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ホンジュラス(3)ホテル・ナンキンで |
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2006年3月13日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ ホテル・ナンキンの大山盛りのチャオミエンに挑戦(?)するリアリティツアー引率者のサンドラさん。 |
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▲ 昼間はこうして賑わうサンペドロスーラの中央広場も、日が暮れるとガランとしてしまう。 |
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▲ ハイウェイに面したレストランのガードマン。大きな銃はもちろん本物。こんなにニコニコしていて、銃を撃ったことがあるのかしらん… |
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ホンジュラス第2日目の夕方、集合地テグシガルパの空港に降り立つ。すらりと背の高い若い女性とお相撲さんにしてもおかしくないような体格の中年男性が出迎えに来てくれていた。ツアー引率の責任者のサンドラさんと、アスドゥルバルという珍しい名前の運転手だ。過去3年間ホンジュラスの人権問題に取り組んできたというサンドラさんはカナダ人だが、彼女の話すスペイン語にはホンジュラス訛りがあるほど現地に溶け込んでいて、知識も実践経験も豊富だとすぐわかった。
空港からさっそくホテル・ナンキンに向かった。中国系人が経営するホテルで、中華料理店が1階にある。かなりの中国人が移民として定着している中米では珍しくない。 「もう一人の参加者はすでにチェックインしてます」とサンドラさんは言った。 「もう一人? 参加者は合計4人じゃなかったの?」 ツアーは参加者が最低6名必要だと言われていたが、申し込み者は4名だった。それでホンジュラス行きは中止になるかもしれないということだったが、結局4名でも決行になったのだ。ところが土壇場になって1人がキャンセルしたという。7月のツアーには学生が集まるそうだから、2月はほとんどの人にとってお休みが取りにくいのだろう。
ツアーといっても観光ではなく、社会勉強が目的だから、費用は安いし、贅沢な所には泊まらないだろうと覚悟していた。それでもホテル・ナンキンにはちょっとびっくりした。正面ドアから入ると突き当たりがフロントになるが、それは常時鉄格子で仕切られているのだ。客室に通じる階段の入り口にも鉄格子のドアがあり、自動的に閉まって鍵がかかる。フロントの鉄格子の向こう側から従業員(といっても家族だが)にスイッチを押して開けてもらうのだ。
ホンジュラスは治安が悪いと聞いていたが、前の晩に泊まったサンペドロスーラのホリデーインは、入り口にガードマンがいたものの、ずっとのんびりした雰囲気だった。ホテル・ナンキンはガードマンは雇っていないし、建物の構造もが狙われやすいのだろう。部屋も殺風景を通り越して、すさんだ感じがする。 「参加者の数がもっと多かったら、ここには泊まらないんですけど…」と、部屋まで案内してくれたサンドラさんが少々申し訳なさそうに言った。
移動のための車代や運転手の費用など、ツアーのほとんどの費用は参加者の人数とは関係ない。参加者が少ないとどこかを詰めないと採算が合わなくなる。いや、たった3人ではツアーの運営にはすでに赤字が出ているかもしれない。それでも決行と決めてくれただけでもありがたいから、このホテルでも文句は言えない。
その日の夕食は、ホテル・ナンキンの中華にしようということになった。参加者が少ないといろいろ融通が利くので便利だ。中華料理店は世界のどこへ行ってもある。それを全部ためしてみたい。その国その国の食生活が次第に中華料理にもしみ込んで、材料も味付けも食べ方も変わっていく。その変化が実に面白いのだ。
焼きそばと野菜炒めを合わせたようなチャオミエン(炒麺のことだろう)の「大」を、サンドラさんとトーマスと私の3人で分け合うことにした。トーマスは欲張って酢豚も注文。ルイスというもう1人の参加者はおそろしく無口で引っ込み思案のおじさんで、彼だけ別にチャオミエンの「小」を注文した。
そうして出て来たチャオミエンの量の多いこと!「小」でもおとな2人分、「大」は5人分ぐらいはある。既成のカリカリそばにエビ入りの野菜炒めがたっぷりのっかっていて、特においしいとは思わなかったけれど、とにかく野菜がたくさん食べられるのはいい。あさってから田舎へ出る。そうすると葉っぱものの野菜料理には出会わなくなるので、いまのうちにできるだけ食べておこうと、全員、せっせと食べた。それでもなかなか減らない。酢豚にはご飯の代わりにパンが付いてきた(グアテマラの中華料理店でそうだった)が、これもたっぷりの量だ。
食べきれそうにないと思いながらも食べ進めていると、17〜8歳の青年が小走りに私たちのテーブルにさっと来て、小さなプラスチックの袋を自分の身体で隠しながらパッと開いた。いったい何のこと?と呆気にとられているうちに、青年は後ろを振り向いて、またさっといなくなった。 「残り物をあげてもよかったのに、そうする前に店主にとっとと追い出されちゃったわ」と、サンドラさんが慣れた調子で言った。 そういうことだったのか…。青年はホームレスで路上に生活し、食べ物乞いに来たのだ。(ボリビアでも似たような経験をしたことが2度ある。戸外レストランで、食べ残しをもらいに来たのは少年だったが。)
