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僕の偏見紀行
104 アイルランド紀行(6)ダンロー峡谷
2010年8月27日
時津 寿之 時津 寿之 [ときつ としゆき]

1945年、九州にて誕生。2010年4月65才で長年勤務したメーカーを定年退職。家族は息子2人が独立し、今は配偶者と二人暮し。趣味は読書、散歩、旅行。読む本は何でもジャンルを問わず、旅先も国内外を問わずどこでも、気の向くところへ。
▲ 湖をつなぐ水路を行くボート。急流を遡上するためボートは客を降ろしてジリジリと進む。
▲ 苦労してたどり着いた峠。自転車の少年グループが休憩していた。
▲ 峠から眺めたダンロー峡谷。この道を降って行った。
モルトンでの第一夜は静かな部屋でぐっすり眠ることができ、気持ちのいい朝を迎えた。窓には遠い山並がかすみ、雲の切れ間から青空がのぞいている。今日はどこへ行こうか、天気はどうだろう。

9時過ぎにインフォメーションへ行き、ジェニーに相談する。天気が崩れなければキラーニー国立公園のダンロー峡谷トレッキングがよかろう、ということになった。

コースは国立公園の山腹に連なる大小3つの湖をボートで遡上後、上陸地点からは氷河が刻んだ深い峡谷を約12キロ歩くことになるが、馬車や馬の利用も可能らしい。天気がもてばいいが、雨に降られたらちょっと辛いコースだ。

ジェニーに教えられたツアー会社のオフイスへ行く。金を払ってどのバスに乗るか尋ねると、今日は客が少ないからバスは小型だ、とオヤジの機嫌が悪い。なるほど年季の入ったかわいいボンネットバスだ。相客は10人ほど、ハネムーンらしい中国人カップルが興奮してはしゃいでいる。

ガイド兼運転手はよく日に焼けた中年男、こちらでは珍しく口数が少ない。つば広帽子が良く似合う一見インディ・ジョーンズ風の渋いオヤジだ。バスは郊外へ1時間ほど走り、古城が聳える湖のほとりに到着。夏なのに湖面を渡る風は冷たい。

船外機付き小型ボートに乗り込んで出発、渡された救命胴衣が古び、いささか心もとない。最初に一番大きな湖、LOWER LAKE、下の湖、を渡る。長円形で最長部は10キロ以上ありそう。湖水は澄み切ってきれいだが、泥炭層特有の薄茶色をしている。入り組んだ入り江が続き、その奥には朽ち果てた館も見えている。

ボートは湖の中央に出るとスピードをあげた。まともに吹き付ける風が急速に体温を奪っていく。あわてて防寒ジャケットに上下のウインドブレーカーを重ねる。

3つの湖をつなぐ水路は徐々に狭まり、流れが一段と速くなる。薄茶色の流れは渦巻きうねりながら、ボートを押し戻す勢いで流れ下る。最も流れが狭く急なところでは、ボートは客をおろし辛うじて急流を遡上していく。客はその間河岸の森を歩かねばならない。

苦労して水路を抜けると穏やかな、真ん中の湖、MIDDLE LAKE、に出た。両岸は氷河の爪あとを思わせる岩の多い斜面、岸辺にはアシが生い茂っている。ボートは太古から続くであろう荒々しい風景の中をを静かに進んでいく。手付かずの大自然に圧倒されたのか、まわりは無口になり聞こえるのは船外機の音だけだ。

3つ目の湖を渡り終えたボートはトレッキングの出発点ロード・ブランドンズ・コテージに到着した。ガイドは、ここで昼食を済ませ12キロ先のケイト・カーミーズ・コテージへ午後4時までに来てくれ、バスを回しておくから、とだけいうと湖へ戻っていった。

