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縁の下のバイオリン弾き
14 シャーベット(下)
2010年12月6日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 前嶋信次
大学時代、前嶋信次という教授の東洋史の講義に出席していた。この先生はもうお年寄りで、「あくびをしたラクダ」というあだ名があった。そのあだ名のとおり、長身で頭の薄くなった先生は歳月の重みに耐えかねたように目も眉も鼻も口もみんな下の方をむいていた。かれがぼそぼそと語る歴史の話は受講者にとってまたとない眠り薬だった。クラスの大半は寝ていたのだ。

でも私だけは熱心に講義を聴いていた。それはどうしてかというと、この先生は専門がアラビア史で、アラビアと中国の交流の歴史を研究していたからだ。そのころアラビア語ができるなんて人はまずいない。おどろくべき大学者だと思われた。先生は当時「アラビアン・ナイト」を原語から翻訳中だった。その本がでるまで「アラビアン・ナイト」の日本語訳はすべて英語からの重訳だった。

私はといえば日本と西洋以外の土地に興味を持ち始めていて、そのために中国文学を専攻していた。当時は文化大革命まっさかりのころで中国のことを勉強しようなんて人間はいなかった。私の同期生はたった5人だった。そんなわけだから日の当たらない東洋史なんてものにも(同病相憐れむというわけで)興味をもったのかもしれない。

アラビアの話などわれわれ学生にはそれこそ砂漠の蜃気楼(しんきろう)のようなものだ。でもそれは蜃気楼だからこそ美しい。先生はアラビアの文化と歴史を縦横に語り、私はその話に魅了された。


今でもおぼえているのがシャーベットの語源だ。前嶋先生によるとこれはもともとアラビア語で「シャルバット」といった。果物のジュースに香料をいれて氷で冷やした飲み物だったそうだ。それがヨーロッパにつたわって「シャーベット」になり、氷菓に変化した。現在気取った店ではフランス語で「ソルベ」といっている。

「それが中国にも伝わってね。漢字で舎利別と書く漢方薬になった。私の家は代々医者なんだが、家の漢方薬を入れるたんすに舎利別と紙に書いてはってある引き出しがあった。もちろん中に入っているのはアイスクリームなんかじゃない。乾燥した生薬(しょうやく)だったよ」と先生は話を結んだ。

シャルバットがヨーロッパに伝わり、シャーベットになった、というだけでも私にはおもしろいけれど、それが中国にも伝わって漢方薬になった、しかもその名前が原音をとどめている(舎利別の当時の発音は大まかに言ってシャリベットだったろう)というのがたまらない。さらにその漢方薬が日本にまで伝わって、シャーベットなんか見たことも聞いたこともない江戸の医者がこの薬を調合していたと考えるのがなおさら楽しい。同じ頃、ボヴァリー夫人が飲んでいたのは薬の入った飲み物だったのかもしれない。

以来私はシャーベットを食べるたびにこの話を思い出さないことはない。ひとさじひとさじ味わいながらその昔のバグダッドの栄華をしのぶのである。

バグダッドと書いたけれど、アラビアン・ナイトに描かれたようなアラビアの栄華はメッカだとかリヤドだとかいうアラビア半島の都市が舞台ではない。それはイラクのバグダッド、ブッシュ大統領が攻撃したバグダッドなのである。

アラビア人はそのころ(8世紀から9世紀)中国とともに世界最先端の文明をほこっていた。彼らはギリシャ・ローマの本をかたっぱしからアラビア語に翻訳した。ヨーロッパがルネサンスの時にギリシャ・ローマ文明を受け継ぐことができたのはそれらアラビア語の訳本のおかげだった。ヨーロッパの中世は暗黒時代でギリシャ・ローマのことなど忘れられていたから。そして、たとえギリシャ語・ラテン語の原本が残されていたとしてもページがなくなっていたり順序がかわっていたりしてその校正にはアラビア語の訳本を参照するのが一番確かなやりかただった。

だから私はブッシュがイラクを攻撃したときには怒りで身体がふるえた。戦争の惨禍はいうまでもない。首都陥落後は世界に有名なバグダッドの博物館が略奪され貴重な美術品が大量に盗まれた。アメリカ軍は見て見ぬふりをしていた。

何万人もの市民が犠牲になった。戦争をしかける理由が何もなければそれは虐殺にほかならない。小さな国で内戦があると必ず誰かが 「人道上の罪」で国際的な指弾を受ける。なぜブッシュが人道上の罪に問われないのか不思議だ。 それは単にアメリカが世界最強国だから、ということにつきるのかもしれない。

ブッシュはイスラム教のことは認識していたのかもしれないが、アラブ世界に文明があると思ったこともないのだろう。アメリカが現在イラクでアフガニスタンで苦戦しているのはそれが一国を相手の戦争ではなく、異なった文明との衝突だからだ。

大学卒業後、私はふとしたことから前嶋先生の回想録を読むことができた。先生の研究の歴史は長いけれど、戦後しばらくしてはじめて海外に研究に出ることができた。ヨーロッパ各地の大学をたずね、そして長旅の末にようやく「あこがれのカイロ」にたどりついた、と書いてある。あこがれのカイロ?「あこがれの」という言葉はパリとかニューヨークとかいった、はなやかな連想をさそう場所にこそふさわしい。50年代のエジプトはとてもそういう国ではなかっただろうと思われる。それなのに誰はばかることなく「あこがれのカイロ」と言いきる。それは先生のアラブ研究者としての自負がいわせたことばだったろう。そのうしろには、何世紀にもわたるアラビアの文明がある。あこがれるに値する文明がある。

前嶋先生は全18巻ある「アラビアン・ナイト」日本語版の12巻まで訳してなくなった。全巻訳せなかったのは心残りだったかもしれないけれど、最後まで自分の好きな仕事ができたのだからしあわせだったろう。うらやましい話である。
(完)
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