1989年創立 個の出会いと交流の場 研究会インフォネット
HOME 研究会インフォネットとは 会員規約 お問い合わせ
会員専用ページ
過去のINFONET REPORT カレンダー 会員連載エッセイ なんでも掲示板
会員紹介 財務報告
会員連載エッセイ
最近の記事 以前の記事
ボーダーを越えて
51 思わぬ道草(5)OR
2005年5月11日
雨宮 和子 雨宮 和子 [あめみや かずこ]

1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。ボリビアへの沖縄移民について調べたり書いたりしているが、配偶者のアボカド農園経営も手伝う何でも屋。家族は、配偶者、犬1匹、猫1匹、オウム1羽。
「長いこと待たせちゃってすみません」と言いながらも、ソーシャルワーカーはそうすまなそうな顔はしていない。「ドクターがロイドンさんの容態を安定させるのとレントゲン撮影に時間がかかったものですから」
それならそうとちょっとでも教えてくれていたら、私はもっと平静でいられたのに… そう言いたかったが、今さらそんなことを言っても始まらない。いや、そんなことはもうどうでもいい。トーマスが生きている、しかも危篤状態などというのでもなさそうだとわかっただけで、コチコチだった全身が緩んできた。

ソーシャルワーカーはドクター・スミスという救急担当医に私を紹介した。髪は真っ白だが、まだおじいさんとは見えないドクター・スミスは温厚な感じで、まことに口数が少ない。
「ロイドンさんは大丈夫ですよ。頭に怪我をしてかなり出血したので、輸血しましたが、いまのところ、どこも折れている形跡はありません」
「本当に?! 手や足も動かせるんですか?」
「イェス」
「じゃあ、脳や神経に異常が起きたということもないんですね?」
「そういうことです」
あぁ… 不死鳥のようないつものトーマスなのだ… 
思わず「ありがとうございます」ということばが口から飛び出した。ドクターに、というより、トーマスを私から奪わないでいてくれた幸運に。

そのとき、廊下の角のドアのない部屋から、トーマスらしい声が聞こえてきた。いつものように大きくて、しかも格別によく通る声だ。
「彼の様子を見に行ってもいいですか?」
黙って頷いたドクター・スミスに今度はちゃんとお礼を言って、私はその部屋へ行った。

トーマスは大きな輪の付いたベッドに寝かされていた。首には固定帯がされ、身体は何枚も重ねられた白い毛布で覆われている。頭の右半分はガーゼで覆われているけれど、そこがひどい怪我らしいことはわかる。看護婦さん(というと、言葉警察に叱られてしまうかもしれませんね。女性看護師ということです)が2人いて、若い方の看護婦さんが彼の右側に立って、凝結して顔中にこびりついた血を拭き取っている。胸にまで流れた血の固まりがついている。私は左側に廻って、ベッドが高くしてあるので私の胸の辺りにある彼の顔を覗き込んだ。
「ひどい姿ねぇ」無事だとわかった彼を、私はついからかってしまう。
彼はニヤット笑って、「何が起こったのか、全く記憶がないんだ」と、言い訳するような口調で言った。
私は目撃者のロバートさんから聞いた事故の経過を彼に話した。ロバートさんが真っ先に私に連絡してくれたことも。

私の話に陽気に相槌を打つトーマスの調子には、大事故に遭った直後という気配が全くない。ただ、大変に暑がりのはずのトーマスが「寒い、寒い」と連発する。やっぱりフツーじゃないんだ。年上の方の(といってもまだ30代半ばぐらいの)看護婦さんが、暖めた毛布をもう1枚、彼の胸に、さらにもう1枚を頭の回りに掛けてくれた。私は彼女から大きなビニール袋を2つ渡された。その1つには血だらけのシャツとショーツとお財布が、もう1つにはこれまた血だらけのブーツが入っている。病院としては患者の所有物を勝手に処分するわけにはいかないのだろう。( 家に帰ってからすぐ、お財布以外はゴミ箱に捨てた。)

整形外科医がやって来ると言われてから間もなく、若くて(イケメンというのはこういう男の人をいうのだろうと、とっさに思ったほど)ハンサムなドクターが、ブリーフケースを持って急ぎ足で入ってきた。「ドクター・モフィッドです」と、トーマスと私に手を差し出して自己紹介した。見かけだけでなく、フレンドリーでマナーも満点。トーマスの頭の右側を手早く調べて、「傷が大きく、皮膚がごっそり剥けていて、耳の上部3分の1が落っこちそうですね。これはすぐ対処しなくちゃいけません」と、私に言った。
「まぁ、そんなにひどいんですか? 全然見ていないのでわからなかったけど」
「いや、見ない方がいいですよ」
ニッコリしながら優しくそう言うと、ドクター・マフィッドは「ORをすぐ準備して」と 看護婦さんに指図して、姿を消した。なるほど、救急室(Emergency Room)がERなら、手術室(Operation Room)はORというわけだ。

