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豊かな心 |
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2006年1月31日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ マラバティ中心の公園。ラテンアメリカの町はどんなに小さくても、中心に必ずこういう公園がある。 |
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▲ 元労働者のエスキエルとコンスエロのおしどり夫婦。 |
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▲ パンと近くの畑で穫れたそら豆を売るフロレンシオ。 |
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モナーク蝶の保護区域には、別荘地として有名なクエルナバカ(Cuernavaca)からバスを乗り継いで辿り着いた。メキシコシティから西へ2時間半ほど高速バスに乗って、まずマラバティオ(Maravatio)という町へ行く。そこからアンガンゲーオへはどう行ったらいいか、バス会社の従業員たちに聞いたら、ああでもない、こうでもないと頭をひねってくれたが、意見がまとまらない。たまたま高速バスの中でおしゃべりをした男性が、アンガンゲーオへ行く途中の町まで行くつもりなので、「途中までいっしょに行きませんか」と言ってくれた。彼は北カリフォルニアに移住したのだが、妻と息子を連れて里帰り中なのだという。そのメキシコ人一家といっしょにローカルバスに乗り、イリンボ(Irimbo)という町で降りて、今度は多数だからと瀕死状態のおんぼろタクシーに相乗りして、まず彼らの目的地、アポロ(Aporo)に着いた。
アポロの親類の家の前でタクシーを降りると、親類に紹介され、うちのトイレを使って行きなさいと勧められた。メキシコの田舎では清潔なトイレがなかなかないからだ。そこからアンガンゲーオ行きの小型バス乗り場までトラックで連れて行ってくれて、困ったことがあったらいつでも連絡するようにと、別れ際に電話番号まで教えてくれてた。メキシコ人らしい気配りだ。
翌日、モナーク蝶を見てから昼食を取ると、アンガンゲーオではすることがなくなったので、来たときの逆の順序でマラバティオに戻ることにした。スプリングが全部なくなってしまったようなガタガタのローカルバスに乗り、アポロで降りて乗り換えようとすると、バスはイリンボまで行くから、マラバティオ行きバスの乗り場で降ろしてくれると運転手が言った。それでバスの中へ逆戻り。イリンボでは10人近い乗客が降りたが、彼らは私たちと運転手とのやり取りを聞いていたらしく、「マラバティオ行きのバスはあれだ」とエンジンのかかっているバスを指差し、そのバスの運転手にも合図した。彼らもマラバティオへ行くのだろうと思ったら、そうではなかった。私たちが間違いなくちゃんとバスに乗れるよう、手助けしてくれたのだ。私たちがバスに乗るのを見届けると、彼らは別の方向に歩き出した。 「グラシアス(ありがとう)!」 そう言って手を振ると、彼らも手を振って返した。
こんな一見何でもないような親切が、メキシコ人の心からはごく自然に、当たり前のように惜しみなく溢れ出る。一般の人と接触のないツアーでは、どんなに豪華にお膳立てされていても、名所遺跡の他に目につくのは貧しさや環境破壊や混沌とした社会状況だけで、なかなかメキシコ人の心に触れるチャンスはない。が、自分の足で歩いて地元の人々に接すると、ちょっとした心の触れ合いで、メキシコ人の内面の豊かさを垣間見ることができるのだ。タクシーに乗っても同じことが言える。そういう旅が私は一番好きだ。 マラバテォイに着くと、まず馴染みの古いホテルに部屋を取った。町の中心にある小さな公園に面していて便利だということもあるが、ホテルといえばマラバティオにはそこしかないのだ。マラバティオには特にこれと言って見るべきものはない。それでも何度かやって来たのは、隣接の部落にエスキエルという名の元労働者が住んでいるからだ。まじめで働き者で思い遣り深い彼を訪れるのはいつも楽しみである。
