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ウィーン1999年 〜シェーンブルン宮殿日本庭園開園式 |
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2019年1月2日 |
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 | 原田 美佳 [はらだ みか]
東京都出身。学生時代から長年関わった韓国文化院を2015年末に退職。現在は、日本ガルテン協会の広報部長の仕事をしながら、これまで関わってきた韓国文化を日本に紹介するための著作、交流活動を中心に自分のライフワークを模索中である。共著書に『コンパクト韓国』(李御寧監修)、『読んで旅する韓国』(金両基監修)、「朝鮮の王朝の美」、『朝鮮王朝の衣装と装身具』などがある。 |
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▲ 開園式の模様 |
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▲ 水琴窟、鹿脅し、西村金造氏作の手水鉢 |
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▲ ポピチカ先生と、白金の間での授賞式での琴演奏 |
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1999年は、私にとってミレニアムを前に特別な年だった。 私の人生を豊かにしてくれた転機ともいえるイベントが行われた年であった。 赤坂ブリッツでの初の大規模韓流歌手コンサートの開催、日韓人間国宝交流舞台、そして、特定非営利活動法人(NPO)日本ガルテン協会によるオーストリア・ウィーンの「シェーンブルン宮殿日本庭園開園式」と、ウィーン大学日本学研究所前青海波庭園の作庭である。
夫の赴任でウィーンに住んでいた妹が、『ウィーンの日本』という本を読み、シーボルトの碑があるというので出かけたシェーンブルン宮殿で発見したのが、オーストリアの庭師たちがジャポニズムの影響を受けて作庭した日本庭園だった。マリーアントワネットが結婚前に馬駆けしたり、モーツアルトとの逸話の残るシェーンブルン宮殿はウィーンの観光名所の目玉のひとつであり、お庭は、2階建ての温室と動物園の間にある。ここに日本庭園があったということを納得されるまでは、ほんとうに紆余曲折あった。 なぜシェーンブルン宮殿に日本庭園ができたかという謎解き番組が、NHKの「地球に乾杯」や「地球に好奇心」で数回放送され、好評を博した。 そして、発見、修復した日本庭園と、オーストリア庭園局長の日本人による日本庭園をという提案で、枯山水と茶庭を両サイドに新たに作庭した「シェーンブルン宮殿日本庭園」の開園式が行われた。 緑爽やかな五月晴れの日に鯉幟を手に、オーストリア側からモルタラー農業大臣や国会議員、ユネスコ関係者をはじめ、鹿取泰衛実行委員長(元駐墺大使)と黒川剛駐墺大使や日本人会など多くの協力者、関係者の方々を迎えて行われた。妹が発見してから3年ほどが経っていた。開園式では、日本ガルテン協会長である父がこれまでの経緯などを感謝を込めて挨拶で述べた。茶庭では、農業大臣をお正客に呈茶も行われた。 さらに、シェーブルン宮殿白金の間では、授賞式などセレモニー、インペリアル・ホテルでレセプションが行われた。 この庭園を造るときに、作曲家で、妹のピアノのポピチカ先生が作庭の経過やなぜこの庭園に携わることになったのか、日本庭園に込めた日本人の思いなどといったいろいろな話から、会長に捧げる曲をプレゼントしてくださった。せっかくなので、白金の間での目玉のひとつとして、筝曲として手直して練習を重ね演奏された。 さらに、帝国ホテルでのレセプションでは、ご本人がピアノ演奏された。 日本庭園には音楽の都ウィーンにということで、庭に響く「鹿脅し」や水琴窟、オーストリアの国歌といった音の工夫を入れたが、まさか日本庭園に着想した楽曲を贈られるとは思いも寄らなかった。たまに、ヨーロッパでも演奏され、好評を得ているそうだ。
コルブリー庭園局長の審眼と英断がなければ、いまでもアルプス庭園となっていたであろう。直接の数々の話し合い、議論を通じて、また口に出さずともお互いの行動や配慮などから築かれた信頼が生まれ、多くの方の協力といった奇跡が重なり、このシェーンブルン宮殿日本庭園を完成、開園式へと導いたと思う。 20年経った今年は、日本とオーストリア国交樹立150周年となる節目の年、さらなるお互いの交流、信頼が築かれることを願う。
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