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ボーダーを越えて
61 思わぬ道草(15)もつれた糸
2005年8月24日
雨宮 和子 雨宮 和子 [あめみや かずこ]

1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。ボリビアへの沖縄移民について調べたり書いたりしているが、配偶者のアボカド農園経営も手伝う何でも屋。家族は、配偶者、犬1匹、猫1匹、オウム1羽。
▲ 夏の終わりが近づく頃、毎年決まったように、庭の端っこに、忽然とベラドンナ(Belladonna)が地面から頭をもたげて来る。
▲ 開花したベラドンナ。アマリリスの種類で、原産は南アフリカ。
夜がようやく明けてきた。土曜の朝だ。窓の外がどんどん明るくなっていく。それでもトーマスは相変わらず頸部固定カラーをはずそうとし、それを止めようとする私と腕相撲をしては眠りに落ちる、ということを繰り返した。

7時を過ぎたころ、フィリピン系青年看護師が廻ってきた。ロバートと自己紹介し、眠っているトーマスの脈を取り、血圧と体温を測り、ベッドの脇に座っている私を見て、ロバートさんは「ずいぶん疲れているように見えますよ」と、親切そうな口調で言った。それはそうでしょう、実際クタクタだったのだ。トーマスの寝息を聞きながら、私も一眠りしたかった。でも、彼はまたすぐ目を覚まし、頸部カラーを取ってくれと言うか、自分ではずそうとするだろう。そんな状態からどうやって彼は抜け出させたらいいのか。看護師や医師にどんなことをしてもらったらいいのかすらわからない。私は途方に暮れた。あまりに無力な自分に、思わず涙がこぼれそうになる。そんなことじゃだめだ、と思っても、どうしたらいいかわからない。誰かの力を借りなければ… 

誰に助けを頼んだらいいだろう。頭の中の友人リストを探ってみた。そうだ、エド・スティカがいい。エドは退職した医師で、ウィスカンスンの大病院で長年院長を務めたのだった。おまけにエドとトーマスは親しいアボカド仲間で、エドが大腸癌の手術をしたとき、トーマスは毎日アボカド情報をファックスで送って励ましていた。今回はエドがトーマスの励ましに、事故の翌日すぐお見舞いに来てくれて、「私にできることは何でもするから」と言ってくれた。エドは泌尿器科医でトーマスのいまの状況には関係ないけれど、医療専門家だからトーマスのドクターや看護師とのコミュニケーションの仕方を教えてくれるだろう。でもあまり朝早く電話したら失礼だから、8時まで待つことにした。それでもエドのことを思いついただけで、私はホッとした。

待ちかねた8時になると、私は廊下に出てエドに電話した。
「力を貸して欲しいんです」そう言った途端、思わず涙で声が詰まってしまった。
「いったいどうしたんだ?」エドの心配そうな声が胸に響く。
深呼吸してから、私はトーマスの状態を話した。
「できるだけすぐそっちへ行くよ」と言うエドの声が、再び胸に響いた。

エドの家は病院から遠いけれど、1時間後には現れた。
「エドが来てくれたわよ」とトーマスに言ったが、反応がない。
エドはトーマスに顔を近づけて聞いた。
「私が誰だか、わかるかい?」
トーマスはジーッとエドをみつめたまま答えを探しているのか、何も言わない。
「私は誰だ?」エドがもう1度聞く。
「……トーマス・ロイドン」
「それはあんただ」エドは苦笑いした。「私はエドだ。あんたのアボカド仲間のエド・スティカだよ。いま、あんたはどこにいるか、わかるかい?」
「…」
「あんたは病院にいるんだよ」
「…」
「どうしてここにいるのか、わかるかな?」
「ワイフを喜ばせるためだ」ためらわずにそう言ったトーマスに、エドと私は顔を見合わせ、思わず吹き出しそうになった。「ほら」と、トーマスは目の前の空間を指差した。「そこにいっぱいぶ仏像が並んでいるだろう?」そうか、トーマスは去年出席した横浜のお寺での法事のことを言っているのだ。
「そうじゃないよ。あんたは病院にいるんだよ」エドはトーマスの顔を見つめながら、辛抱強く話しかける。「どうしてだか、わかるかい? 交通事故に遭ったからなんだよ」
エドは同じことを、最初からゆっくり、何度もトーマスに向かって繰り返した。そしてまた同じ質問をした。
「あんたは誰だ?」
「トーマス・ロイドン」
「そうだ。じゃあ、私は?」
「ドクター・エド。エド・スティカだ」
「その通りだ!」エドの顔は大きな微笑みで緩んだ。「私はあんたにとって何かな?」
「親友だ」トーマスはすかさず返事した。
「いや、ありがとう。でも私はあんたの親友の一人だと思うよ。あんたにはいい友だちがいっぱいいるんだから」
こうしてやさしさと謙虚さに満ちたエドのおかげで、トーマスは混乱から脱出し、私たちの世界に戻ってきたのだった。

