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ホンジュラス(2)レンピーラ |
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2006年3月6日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ ホンジュラスの国会議事堂。国旗の真下にレンピーラの彫像が見える。 |
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▲ レンピーラの彫像。 |
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ホンジュラスのツアーは、現地の首都テグシガルパ(Tegucigalpa)に2月13日の午後集合ということだったが、前日にサンディエゴを出ないと間に合わない。夜行便は疲れが残るので、前日に解散予定地のサンペドロスーラ(San Pedro Sula)まで行ってその晩は十分睡眠を取り、翌日の午後に国内便でテグシガルパまで飛ぶことにした。
サンペドロスーラの空港に着いてまだ税関を出ないうちに、私服の男性がトーマスに近づいて来た。どう見ても商売人としか見えないこの男はいったい何を言っているのかな、と思ったら、両替屋だった。空港には公設の両替屋がないから便利と言えば便利だけれど、税関内で商売をするとは… しかも彼1人で競争相手がないところを見ると、空港の管理者に賄賂を渡しているに違いない。ホンジュラスでは役人とか警察の汚職が中米で最も頻繁と聞いてはいたけれど、間接的にそれを見たような気がした。
それはともかく、私たちはホンジュラスの通貨を全く持っていなかったので、とりあえず小額だけ両替することにした。通過の名前は?と聞くと、「レンピーラ」と聞いたこともない名前を言う。何度も口の中で繰り返さないと、なかなか覚えられなかった。翌朝、銀行でもっと両替したら、空港での両替屋のレートとたいして変わらず、案外正直なんだな、とちょっとびっくりした。
再び飛行機に乗るまでの時間を利用して、博物館に行ってみた。建物は小さいが、内容は予想以上に充実していた。サンペドロスーラの近くを流れてカリブ海に到達するウルア(Ulua)川の流域で発見されたという紀元前の見事な陶器から、かなり高度な文明が発達していたことが伺われる。現在は中米で最も貧しいと言われるホンジュラスだけれど、スペイン人による征服前は農業生産も高く、活発な経済活動が展開されていたようだ。
ヨーロッパ人の到来がすべてを変えた。コロンブスは1502年に4度目で最後の航海で初めてホンジュラスの地を見たそうだ。そのとき、北東の沿岸を探検したいた際にハリケーンに遭い、岬の陰に逃げ込んで遭難から免れたのだが、そのとき彼が、「神様のお陰で(Gracias a Dios)こんな深み(estas honduras)から抜け出ることができた!」と叫んだという。それでこの土地がホンジュラス(Honduras、スペイン語の発音では「オンデゥラス」)と名付けられたそうな。ちなみに、コロンブスが逃げ込んだ岬はグラシアス・ア・ディオスと呼ばれるようになったとか。
そうして沿岸沿いに西へ向かったコロンブスは、ウルア川から下って来た大きなカヌーに出会った。カヌーは不思議な実をいっぱい積んでいた。それはメキシコのアステカ帝国に輸出されるカカオの実だったのだ。カカオはホンジュラスの主要産物で、それでこの地域は潤っていたのだ。
余談になるが、コロンブスがヨーロッパに持ち帰ったカカオの実は、コロンブスがその食べ方を見ていなかったためそのまましばらく忘れられてしまったらしい。その後、メキシコを征服し、1526年にホンジュラスをもスペインの支配下に治めたエルナン・コルテス(Hernan Cortez)が本格的にカカオの食べ方(というか、飲み方)をヨーロッパに伝えて、カカオがヨーロッパに普及するようになったという。(といっても、甘い固形のチョコレータが誕生するのはもっともっと後の話です。)
ヨーロッパ人の歴史観の視点から見た南北アメリカ大陸は「新世界」であり、 広大な土地に勢力を広げ、その豊富な資源を掘り起こしていく対象だったけれど、もともとそこに住んでいた先住民にとっては、コロンブスを始めとするヨーロッパ人の到来は、南北アメリカ大陸全体に大変な危機をもたらすものだった。
スペインの統治に反抗して、自治を獲得しようとする部族のリーダーが続出した。そのうちの一人がレンカ(Lenca)族の首領、レンピーラ(Lempira)だった。彼は1537年に200の部族を結合して3万人の兵士を引き連れ、スペイン人統治に反乱を起こしたのだ。が、スペイン人の策略で銃殺され、反乱は鎮圧された。それでもレンピーラはホンジュラス人には英雄として見なされてきたらしい。
ヨーロッパ人が南北アメリカ全体に持ち込んだ最も危険なものは、実は様々な病気だった。16世紀初頭には80万から120万と推定される先住民の人口は、1786年位は2万3千に落ち込んだというからおそろしい。そのときメスティーソ(mestizo)と呼ばれる先住民とスペイン人の混血はすでに3万7千人に上り、先住民の数を超えている。スペイン人は4千人にも満たなかった。それからほぼ100年後の1887年には、先住民の人口は11万1千にまで回復したが、ヨーロッパ人がやって来たばかりのときの低い推定人口の15パーセントにも満たない。そのかわりメスティーソの人口は上昇の一途をたどって41万8千になり、それからさらに100年後の1988年には、メスティーソは100倍以上の428万7千になったのに対して、先住民人口は9万に落ち込んでしまった。
アメリカ両大陸の北端から南端まで言えることだが、先住民は土地を取り上げられ、500年間も差別されて来た。にもかかわらず、往々にして英雄的先住民はその国の象徴として持ち上げられる。20世紀になってからレンピーラも表舞台に引き出され、1926年にホンジュラスの通貨の単位とされた。 (「アボカド物語」第30回でお話ししましたが、スペイン人に征服されたグァテマラ先住民の首領、テクム・ウマンを守ろうとしたケツァルという鳥がグァテマラの国鳥と指定され、されにグァテマラの貨幣の単位もケツァルとされたことと似ていますね。)
首都テグシガルパの国会議事堂の脇にはレンピーラの彫像が立っている。実はその地点には1997年まで、コロンブスの彫像が立っていたそうだが、先住民の人権擁護を訴える先住民団体が、10月12日の「コロンブスの日」に打ち砕いてしまったのだ。
このリアリティ・ツアーではその先住民団体の代表との会見が予定されていた。
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