バスの中でトレッキングのルート説明と馬車の利用などについては彼から聞いていた。しかし詳しいことが分からないので歩くか馬車にするか、僕は決めかねていた。時計を見ると12時過ぎ、食事しても3時間以上ある。12キロくらい歩いても大丈夫だろう、と気楽に考えたがこれが甘かった。。

サンドイッチとジュースのランチをあわただしく済ませロッジを出発した。道端の羊の牧場を過ぎると、行く手に苔むした石橋が見えてきた。橋を渡ると馬車が1台停まっていたが御者がいない。ランチにでも行ったのだろうか。

あたりを見回しても誰もいない。それぞれに出発した相客も今は見当たらない。標識の方向を見ると森の中を平坦な道が続いている。これは格好の散歩道だ、と思った僕は足取りも軽く歩き始めた。心地よい森の小道はしばらく続いた。行きかうものも少なく、僕は自分のペースでゆっくりと歩いた。

背後からの馬車の音に振り向くと、同じグループのアメリカ人夫妻が乗っている。彼らは手を振りながら、小気味よいひずめの響きを残しながら軽やかに駆け抜けていった。僕も馬車にすれば良かったかな、チラと弱気の虫が頭をもたげる。

気持ちのいいハイキングコースだからゆっくり楽しんで歩こう、僕は気を取り直して歩き続けた。ところが森がつきると道は登り坂になってきた。道の両側は牧場や自然の草地が広がり、左側は緩やかに谷へ降る斜面、右側は山の尾根へ向かう急斜面となっている。遠くには民家の赤い屋根が見えている。

午前中の曇り空はいつの間にか晴れ上がり、山の中腹を登るにつれ日差しが強くなった。斜面を蛇行する道は勾配がきつくなり、全身に汗が噴き出してくる。いったいどれくらい登るのだろうか、見上げても尾根が斜面に遮られよく分からない。

それにしてもこの道を行きかう人がいない。ときおり車が追い越していくが、歩く人は皆無だ。果たしてこのルートは正しいのだろうか。不安に駆られながら僕は重くなった足を進めた。

ガイドの説明だけでは不安な僕は、出発前にコテージのオバサンにルートの再確認をしていた。オバサンは、途中の教会のところで右折すること、これを間違うと大変なことになる、と何度も念を押し簡単な地図まで書いてくれた。

地図を見ながら歩いたがなかなか教会は見えてこない。地図では教会はすぐ近くのはずだが、見えるのは草原と羊ばかり。一人で汗をかきかき不安に駆られながらなおも歩く。誰かに尋ねようにも一人も出会わない。

不安なまま30分以上歩いた後、ようやく行く手に教会のとんがり屋根が見えてきた。ほっとしてその先の右折ポイントを探すが見当たらない。教会の前にいた地元の男性に尋ねるが要領を得ない。仕方なくそのまま直進する。

10分くらい歩いたところでやっと右折ポイントらしき分岐点へ着いた。ところがそこにあるのは直進して他へ向かう標識だけ、僕が目指すケート・カーミーズ・コテージへの案内はどこにもない。後で考えると、僕が歩いたのは観光客用の短いコースで、もっと本格的な本来のトレッキングコースが別にあり、標識はそれ用だったのだろう。

標識はないがロッジであれだけくどく言われたのだ。僕は不安な気持ちを抑え、右折して標識のない方向へ進むことにした。道は細くなり勾配はさらにきつくなってくる。僕は暑い日差しにややぐったりしながら、一人とぼとぼと歩き続けた。

誰かに会ってルートを確認したい、と思いつつ歩くことしばし、ようやく向こうから道を降ってくる一人の人影が見えてきた。近づくと僕と同じくらいの年恰好の女性だった。

早速僕はその女性に、目的のコテージを告げ、このルートでいいのかを尋ねた。彼女は大きくうなずき、大丈夫だと言ってくれた。

なにしろ彼女は僕の目指すコテージから出発して、逆に僕の出発点を目指して歩いてきたのだ。これほど確実なことはない。先ほど右折して以来、一人で心細い思いをしていた僕は心底ほっとして嬉しかった。