トーマスが眠りに落ちると、エドは私に囁いた。
「彼はね、事故でひどく頭を打ったし、手術で強い痲酔をかけられたから、混乱が起こったんだ。よくあることだよ。だから、彼の代わりに考えてやって混乱を解いてやらなきゃいけない。彼が誰で、いまどこにいて、なぜそうなのか、説明してやるんだ」
なるほど、そういうことなのか。彼の頭の中は衝撃で神経という糸がもつれたような状態になっていたのだ。その糸のほぐし方をエドは教えてくれたのだった。

そこへ、ドクター・ボカーリという体格のいい熟年の医師が巡回に来た。事故当夜に会ったドクター・スミスの担当を引き継いだらしい。髪が真っ黒で、皮膚が少々浅黒く、英語に少し訛りがある。あとでパキスタン人だとわかった。患者の家族から距離を置くような態度のドクター・スミスより、はるかに人間臭いところがある。エドはこのドクター・ボカーリとしばらく廊下でリラックスした雰囲気で話し込んだ。そんな時間を惜しまないエドはもちろん、ドクター・ボカーリも、頼りになるような気がした。エドは間接的にもトーマスのことを担当医師であるドクター・ボカーリに頼んでくれているのかもしれない。

トーマスが目を覚ました頃、ホセがやって来たが、トーマスは今度は友だちのことがすぐわかってごく普通の会話を交わした。私はホセにこっそりトーマスの混乱に突いて説明したのだが、いまではそれも嘘のようだ。エドも安心たようだ。エドには感謝してもしきれない。
「そんな風に考えないでくれ。私は何十年もやって来たことをやっただけなんだから、それが役に立ってうれしいのは私の方だ。それにトーマスがいなかったら、アボカド作りはつまらなくなるからね」
そう言って、エドは家に帰って行った。

午後になると、農園の作業長がやって来た。困ったな、と一瞬思った。メキシコ人の作業長はスペイン語しかできない。農園の話をスペイン語でいま持ち出したりしたら、トーマスは再び混乱するのではないか。彼の口からスペイン語はすんなりとは出て来ないかもしれない。だからと言って、追い帰すわけにもいかないし… 「作業長が来ているんだけど」と、一応彼に教えると、彼は待ちかねていたような口ぶりで、話しがしたいと言う。

作業長が入って来ると、トーマスはすぐさま農園の様子、アボカドの生長状況などを立て続けにスペイン語で聞いた。けさの混乱などまるでなかったかのようだ。ホセと私は顔を見合わせた。トーマスには農園のことが一番気になっていたのだ。もつれていた頭の中の糸がほぐれた彼は、農園のことを話して、ますます頭が冴えて来たようだった。

トーマスは元通りになる。その確信がようやく私に湧いて来た。

(追記)手術後のトーマスに混乱状態が起きたと聞いて、自分の親がそうなったという友人が数人いた。彼らは皆、それまではずっと穏健だった父親あるいは母親が、手術直後、IVのチューブを自分ではずしてしまったり、看護師さんたちにくってかかったりして、まるで別人のようだったと話してくれた。とすると、それに医療関係者がきちんと対処できるかどうかが問題なのだ。
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