ORの準備ができるのを待っている間、いくつもの書類に署名する。手術の危険を知っていて手術に同意すること、輸血の可能性があるので血液銀行からの血液の輸血に同意すること、等々。トーマスの入院中に何度も繰り返させられることとなった同意書署名の始まりだ。それが済むと、私はトーマスに、あしたは給料日なので私が給料袋を準備して農園に持っていくつもりでいること、また、パームの出荷はトラックの運転手と打ち合わせてキャンセルするつもりでいることを話した。仕事が大好きな彼が一番気にしているのは農園のことだろうから。彼は安心した顔をして、親指と人差し指で丸を作り、オーケーと合図した。

そうこうしているうちにORの準備ができたらしい。トーマスはベッドごと運ばれていき、わたしもORの入り口まで付いていく。そこでERの看護婦さん2人はORのチームにバトンタッチ。トーマスは今度はORの看護士さんたちの手で中へ行く。
「また後でね」(See you later)と、私は彼に手を振った。
「オーケー」と彼も陽気に応えると、扉が閉まった。
私はそままORの入り口前の待合室へ行って、椅子に腰を下ろした。ERロビーに座ったときとは比べものにならないほど落ち着いていられる。時計を見ると、もう10時になっている。あれから1時間半が経ったのだ。

いま振り返ると、あの夜、トーマスも私もなんとアホらしいほど楽観的だったことか。あの夜の私たちは遠い過去の存在だったような気がする。
最近の記事 ページトップへ 以前の記事
ボーダーを越えて
雨宮 和子
かくてありけり
沼田 清
葉山日記
中山 俊明
寄り道まわり道
吉田 美智枝
僕の偏見紀行
時津 寿之
ぴくせる日記
橋場 恵梨香
縁の下のバイオリン弾き
西村 万里
やもめ日記
シーラ・ジョンソン
きょう一日を穏やかに
永島 さくら
ガルテン〜私の庭物語
原田 美佳
バックナンバー一覧
200 小さなしあわせ
199 お葬式
198 とうとうやって来た日、そして雨
197 思い切り生きる
196 一夜が明けて
195 ヘザーと私の日本旅行記(6 下)文楽とフグ
194 ヘザーと私の日本旅行記(6 上)ショッピング
193 ヘザーと私の日本旅行記(5)多様な日本
192 ヘザーと私の日本旅行記(4 下)河津桜と温泉
191 ヘザーと私の日本旅行記(4 上)伊豆へ向かう
190 ヘザーと私の日本旅行記(3)葉山・鎌倉
189 ヘザーと私の日本旅行記(2)江戸・かっぱ橋・オフ会
188 ヘザーと私の日本旅行記(1) 日本到着
187 生ある日々を
186 花嫁の父
185 プラチナの裏地
184 家族をつなぐ指輪
183 「血の月」を追いかけて
182 ママハハだった母
181 アジア人(下)固定観念を越えて
180 ジプシーの目
179 選挙に映ったアメリカの顔
178 とうとう、きょう
177 アジア人(上)その概念
176 海軍出身
175 特攻志願
174 お祭り
173 ありがとう、で1年を
172 クリスマスプレゼントが今年もまた
171 スージー・ウォンの世界
170 秩序の秘訣
169 黒い雲の行方
168 ドアを開けたら
167 今年もまた
166 ボリビア(7)ボリビアで和菓子を
165 ボリビア(6)パクーの登場
164 ボリビア(5)卵の力、女性の力
163 ボリビア(4)小麦の都
162 ボリビア(3)米の都
161 ボリビア(2)2つの日系移住地
160 ボリビア(1)サンタクルス
159 闇の中で
158 みんなの宝物
157 新語の中身
156 年末のご挨拶
155 ピッチピッチチャップチャップ
154 神の仕業
153 ラタトゥイユ(2)レシピ
152 ラタトゥイユ(1)
151 プティ・タ・プティの最後の1片
150 ジプシーとの知恵競争は続く
149 豊かな粗食
148 中絶抗争
147 スーザン・ボイルの勝利
146 黄昏の親子関係
145 子ども好き
144 言葉雑感(8)regift
143 言葉雑感(7)「ん」の音
142 アメリカの理想
141 ときめく日の足音
140 言葉雑感(6)ミルクとは
139 ミルクの教訓
138 年末の独り言
137 投票日日誌
136 あと3日
135 ペイリンから見えるアメリカ
134 訴訟顛末記(1)まず弁護士を
133 園遊会で
132 柔の姿勢
131 言葉雑感(5)4文字言葉
130 豪邸の住人
129 言葉雑感(4)カミはカミでも
128 言葉雑感(3)ブタ年生まれ
127 言葉雑感(2)子年のネズミ
126 言葉雑感(1)グローバルなピリピリ
125 やって来た山火事(最終回)これから
124 やって来た山火事(9)いとおしい木々
123 やって来た山火事(8)現実に直面して
122 やって来た山火事(7)焦燥の2日間