話してみると彼女は僕より少し年上の70前後に見えたが、近いうちに孫を連れて再びこのコースを歩く予定らしい。今回はそのトレーニングなのだ。しかも目的地に着いたらすぐ折り返して出発点に戻るという。往復24キロ、実にタフな女性だ、恐れ入りました。

さらに彼女は峠まであと少し、15分もかからないだろうと僕をはげましてくれた。安心した僕はわずかに残る体力気力を振り絞って歩いた。やがてはるか向こうの、山道を登り詰めたあたりにいくつも人影が見えてきた。自転車も数台見えている、あれが峠だろうか。

峠と思しき高みに到着すると、自転車で上ったらしい少年グループが休憩している。思わず、ここが峠か、一番高いところか、と少年の一人に尋ねる。彼は、そうだと思う、そうあってほしい、と答えて笑った。

峠ははるか遠い山々に連なる長い尾根の鞍部となっており、登ってきた道はそこから向こう側へ降っている。尾根筋を少し歩き一段高いところに立つと、目の前に大自然のパノラマが広がった。

氷河が残した峡谷は巨大なU字をなし、遠い彼方の平野へと続いている。山肌は岩と草の荒々しい斜面をなし、大自然の圧倒的な力を感じる。谷へ降る道は幾重にも折れ曲がり、そこを歩くかすかな人影が見える。谷をぬけたあたりには緑豊かな草原が広がっているようだ。これがダンロー峡谷、苦労して登ってきてよかった。

喘ぎながら峠へ登ってくる家族がいた。近づいてどちらからともなく声を掛ける。ここが峠かい、そうだよ、嬉しいね、そんなことを互いに言い合った。フランスから来た中年夫婦と高校生くらいの娘さん一家だった。

峠からは降る一方だが、目的地到着が4時を過ぎるとまずい。時計を見ると未だ3時前だ、何とか大丈夫だろう。足取りも軽く僕は歩き始めた。

それにしても雨が降らずに良かった。ボートの移動中や不安を抱えて歩いた登り道で降らずによかった。殆ど毎日雨が降ったのに今日は幸運だった。

皮肉なもので、ルートが分かった途端に行きかう人が増えてきた。家族連れやカップルが、歩いたり馬車に乗ったり、あるいは車でやってくる。

谷間には豊富な湧き水を集めた小川が流れている。薄茶色の水はやがて豊かな流れとなり、道と並んで谷を降り、ときおり小さな湖をつくる。そのほとりには名も知らぬ素朴な草花が咲き、自然がおりなす素朴な庭園となっている。

日差しは強いが気温は20度足らずそして乾燥した空気、降りは一転して心地よいハイキングとなった。峠から降り始めて1時間ちょっとで目的のケート・カーミーズ・コテージに到着した。馬車で追い越した夫婦が茶店でソフトクリームを食べている。確認するとここがゴールだと教えてくれた。時計を見ると未だ4時前、よかった、ソフトクリームを食べる時間は充分ある。

約束のコテージ前にバスが待っていた。ガイドが、女の子3人連れを見なかったか、と尋ねる。相客だが歩いてくるはずが来ないらしい。4時になっても現れず、ガイドが聞きまわった結果、3人は途中で歩けなくなってタクシーを頼んで先に帰ったということだった。

