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68 思わぬ道草(19)回復に向けて
2005年11月1日
雨宮 和子 雨宮 和子 [あめみや かずこ]

1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。ボリビアへの沖縄移民について調べたり書いたりしているが、配偶者のアボカド農園経営も手伝う何でも屋。家族は、配偶者、犬1匹、猫1匹、オウム1羽。
▲ 病院でのリハビリ。
▲ 病室と化したリビングルーム。
▲ 退院後もたびたびお見舞いに来てくれたチャルマーズ・ジョンソンと。
一般病棟に移ってから、トーマスはリハビリを少しずつ始めた。といっても本人の希望で始めたわけではなく、否応なしに始めさせられたのだ。人間の身体は使わないとどんどんだめになる。特に筋肉は真っ先に衰えるという。衰えないようにどんどん身体を動かす方が回復も速い。というわけで、最初は起き上がるの辛かったトーマスは、「きょうはやらなくてもいいですか」と、ドクター・タントゥワヤに懇願するように聞いたりした。若くて口数の少ないドクター・タントゥワヤは黙って首を振り、トーマスは渋々リハビリをせざるを得なかった。

トーマスの両脚はダチョウの脚のように細くなってしまった。脚が衰えると、体全体も衰えてしまう。が、なんといっても首はしっかり固定していないと困るので、無理はできない。首と背中を支えてもらって起き上がり、トーマスは歩行補助器を使って廊下を少し歩くまでになった。と同時に、再びレントゲンを撮ったり、MRIで首より下の脊髄の写真を撮ったり、呑み込む検査をしたり、と医師たちはもっぱら回復状況把握をしていた。人工気管をいつ取るかについては、医師たちの間で意見の対立があった。結局、呼吸困難に対処して人工気管挿入手術をしたドクター・ボカーリの慎重な意見が尊重されてしばらくそのままにしておくことになり、トーマスは筆談を続けざるを得なかった。

一般病棟にいたのは5日間だったが、もっと長く感じられた。それからリハビリ専門病棟に移り、もっぱらリハビリに励むことになった。そのリハビリの目的は、退院してから自分のことは最低限自分でできるように、ということだそうで、そうすると、もうすぐ退院できるのかな、という希望が湧いた。が、その日はなかなか来なかった。病院の外では時間がどんどん過ぎていくのに、同じようなことが毎日続く病院の中では、時間がゆっくりゆっくりとしか進まないのだ。それでも、廊下を歩くトーマスのスピードはだんだん上がっていき、エレベーターで階下に降り、外に出て建物の周りを歩くまでになった。

リハビリ病棟ではまた2人部屋で、隣人は二十歳そこそこに見える青年だった。なんだかとても落ち込んでいる感じで、1日中黙ってテレビ漫画を見ていた。人と目を合わせて挨拶をするのは避けているようだった。看護師さんやセラピストとのやり取りも、低い声でぼそぼそ呟くようにしか話さなかった。毎日夕方近くなると、両親やら姉やら親類やらが来て途端に賑やかになったけれど、彼自身が話している様子はなかった。どうやらガールフレンドとの間に1歳未満の女の児がいるらしく、3日に1度ぐらいに2人が午後やって来てた。そのときだけは、楽しそうに話をする彼の声がカーテン越しに聞こえた。

青年はトーマスより1週間後に、高速道路で事故に遭ったのだそうだ。首の骨は折れなかったけれど、頭蓋骨をひどく怪我したらしく、頭の左側がへこんでいて縫った痕がある。メキシコ系人のように見えたが、お母さんはハワイ人だと言う。「自分で起き上がれるようにならなきゃだめよ」と、背が低くてころころ肥った元気のいい陽気なお母さんが青年に言っているのがよく聞こえた。が、彼の返事は聞こえなかった。

トーマスが上半身の運動でいっしょになった40歳ぐらいの男性は、両脚にひどい怪我をしていた。トーマスの隣人の青年が事故で怪我をしたのを目撃して、助けてやろうと車を止めて出たところを、後ろに続く車にぶつけられたのだという。トーマスを助けてくれたロバートさんのような、とっさに親切ができる人がまだまだいるのだ。しかもこの人は、見知らぬ他人を助けようとして、自分も大怪我をしてしまった。恥ずかしいけれど、私にはできそうもないことだ。