マラバティオを最初に訪れた22年前だ。当時は公園を囲む道にロバを見かけたものだが、いまは車がひしめいている。公園の周辺の店舗もずいぶん変わった。小さな万屋は姿を消し、スーパーや携帯電話契約店ができた。マラバティオ内外の道路も舗装されている。メキシコシティから古都モレリアに通じるバイパスができてから、その中間点にあるマラバティオは経済発展から取り残されたのではないかと心配していたが、それなりに経済成長をしているようで、のんびりした雰囲気は残っているものの、活気がある。
エスキエル一家は、自宅でお菓子やパンやソフトドリンクから洗剤やトイレットペーパーまで日常生活の必需品を少しずつ何でも売っている。小さな万屋だ。彼の家を初めて訪れたときは、お連れ合いのコンスエロが道路に向かって開いた窓からお菓子やソフトドリンクを売っていた。当時は彼の隣近所ではロバがつながれ、舗装された道など1本もなかった。どぶ水が流れている所で子どもが遊んでいて、よくこれで子どもが病気にならないものだと変に感心したのを覚えている。2度目に来たときも(何年前だったろう?)町の様子に大した変わりはなかったが、エスキエルの家の中が明るいピンク色に塗り変えられて、華やかな感じになっていた。コンスエロが営む店は窓口が大きくなっていたような気がする。3度目は6年前だったが、そのときは部落の家の数が増え、狭い道路もすべて舗装され、辺りはすっかり見違えて、エスキエルの家がどこにあるのかわからなくなってしまった。やっと見つけた彼の家は表全面が店となり、部落と同じように見違えていた。
今回はしっかり住所を持って行き、夕食後、タクシーでエスキエルの家まで行ってみたが、彼は別の店に行っていると留守番の一人娘が言うので、出直すことにした。翌日朝食後に出かけると、エスキエルが待っていた。
店の裏の部屋に私たちを案内すると、エスキエルが壁に向かったテーブルに着かせた。一体何事だろうと思ったら、コンスエロがコーヒーと牛肉の薄焼きとメキシコ式豆料理とスープとトルティアを持って来て、私たちに勧めた。朝食は済まして来たと言ったのだが、通じたのか無視したのか… エーブルにあるのはスプーンだけで、ナイフもフォークもなく、お皿も全くそろっていなかったが、心のこもった朝食だ。お腹はいっぱいだけど、食べるしかない。食べながら、エスキエルとトーマスは農園仲間の思い出話に花を咲かせた。
エスキエルはトーマスのパーム園で2年間ぐらいしか働かなかったと思う。初めて彼を訪ねたときに、もうカリフォルニアで働く気はないのかと聞いたら、彼は「金はもっと稼ぎたいけど…」と言いながらもはっきり返事をしなかった。彼の背後に立っていたコンスエロにどう思うかと聞くと、 「彼が遠くへ働きに行ってしまうと、心配だし寂しくてたまりません。家族離ればなれに暮らさなければならないなんて、どんなにたくさん稼いでも意味なんかありませんよ」 と、小さな声で答えた。それを聞きながらエスキエルはまじめな顔をしていたが、目はうれしそうにほころんでいたのを今でもはっきり覚えている。仲のいい夫婦なのだ。彼らはコツコツ働いて少しずつ蓄えて来たのだろう。いまは店を合計3軒持っていて、自宅の店は娘が、別の1軒は夫婦が店番をし、もう1軒は人に貸してあるという。自宅の裏の庭は奥行きがたっぷりあり、何本もの背の高い木やバナナや花がいっぱい植えてある。陽の当たる小さな小屋には鶏と七面鳥が居眠りをしていた。ナイフやフォークはなくても、エスキエルたちの生活は充足しているのだ。
帰りは家の前から小型バスの役割を果たすバンに乗った。たまたま運転手は若い女性で、エスキエルの名付け娘だとかで、私たちからはどうしても料金を受け取らなかった。まじめで正直なエスキエルは、部落の人々から敬愛されているようだ。エスキエルの故郷には家族の他にも深くつながりを持った人々が大勢いるのだ。彼がたとえ数年でもこの地を離れたくないのも無理はない。
数量的に測れる水準から見たら、エスキエルたちの生活は貧しいだろう。けれど、上昇志向に駆り立てられて、充足ということを知らない人間の多いアメリカに住んでいると、お互いに思い遣り合い、赤の他人にも惜しみなく力を差し伸べるメキシコ人たちは平穏な心を保ち、実に豊かな生き方をしているように思える。ちなみに、最近の調査によると、メキシコ移民の子どもたちは、言葉のハンディや親が教師とコミュニケートできないなどの理由で一般に成績は低いが、ひとと協調してやっていくというような社会性の面では、アメリカ人生徒より遥かに優れているそうである。
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