上がりそうだ。
この情勢をどうしたらいいだろう。そんなことを考えているうちに、休憩時間とかで、代わりの看護婦さんが来た。トーマスが胸に水が溜まっていることを訴えると、枕を背後に詰めて背中をもっとまっすぐにしてくれた。口の乾きには串に刺したようなスポンジを持ってきて、それに水を含ませて唇を拭くといいと教えてくれた。これでかなりラクになったとトーマスは言った。
そうなのだ、こうしたちょっとした配慮が大きな違いを生むのだ。あの「悪魔」が休憩から戻ってきたら、また苛々が始まってしまう。なんとかしなくては… 「あのイギリス人に相談したらどうだろう」と、トーマスが提案した。 前日まで中間病棟でトーマスの担当だったイギリス人看護師のことだ。ユーモアたっぷりで、思い遣りもありそうだ。私は階段を駆け上って、1階上の中間病棟へ駆け込んだ。
運良くそこにいたイギリス人看護師を捕まえて、私はトーマスの置かれた状況を話した。フンフンと聞いていた彼は、ICUには患者と看護師との間の問題を扱うコーディネーターがいると言った。 「彼女に話してみる?」 「イェス!」 「じゃ、行こう」 と言ったと思ったら、すぐさま彼は急ぎ足で階下のICUに向かった。身長が2メートルはある彼が大股で長い足をせっせと動かすので、私は小走りでついていく。
コーディネーターはオフィスにいなくて、がっかりしたが、イギリス人看護師が、オフィスに戻り次第トーマスのケースを取り上げてくれるよう、きちんと伝達してくれた。また長いこと待たされるだろうと思っていたが、間もなく、ジュリアン・ムーアのような美人のコーディネーターがやって来た。私たちが意地悪看護婦の苦情を憤然とつらねるのを、表情を変えず、落ち着きも崩さすに聞いた後、静かにこう言った。 「任務交代まであと2時間ぐらいしか残っていません。それまで彼女でもいいですか」 「ノーォッ!」トーマスと私は声を揃えて、とても我慢できないと訴えた。 「わかりました」と、ジュリアン・ムーアさんは言って、出て行った。
トーマスも私もホッとして、体中から力が抜けていくような気がした。昼間のシフトが終わるまでの2時間は別な看護婦さんが来てくれて、トーマスも落ち着きを取り戻し、私もやっと安心できたのだった。
それにしても、あんなにひどい看護婦がICUに勤務するなんて、看護師不足による不十分な訓練のせいだろうか。
(余談)アメリカの看護師は白衣は着ない。何色を着ようと自由らしいが、だいたい女性はカラフルなプリントを、男性はブルー系統を着ている。男女ともVネックでボタンなしの半袖の上着に、無地のコットンパンツ姿だ。
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