121 やって来た山火事(6)私の方舟
120 やって来た山火事(5)避難準備
119 やって来た山火事(4)止まない風
118 やって来た山火事(3)第1日目の夜
117 やって来た山火事(2)第1日目の夕方
116 やって来た山火事(1)第1日目の昼下がり
115 しあわせな1日
114 チェ
113 メキシコの息づかい
112 「石の家」
111 「バッキンガム宮殿」での晩餐会
110 ケーキ1切れ
109 「豊かさ」の中身
108 イタリアの修道僧
107 3年ぶりの日本
106 キューバ:アメリカの恥
105 キューバ:バラコア
104 キューバ:甘い歴史の苦い思い出
103 キューバ:2つの通貨
102 キューバ:近過ぎて遠い国
101 ホンジュラス(最終回)去る者,残る者
100 ホンジュラス(19)シエンプレ・ウニードス
99 ホンジュラス(18)ガリフナ放送
98 あと1年、だったら
97 無信仰者のクリスマス
96 ホンジュラス(17)ガリフナ
95 ホンジュラス(16)バナナ共和国
94 ホンジュラス(15)マヤ文明の跡
93 ホンジュラス(14)牢獄の中と外
92 ホンジュラス(13)先住民の女性たち
91 ホンジュラス(12)一番安全な町
90 ホンジュラス(11)オランチョの森(下)
89 ホンジュラス(10)オランチョの森(上)
88 金鉱の陰で(追記)カリフォルニアで
87 ホンジュラス(9)金鉱の陰で(下)
86 ホンジュラス(8)金鉱の陰で (中)
85 ホンジュラス(7)金鉱の陰で (上)
84 ホンジュラス(6)原則に沿って
83 ホンジュラス(5)農地のない農民
82 移民政争とラティノの力(続)
81 移民政争とラティノの力
80 ホンジュラス(4)消え去った人々
79 ホンジュラス(3)ホテル・ナンキンで
78 ホンジュラス(2)レンピーラ
77 ホンジュラス(1)行ってみよう
76 本物を見る
75 豊かな心
74 蝶の力
73 単刀直入
72 愛の表現
71 ベネット・バーガー
70 感謝の日
69 思わぬ道草(最終回)原点
68 思わぬ道草(19)回復に向けて
67 思わぬ道草(18)人は孤島にあらず
66 「ニューオーリーンズ」に見えたもの
65 思わぬ道草(17)一歩後退の教訓
64 思わぬ道草(16)日没症候群
63 甦生の兆し
62 ニューオーリーンズとクリスチャン
61 思わぬ道草(15)もつれた糸
60 思わぬ道草(14)彼の青い目(下)
59 思わぬ道草(13)彼の青い目(上)
58 思わぬ道草(12)ローマ鎧
57 思わぬ道草(11)看護師騒動
56 思わぬ道草(10)近くの他人
55 思わぬ道草(9)ロールバー
54 思わぬ道草(8)楽観の2日間
53 思わぬ道草(7)一人三脚
52 思わぬ道草(6)長い夜
51 思わぬ道草(5)OR
50 思わぬ道草(4)ER
49 思わぬ道草(3)常習犯
48 思わぬ道草(2)目撃者
47 思わぬ道草(1)3月14日の夕方
46 訛った英語
45 イギリスの英語
44 英語とアメリカ
43 海の中に(下)
42 海の中に(上)
41 姓というマーカー(下)
40 姓というマーカー(上)
39 国籍あれこれ:選択肢
38 国籍あれこれ:彼の場合
37 国籍あれこれ:私の場合
36 ボーダーとは
35 最終回:グローバリゼーション
34 番外編:クリスマス・ディナー
33 サンタアナの風
32 お刺身パーティー
31 アボカド泥棒
30 アボカドと生きる鳥
29 カラスのご馳走
28 三つ子の魂
27 子宝のもと?
26 アボカド探検家
25 ゴールドラッシュの波紋(下)
24 ゴールドラッシュの波紋(上)
23 海を渡って(下)
22 海を渡って (上)
21 コンキスタドール
20 アボカド事始め
19 ハースマザーの行方
18 世界アボカド会議
17 フエルテ
16 ハースマザーの木(下)
15 ハースマザーの木(上)
14 鶏より馬
13 働く人々
12 花婿の父
11 シンコ・デ・マヨ
10 「奇跡の3月」
9 アボカド形の穴
8 父親不明
7 女性花・男性花
6 トーマスのギャンブル(2)
5 トーマスのギャンブル(1)
4 成熟と完熟
3 グァカモーレ
2 アボカドさまざま
1 メックスフライ
ページトップへ
Copyright(C) FORUM INFONET, All rights reserved. Copyright(C) FORUM INFONET, All rights reserved.
掲載の記事・写真・イラスト等、全てのコンテンツの無断転載・複写を禁じます。
0 9 2 6 3 8 1 9
昨日の訪問者数0 2 4 6 1 本日の現在までの訪問者数0 0 1 8 8