何となく後ろめたい気持ちで、でも、いくら頑張ってもこれ以上は食べられない、と皆が思っているところへ、別の青年がさっと現れた。残り物が無駄にならなくてよかった―と、私たちはホッとして、今度は手際よく応じた。青年が差し出した袋に、チャオミエンと酢豚を入れていると、店主がやって来て、「ここには来るな!」と青年に言った。が、彼はさっきの青年よりはるかに気が強くて、店主が立て続けに「いますぐ出て行け」と言っても、残り物を全部もらうまでは動こうとはしなかった。空腹を抱えているのだから無理もないが、レストラン側からすれば、食べ物乞いがしょっちゅう入って来たらお客の入りが減るかもしれないから、やはり困るだろう。
前の晩、サンペドロスーラの空港からホテルまで乗ったバンの窓から、大通りの歩道にしゃがみ込んだり寝っころがったりしている若者たちをかなり見た。彼らはお腹がすけば、盗みもするだろうし、ひったくりもするだろう。夜といってもまだ8時前だったのに、大通りも中央広場も、彼ら以外にはだれの姿も見えなかった。ホテル・ナンキンが客室に通じる階段の入り口に厳重な鉄格子のドアに常時鍵をかけている事情がよくわかった。
が、ホームレスの青少年たちは、いま、大きな危険に晒されている。社会浄化を叫ぶ自警団にギャングと一緒くたにされて銃殺の標的になっているのだそうだ。ブラジルの都市で警察がホームレスの青少年たちを一斉に射殺したりする事件が何度かあったが、それと同じようなことがホンジュラスでも起きているのだ。
ギャングは確かに中米社会の深刻な問題なのだ。1990年代半ばまでホンジュラスにはギャングはほとんどいなかった。が、いまでは凶悪犯罪のトップである。なぜそうなったのか? それは1995年に、ロサンジェルスの若者ギャングのメンバーたちの多くが強制送還されたからだ。1980年代から急速に勢力を増したロサンジェルスの若者ギャングは、暴力も過激になって、縄張り争いの殺し合いも頻繁になっていった。それに手を焼いたアメリカ政府は、犯罪行為で逮捕したギャングメンバーを生国に強制送還したのだ。
送還といっても、彼らはもともとホンジュラスのギャングメンバーだったのではないし、彼らにとってホンジュラスは故郷でもない。彼らの中にはスペイン語すらろくろく話せない者も少なくない。彼らは内戦に荒れるグアテマラ、エルサルバドル,ニカラグアと、その右派反革命兵士団(コントラ)の根拠地とされたホンジュラスから逃げ出した親たちに連れられて、子どものときにアメリカに(その中でもロサンジェルスに集中して)渡ったのだ。そうして故国の文化からは切り離され、アメリカ社会の主流からは閉め出されて、拠り所となる心の支えを若者ギャングに見い出したのだった。
犯罪行為で逮捕された彼らは、自分の生まれた国とはいえ、外国のようなホンジュラスに放り込まれたのだ。親類にも地域にも受け入れられず、ホンジュラスで拠り所のない彼らはギャング仲間で結束し、所属ギャングを示す入れ墨をしてギャング活動を開始したのだ。こうしてロサンジェルスのギャングのいわば支部が結成されたのだった。
アメリカが1980年代にコントラに武器を次々と投入したおかげで、銃はホンジュラス社会の隅々にまで浸透しており、ギャング活動は加速的に凶暴化した。それに対処する術がないホンジュラス政府は、鉄腕をふるってニューヨークを清浄にしたと自負するジュリアーニ元ニューヨーク市長を招いて、ギャング対策に乗り出した。その結晶が2003年8月に議会を通過して俗に「反ギャング法」と呼ばれる刑法32条だ。この法律を盾にして、警察がギャングメンバーを、いやギャングメンバーとみなしただけでも銃殺するということが頻繁に起こるようになったのだ。
「反ギャング法」が成立してから、国中がもっと安全になったかというと、そんなことはない。政府の人権無視の暴力が広がっただけである。ギャングから足を洗っても、入れ墨があれば職には就けないし、命も危ない。そこで現在、レーザー療法で入れ墨を取り除くキャンペーンが促進されている。 (その写真は、http://www.mcc.org/gallery/04_01/でご覧ください。)
アメリカ政府はゴミを外に掃き出すように、ギャングというアメリカの産物を一斉に中米に輸出したわけだ。受け取る側にある社会への影響など全く考慮せずに。おかげでホンジュラスはラテンアメリカではコロンビアに次いで最も殺人率が高い危険な国になってしまった。銀行はもちろん、ごく普通のレストランや商店まで、銃を持ったガードマンを雇って自衛している。ホテル・ナンキンが鉄格子で自衛し、暗くなるとサンペドロスーラやテグシガルパの中央広場や大通りには人がいなくなってしまうのもそのためだ。旅行中に見た新聞やテレビのニュースでは、毎日殺人事件が報道されていた。
1995年以後もロサンジェルスのギャングはなくなっていないばかりか、アメリカ中の小さな町にまで広がっており、しかもアメリカ政府のおかげで、中米にまで広大なネットワークを持つに至ったのだ。これはまさに、ギャングのグローバリゼーションだ。
私たちのテーブルに食べ残しをもらいに来たホームレスの青少年がいつまでギャングの影響を受けずにいられるのか… 私たちのホンジュラス・リアリティツアーは、ホテルから出る前にこうして始まった。
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