リハビリが進むにつれて、少しずつ退院準備が亀のペースで進んだ。退院の4日前に人工気管を取り除き、2日前にIVのための静脈に通した管を取り除いて、代わりに脇腹から胃に管を通し、車に乗り降りする練習をした。そうしてリハビリ専門病棟に移動してから1週間半後、入院してからは4週間後に、やっと退院できた。心臓の冠動脈バイパス手術でも5日間で退院させてしまう社会だから、4週間の入院は長かった。隣の青年はトーマスより1日早く退院していった。

トーマスといっしょに家に帰ると、我が家がどんなにホッとするところかと、しみじみと感じた。まず、空気がいい。病院のある所は内陸の盆地で、空気は熱く、淀んでいるような感じだったが、海辺の空気はさらさらとして本当に快適だ。おまけに静かだ。病院の中は実は騒音でいっぱいだったのだということを、思い知らされた。病院ではなかなかよく眠れなかったトーマスは、家に帰って来ると、小刻みだけれど実に良く眠った。そして我が家は私たちだけの空間だ。

ホッとはしたものの、病院通いから解放されてのんびりしたかというと、全く逆だった。「トーマスが退院したらあなたはますます忙しくなるよ」とイギリスの義兄がメールをよこしたが、まさにその通りになった。喉が食べ物を呑み込む仕組みを忘れてしまったおかげで、液状食料を管で直接胃に注入するのがトーマスの「食事」だったが、これがかなり手間のかかることだった。おまけに注入器機が故障して夜明け前に起こされたりして、よく眠るトーマスに反比例して私の睡眠時間は縮まってしまった。

しかも自宅に帰って来ると、トーマスの頭の中はやりたいことでいっぱいになり、身体が自由に動かないから、それが全部私への注文となった。頭に浮かんだことは、即、2つも3つも同時にやってもらいたい。もちろん私には1つずつしかできない。自分でできない彼は辛いだろうとは思っても、そんな彼の注文を優しく聞いてあげられる余裕などないほど、私はてんてこ舞いし、こんなに男のために尽くすようにと母は私を育てたんじゃない、と思ったりしたものだ。「私の人生はあなたのもの、あなたの人生もあなたのもの、なんだから」と、抗議したこともある。そのときは、彼もハッとして、ちょっとおとなしくなったが、長続きしなかった。でもまぁ、ちょっとだけでも私の言うことに耳を傾けてくれたからよしとしよう、と我慢することにした。身体がもっと自由に動かせるようになれば、彼の心の余裕も出て来るだろうと期待したのだ。事実そうなった。

退院後はリハビリのセラピストが毎週3回来て、腕や脚を強くする運動をさせてくれた。それが4週間続いた。また、トーマスがちっとも呑み込めないので、喉のセラピストも週に3回やって来て、電気ショック療法をし、トーマスの食い意地が張っているのか、みるみるうちに良くなっていった。

トーマスの精神衛生に一番良かったのは、お見舞いに来てもらうことだった。家から出られない彼にとって、友人たちの訪問は外の世界の空気を吹き込んでくれるのだった。が、自宅というのはプライベートの空間なので、病院より来にくいということもある。そこで、彼が柔らかいものを食べられるようになってから、私はレシピーのお知恵拝借と称して、ポットラックのパーティーを立て続けに2回開いた。お知恵拝借というのは半分本当で、半分は口実だった。食べ物は二の次で、友人たちに集まってもらうのが一番の狙いだったのだ。2回とも友だちが集まってくれ、トーマスの心のリハビリになった。

さすがのトーマスも一時落ち込んだときがある。首の骨の回復が期待通りには進んでいないという診断が出たときだ。が、友人たちに「あわてることない」と力づけられた。事故から4ヶ月後、微かだが首の骨が繋がり始めている形跡があると診断されたとき、ようやく彼はじっくり時間をかけて全快しようという気になったようだ。そうして事故から半年後、首の回復はスピードを上げ、固定カラーを取って動き始めると、ますます体力がついてきた。ここまで到達するのには1年間はかかるだろうと言われていたのだが。

現在は療養中に歪んでしまった全身をほぐして元通りにするセラピーを始め、目や歯などの細かな治療にとりかかっている。回復の道程は山あり谷ありだが、私たちは本当に幸運だと思う。
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