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思わぬ道草(13)彼の青い目(上) |
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2005年7月26日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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暗闇の中で電話が鳴った。 あわてて灯を点けて、時計を見る。4時25分。 ベッドに入ってから2時間弱しか経っていない。心臓の鼓動が急に速くなるのを感じた。
「ハロー?」 「パロマー病院でロイドン氏を担当している者ですが、こんな時間に電話してすみません」 中国系人の看護課長の声だ。ドキッとする。家に帰ってゆっくり休むようにと私に言ったときにあふれていた自信の響きが、いまの彼女の口調からすっかり消えている。 「そんなことは構いません」と言いながら、私は息を呑んで看護課長の次の言葉を待った。 「実はロイドンさんが大変興奮していまして、固定具を取ってくれと言って聞かないんですよ。それはできないと言うと、ひきむしるように自分ではずしてしまって…」 私は心の奥底でホッとした。トーマスの命に別状はないのだ。でも、頸部固定カラーとつながっている「ローマ鎧」をはずしてしまったら、首が危ない。それが命取りにならないとも限らない。 「危険だからと私たちが着けさせようとしても、抵抗してどうしても固定具を着けさせてくれないんです」 看護課長のほとほと困り果てているようすが、声の隅々から伺われる。 「あのぉ、ロイドンさんはいつもこんなにむずかしい方なんでしょうか?」 オー、ノー… またそんなことを… でも、そんなことを言うほど看護課長は途方に暮れているのだろう。口には出さないけれど、私に来てもらいたがっていることは明らかだ。もちろん、たのまれなくても、いますぐ飛んで行こう。 「これからすぐそちらに参ります」 看護課長は一瞬躊躇した。 「…なんとも申し訳ないです。こちらに来ていただかずになんとかロイドンさんを説得する方法はないでしょうか?」 もちろんそんなことは思いつかない。 「私のことはご心配なく。とにかく、すぐ参ります。そちらに着くまで40分はかかりますけど」 「本当に申し訳ありませんねぇ。どうか安全運転で来てください」
私は急いで身支度をした。「どうしてこんな時間に起きるの?」と言いたそうな顔で、犬たちが私の動きを目で追っている。でもいっしょに連れて行ってもらえないことはちゃんと察知していて、私が寝室から出ても跡を追わない。旅行中にいつも動物たちの世話をしてくれる祐子さんとマークが、今回も泊まりに来てくれているので、動物たちのことは心配しなくてすむ。二人は階下でもちろんまだぐっすり睡眠中だ。家の中も外もシーンとしている。私はそぉっと玄関のドアを閉じた。
夜明けまでにはまだ2時間はある。おまけに土曜の朝だから、道路はひっそりしている。月曜の夜も暗い同じ道を病院に向かった車を走らせた。あの夜はトーマスの怪我がどの程度なのか全くわからない不安でいっぱいだった。病院に着いてみたら、頭の右側全体に大きな外傷があって、頭をひどく打ったのはたしかだろうけれど、神経の損傷はなくて手も足も動かせるし、機嫌良く話しもしていた。私はどんなにほっとしたことか。
でも、いまになって傷害が出てきたのだろうか。事故の夜はいつものように陽気で、救急の看護婦さんに「話していてとっても楽しい人」と言われたくらいだったのに、いまはやさしそうでしかも経験も豊からしい看護課長を困り果てさせるほど、性格が変わってしまったのだろうか。シャーリーの亡夫は晩年たいへんな意地悪じいさんになってしまい、トーマスはよく「あんなふうにはなりたくないものだ」と言っていたのに、頭の怪我で彼も急に意地悪じいさんになってしまったのだろうか。そしてもう寛容で愉快な元の彼には戻らないのだろうか。としたら、これからの私たちの人生はどうなるのだろう…
いろいろな不安が私の胸の中を駆けめぐる。事故のあった夜よりもっとガランとした高速道路の上を、私はひたすらに車を走らせた。
(註)このことがあったのは、3月19日で、現在のことではありません。
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