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思わぬ道草(16)日没症候群 |
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2005年9月13日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ 「蘭サボテン」(Orchid Cactus)の俗名があるエピフィラム(Epiphyllum)。 色は深紅から真っ白までとさまざまで、原産はメキシコから中米。花の命は短くて、1年に2〜3日間だけ、突然と咲いてくれる。 |
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前日に引き続いて、また電話で起こされた。ボーッとしたまま時計を見ると、7時20分。前日の電話より3時間は遅いから、はるかにましではあるけれど、日曜日だからアボカドのパッキングハウスではないはずだ。誰だろう?
受話器を取ると、「ゆうべはよく眠りましたか」と言ったのは若い男の声だ。声の主がトーマス担当のあの青年看護師だと思いつくまで、少々時間がかかった。 「眠りましたよ」と返事をしたものの、本当はちゃんと眠ったような感じがちっともしない。 「実はロイドンさんがまた夜よくなくて…」 驚くというより、「またか」という思いで、何と返事をしたらいいのかわからない。 「きょう、こちらに来られますか」 そんなことは当たり前ではないかと思いながら、「もちろん」と言うと、「何時に?」と、ロバート看護師は叩き込むように聞く。 きょうはホセに朝早く行ってもらって、私はちょっと朝寝をさせてもらい、10時に彼と交代するつもりだった。 「8時には友だちのホセがそっちに行くことになっていますが」 「それはよかった。それでは、また後で」 そう言うと、青年看護師は電話を切った。
トーマスはまた無理難題を言って、夜勤の看護師さんを困らせたのだろうか。その兆候はあった。前日、トーマスの頭の中のもつれた糸は、エド・スティッカのおかげで昼間はすっかりほぐれたのに、夜になると再びもつれだしたのだ。
夜勤の看護師さんに交代したころ、またもや「ローマ鎧」がきつくて息苦しいと言い出して、器具専門の人に調整してもらうことにした。が、夜のことなので当直の人が1人しかいなくて、なかなか来てくれない。トーマスはだんだん興奮していき、「調整になんか誰も絶対に来ない」と言い始めた。 「そんなことないわ。ちゃんと来るわよ。看護師さんが何度も連絡してくれたもの」 「君はいつもそうやって楽観的なんだから」 まあ、そうかもしれない。でも、楽観的だからここまでやってこられたのよ、と言いたかった。が、代わりに、「これでわかったでしょ。待つってことがどんな気持になるか」と彼をからかった。家でパーティーをやるときや、どこかに夕食に呼ばれているときは、トーマスがなかなか時間通りに帰ってこないので、私はいつもハラハラ苛々させられるのだ。
からかうつもりで言ったことが、糸のもつれの連鎖反応を起こすきっかけになってしまった。 「コーヒーはできてる?」と彼が聞いたのである。 「コーヒー? コーヒーなんてここにないわよ」 「コーヒーがなくてどうやってお客さんの接待ができるんだ?」 「お客さんなんてここにいないわ」 「でも、そこで待ってるよ」 「トーマス、ここは病院なのよ」私はエド・スティッカに教えられたように、トーマスを現実に引き戻そうとした。 トーマスはしばらく黙っていた。そしてポッソリ、「パーティは苦手だな」と言った。いや、そんなはずはない。彼はパーティーのホストを上手にこなすし、またいつもそれが楽しそうでもある。
トーマスはしばらく黙って目を閉じていた。が、突然目を開いて、青い目で私を見つめ、「どうしてこのパーティーをやる気になったんだ?」などと言った。 「トーマス、パーティーなんてここでやっていないの。ここは病院なの。あなたは病院にいるのよ」 「そうか…」 納得したのかな、と思った途端、彼はまた「ローマ鎧」を引きちぎるようにはずそうとした。私はあわてて止めにかかった。また同じことが繰り返される… そう思ったところに、器具専門係が現れた。
ところが「ローマ鎧」は特殊らしく、その人は調整の仕方を知らなかった。意外にもトーマスはきっぱり諦めて、ぐっすり眠りたいから強い鎮痛剤を打ってくれと看護師さんに頼んだだけだった。そしてそのままおとなしく眠ってしまった。私はしばらく彼を見守っていたのだが、目を覚ます気配はない。 「大丈夫。私たちがちゃんと見てますから、家に帰って休まれた方がいいですよ」と、夜勤の看護師さんが言ってくれた。 「でも、昨夜、彼は大変だったので…」 「そのことは聞いています。でも、今夜は大丈夫でしょう」 そう言った看護師さんは静かな自信にあふれていた。その前の夜の若い人と違って、もっとゆったりとして、十分の経験を積んでいる感じなので、私は安心して寄りかかった。
日が落ちると神経が高ぶり、妄想にとらわれたり、強迫観念に取り憑かれたりする患者が珍しくないと、後に別の看護婦さんから聞いた。それを日没症候群(Sundown Syndrome)と呼ぶそうだ。それ以後トーマスは「ローマ鎧」をむしり取るようなことは1度もなかったが、夜になると平静を失いがちになるのは退院するまで続いた。
トーマスが再び看護師さんたちを困らせたとしても、夜明け前に電話をしてこなかったところを見ると、切り抜けてくれたのだろう。そう思って、もう一寝入りしようとした。が、どうしても眠れない。8時半に目覚ましをかけておいたのだが、8時前には起きてしまった。が、疲れがたまっている身体がなかなか言うことを聞いてくれない。しばらくバスルームの床に座り込んで深呼吸を繰り返してから、のろのろ身支度を始めた。
そろそろ出かけようとしていたとき、また電話が鳴った。ホセだ。 「トーマスが呼吸困難になって、ICUに移されたんだ」と、彼は意外なことを言った。そしてトーマスが移された部屋の番号を教えてくれた。 そうだったのか、青年看護師が朝早く電話をかけてきたのは、そのためだったのだ。でも、まずホセが病院へ行くと言ったので、青年看護師は私に余計な心配をさせまいと、何も説明しなかったのだろう。
今夜は病院に泊まり込みになるかもしれない。そう思って歯ブラシをバッグに入れ、家を飛び出た。これでまたゼロからやり直しだ。トーマスは今度こそ危ないのだろうか… そんな不安でいっぱいの胸を抱えて、私は車を走らせた。
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