ガイドは僕のことも心配していたらしい。一人で歩く人は少ないようだ。まして言葉もよく分からぬ一人旅の老人だ。僕は出発前ガイドには馬車にするかもしれないと告げていた。ところが馬車ならとっくに着いている時間になっても僕が見えないので心配したのだ。彼には悪いことをした。      (続く)
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91 ベトナム紀行(1)「僕の1号線」はどこに?
90 マイ・センチメンタル・ジャーニー
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87 シルクロードの旅(10)ちいさなリンゴ
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84 シルクロードの旅(7)未知の国へ
83 シルクロードの旅(6)国境越え
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81 シルクロードの旅(4)ブハラへの道
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78 シルクロードの旅(1)タシュケント到着
77 小笠原の旅(7)惜別
76 小笠原の旅(6)小笠原海洋センター
75 小笠原の旅(5)母島列島
74 小笠原の旅(4)宝石の島、南島
73 小笠原の旅(3)ザトウクジラの海
72 小笠原の旅(2)BONIN ISLANDS
71 小笠原の旅(1)波路はるかに
70 インド紀行(7)タージ・マハルの光と影
69 インド紀行(6)ガンジス川の夜明け
68 インド紀行(5)夜行寝台「ハウラー・カルカ・メイル・2311号」
67 インド紀行(4)ダージリン滞在
66 インド紀行(3)ダージリンへの道
65 インド紀行(2)コルカタにて
64 インド紀行(1)遠かったインド
63 暮れの浅草昼酒
62 雨の東北、芭蕉と紅葉旅
61 南会津の旅◆扮の尾瀬沼)
60 南会津の旅 弁愡浚村)
59 奥日光戦場ヶ原
58 スコットランド紀行(5)いくつかの思い出
57 スコットランド紀行(4)偉大なり、ピーター・ラビット
56 スコットランド紀行(3)ネス湖からスカイ島へ
55 スコットランド紀行(2)ウォールフラワー
54 スコットランド紀行(1)エジンバラ大学でお茶を
53 風に吹かれて八丈島(3)
52 風に吹かれて八丈島(2)
51 風に吹かれて八丈島(1)
50 イリオモテヤマネコに逢いたくて(4)
49 イリオモテヤマネコに逢いたくて(3)
48 イリオモテヤマネコに逢いたくて(2)
47 イリオモテヤマネコに逢いたくて(1)
46 秋空の下、いくつかの再会
45 白神の森の宝
44 挑戦!乗鞍岳
43 北東北ローカル線の旅 (4)津軽じょんがらの夜はふけて
42 北東北ローカル線の旅(3) 雨の下北恐山
41 北東北ローカル線の旅(2) うみねこレール
40 北東北ローカル線の旅(1) 春のうららのドリームライン
39 50年の時を超えて
38 知床の秋(2)、ウトロにて
37 知床の秋(1)、鮭遡上
36 風に吹かれて尾瀬ケ原
35 白神山地「ブナの学校」
34 初夏の山形、サクランボとそばの旅
33 ハワイ島滞在記(2)
32 ハワイ島滞在記(1)
31 春の予感、鹿沢(かざわ)高原にて
30 嗚呼!還暦大同窓会
29 年の暮れ、奥那須で想う
28 ラムネの湯「長湯温泉」はいいぞ
27 また「再会の時」道後温泉にて
26 大自然の力、姥湯温泉
25 知床の青いそら、光と風 その
24 知床の青いそら、光と風
23 春の東北ローカル線の旅
22 春の東北ローカル線の旅
21 春の東北ローカル線の旅
20 上海点描
19 やさしかったチェジュの人たち
18 さらば、災の年よ。
17 僕たちのセンチメンタルジャーニー
16 台風を避けて信州へ
15 青島印象記
14 よるべない孤独にみちた宿
13 海があまりに碧いのです
12 安曇野の光と水、そして高瀬川渓谷葛温泉
11 鞍馬山の向こうへ、大悲山峰定寺
10 雪の会津鉄道トロッコ列車の旅
9 初春初旅救急車
8 年の暮れ、峩々温泉再訪記
7 東北紅葉旅峩々温泉
6 蔦温泉、蔦沼、ブナの森
5 雨の幕川温泉再訪記
4 憧れのフルム-ン法師の湯
3 信州塩田平別所温泉
2 信州信濃路
1 東北紅葉雪見風呂
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