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58 思わぬ道草(12)ローマ鎧
2005年7月22日
雨宮 和子 雨宮 和子 [あめみや かずこ]

1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。ボリビアへの沖縄移民について調べたり書いたりしているが、配偶者のアボカド農園経営も手伝う何でも屋。家族は、配偶者、犬1匹、猫1匹、オウム1羽。
▲ 「ローマ鎧」を着けたトーマス。この写真は彼の回復がかなり進んでから撮ったもの。
アメリカ全体、いやカリフォルニア全体でそうなのかどうかはわからないけれど、私の知っている限りでは、どの病院も面会時間というものを指定していない。いつでも入院患者に会いに行けるのだ。が、当然ながらICUではそういうわけにはいかない。パロマー医療センターのICUでは、看護師の担当交換のある午前と午後の7時半から8時半まで、医療関係者以外は全員出て行かなければならない。夜のこの1時間を、私はカフェテリアで過ごした。

「悪魔」と思ったほど意地悪だった看護師とやり合った日は、その1時間、トーマスのそばから離れて、どこかまだ昂っている神経を鎮めた。ガランとしたカフェテリアに1人で座ってしばらく目を閉じていると、友だちのホセとサンディの夫婦がやって来た。前夜もトーマスの手術の間ずっと私のそばに遅くまでいてくれた彼らは、二人とも学校教師で、仕事の後でどんなに疲れていることだろうに、きょうも来てくれたのだ。それ以後もホセはほぼ毎日、サンディも1日おきにトーマスの入院中に来てくれた。「家までたった30分しかかからないから」と彼らは屈託なく何度も言ったが、細くてくねくねした急な坂道を通って行かなければならないから、疲れたときの運転はたいへんだ。私はそれまでは、友人であれ親類であれ、ひとに何かをしてもらうことはあまり望まなかったのだが、今回は友人たちが率先してやってくれることが身に沁みるほどありがたく感じられる。50代も後半にかかって来ると、自分の限界がわかってくるからだろうか。

「せっかく来てもらったのに、いま、病室には入れないのよ」と言うと、
「いいの、いいの。私たちはトーマスのお見舞いというより、あなたを力づけるために来たんだから」とサンディは言ってくれる。
途端に私の肩から急に力が抜けた。意地悪看護師のことを訴えると、二人とも「それはひどい」とか「あんまりだ」とか相槌を打ちながら、耳を傾けてくれる。ようやく私の気分はようやく治まっていった。それで1時間はすぐ過ぎた。ホセとサンディはトーマスはまだ見舞客を受け入れられる状態ではないだろうからそのまま帰ると言い、私をICUの入り口まで送ってくれた。私は二人の暖かい眼差しを背中に感じながら ICUの扉を開けた。

夜勤の看護師はまだ若いコロンビア人男性だった。私がトーマスの部屋へ行こうとすると、「ちょっと耳に入れておきたいことがあるんですが」と言って私を引き止めた。
「ダンナさんはきょうとっても興奮していて、昼間の看護師に暴言をぶつけ続けたそうなんです。ダンナさんはいつもそうなんですか?」
えぇっ? とんでもない! トーマスとは二十数年いっしょにいるけれど、私に暴言を吐いたことなど、もちろん一度もない。この看護師は私が昼間、あの意地悪看護師のやることを見ていたのを知らないのだ。私はムッとして、彼女がトーマスにも私にも意地悪だったことを手短に話した。話しながら、私はこの無実の男性看護師を睨みつけていたのかもしれない。彼は「いや、私は彼女からそんな話を引き継ぎで聞かされただけなんですが…」と、引き下がった。

重大な手術をしたばかりの患者がいろいろ要求するのは当然ではないか。なのに、あの意地悪看護師とのやり取りが、トーマスの人格の問題として扱われてしまう。親切心から私に警告したつもりだったらしいが、この若い看護師も少々軽率だ。私はまたもや煮えくり返るような気分になった。私は1つ大きな深呼吸をした。そうしてからトーマスの部屋に入った。

でも、コロンビア人看護師はトーマスの訴えることをやさしく聞いててきぱきと処置してくれ、トーマスも「彼はいい人だ」と満足していた。担当看護師のあり方1つで、トーマスも私も安心度が大きく左右されるのだった。入院中ずっとそうだった。

トーマスは首の骨が折れたのみならず、背骨にもヒビが入っているとかで、背中と胸をはさむような固定具を付けるようにという指示が担当医から入って来ていた。夜の10時頃になって、そういう固定具を患者の身体に合わせて調整して着けさせる機関から、20代の若い女性派遣員がやって来た。

固定具というのは、背中の部分と胸の部分がそれぞれ真ん中に付いた2本のメタルの棒で首固定カラーとつながっており、背中と首を前後から挟むようにして固定させるものだ。派遣員は大きなカバンから、これまた大きくて重そうなレンチを取り出して、カンカン音をさせてはメタルの棒を動かし、トーマスの身体に合わせていった。それを実際に彼の身に着けるのが大変。なにしろ彼は全く身体が動かせない、彼の首は絶対に動かしてはならないのだから。おまけに彼は身長が188センチ、体重が90キロ近くもある大男だ。それでも、小柄なコロンビア人看護師と私よりちょっとだけ背が高そうな女性派遣員は2人だけで、慣れた手つきでトーマスを左に倒したり右に倒したりしながら、固定具を着けてしまった。

この固定具はもちろんちゃんとした名前があるのだが、まるでローマ帝国兵士の鎧のようなので、私たちは「ローマ鎧」(Roman Armor)と呼んだ。これで首と背中が固定されるのはいいのだが、背中の真ん中にメタルの棒があるので、これを着けたまま寝ているのはさぞかし辛いだろう。が、それを着けられたばかりのトーマスは文句も言わず、おとなしくしていた。

ローマ鎧の件が済むと、今度はトーマスをICUから緊急性のない中間病棟に移すという。首の手術前にいた病棟だ。彼の容態がそれだけ落ち着いているということだろう。まずローマ鎧を着けた彼を別なベッドに彼を移し、それからそのまま1階上の病棟へ、と移動した。

中間病棟で割り当てられた部屋は2人用だった。もう真夜中だというのに、カーテンで仕切られた向こう側からは灯が漏れていて、お隣さんはまだ起きているようだ。担当看護師さんはまだ20代の若い女性で、血圧と脈を測り、トーマスに痛みの度合を聞く。幸いにも彼は事故以来ずっと激痛に襲われることはなかったが、いつも鈍痛があり、その夜は手術をしてからまだ1日ちょっとしか経っていないので、モルヒネを打ってもらった。これは睡眠薬にもなる。トーマスはローマ鎧を着けたまま、眠りに落ちていった。

そこへ私と同年ぐらいで非常に母性的な感じのする中国系の女性がやって来た。この病棟の夜勤看護課長らしい。
「ロイドンさんはきっとこのままよく眠れるでしょう。あなたの方が疲れているようですよ。ロイドンさんのことは私たちがちゃんと見ていますから、安心して今夜はもう家に帰ってゆっくりお休みなさい」
彼女はまるで学校の先生が生徒に話すような口調で、帰るように私を促した。この人なら大丈夫だ。そういう気がして、私は彼女に言われた通り、帰宅することにした。

こうして意地悪看護師と対決した1日はようやく終結した。家のベッドにもぐり込み、灯を消したのは午前2時半だった。
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