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縁の下のバイオリン弾き
13 シャーベット(上)
2010年12月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ ギュスターヴ・フローベール
このところ西洋の古典の改訳ブームの観がある。とてもいいことだと思う。長い生命をたもった古典はそれが生み出された国ではもちろん、世界各国で読みつがれるものだけれど、翻訳というものはかならず古くなり、時代に合わなくなるという宿命をもっている。だからときどき新しい翻訳をしなければならない。

若いときは私はそういうふうには思っていなかった。もうすでに翻訳がある作品をなぜ新たに訳し直さなければならぬのか腑に落ちなかった。ことさら権威主義に毒されていた私は「その道の権威」が訳したものを絶対と考え、改訳しようなんていうのはその権威にケチをつけることだ、ぐらいにしか考えていなかった。

その考えを変えさせたのはフローベールの「ボヴァリー夫人」だった。私がこれを岩波文庫版で最初に読んだのは高校生の時だったが何の印象も残さなかった。その後20年たって同じ本を読み直した。伊吹武彦の訳だったと思う。フランス文学者として令名のある学者の訳だから信用できるはずなのに、私は再度読んでみてその古さにあきれた。道理で忘れてしまったはずだ。使われていることばが現代の読者にはとても理解できないだろうと思われた。

実はこれは1943年に初訳され、その後1960年に訳者によって改訂されている。私の読んだのはその改訂版だったのだけど、いったいいつ翻訳したんだ、といいたくなるほど古ぼけていた。

たとえば「金巾(かなきん)のまどかけ」なんて言葉が出てくる。この「かなきん」というのはポルトガル語が原語だそうで、漢字までできている所を見れば安土桃山時代か江戸初期の南蛮渡来のことばだったにちがいない。でもそれはただの薄地の木綿の布のことだ。「まどかけ」はつまりカーテンのことだ。日本ではむかしカーテンなんかなかったから、ほかに訳しようがなかったのだ。

ね、だれでも腹が立つでしょう。これを読め、というほうがどうかしている。おどろいた事に岩波は改訂から50年経った今もこのおなじ訳本を売っている。こんなことをいうと営業妨害で訴えられるかもしれないけど、岩波文庫で「ボヴァリー夫人」を読んではいけません。

ところがその中に一語、なつかしいとも何ともいいようのないことばがでてきてびっくりした。 それは「舎利別」(しゃりべつ)ということばである。しゃりべつ!こんなことばを知っている人はもういないだろう。

ボヴァリー夫人エマは若く美しい娘だったのにつまらぬ田舎医者と結婚したばかりに身を誤ることになる。その医者の先妻がまだ生きていた時、彼にむかって「滋養のための舎利別といま少しの愛とを求めるのであった」と書いてある。

「舎利」といえばお釈迦様の遺骨のことだ。古来大変貴重なものだとされている。白い飯のことを「シャリ」「銀シャリ」というのはここから来ている。でも「舎利別」が骨に関係があるはずはない。これは「飲み物」だから。

私は想像する。この訳者だって舎利別がなんのことかわからなかったのではないだろうか。原著にあることばがわからなくて辞書をひき、自分でもよくわからないまま、辞書にある「舎利別」ということばを使ったのではなかろうか。そうとでも考えなければなぜ突然にこんなわけのわからないことばがここにでてくるのか理解できない。

私はあまりの不思議にわざわざ英訳を参照してみた。そこにはただ “tonic”としか書かれていなかった。トニックというのは身体を元気にする薬のことで、なるほど、筋がとおっている。しかしトニックがわかっても舎利別を理解するてがかりにはならない。だれかフランス語の分かる人で「ボヴァリー夫人」のこの箇所を読んだことがある人は何と書いてあるのかぜひ教えてください。

しかし私にはフランス語がどうであれ、それが何なのかおぼろげながら見当がついた。おもわず「前嶋先生、ありがとう!」と言いたくなった。      (続く)
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