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縁の下のバイオリン弾き
17 理想
2011年1月31日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 世界最古(?)のアノレクシアのイメージ、ガンダーラ美術の傑作「釈迦苦行像」ラホール美術館(パキスタン)。紀元2世紀。
理想

どうも理想ということばが日本語と英語では意味が違うのではないかとつねづね感じている。一般化は危険だから絶対にということはできないけれど、ある程度このことは言えるんじゃないかという気がする。

英語で理想といえばほとんどの場合到達できない目標をさす。到達できないからこそ「永遠の理想」なのである。「それは理想だよ」といったら「不可能だ」と言うのとおなじことだ。

目標に到達はできない事を知りながら、それでもあきらめず一歩一歩あゆみをすすめて少しでも目標に近づくように努力する、というのが西欧の「理想」ではないか。

なぜそうなのかということについては私に仮説がある。キリスト教徒にとって理想といったらむろんキリストだ。キリストはしかし、「人の子」であると同時に「神」である。神様だから人間がどんなに努力しても到達できるはずがない。けれどここであきらめてしまってはいけない。人間は「原罪」をかかえた罪深い存在で、自分で何も努力しなければ救われるはずがない。だから不可能と知りつつ少しでもキリストに近づくために営々と努力する、というのが人間としてのつとめ、ということになってしまった。一事が万事で、理想といえばこういうもの、とはじめから思い込んでいるのではないだろうか。

日本の理想にもそういう意味はもちろん存在するのだろうけれど、でももっとふつうなのは自分が到達できる範囲での最上のもの、という意味ではなかろうか。神社仏閣におまいりしても後生を願うより家族の健康や大学入学など現世のご利益(りやく)を求めることが多いわれわれだ。「ない袖は振れない」だの「背に腹はかえられない」だのという言い方もある。できる範囲でベストをつくす、ということで悪いはずはないじゃないか。

「理想は消防隊員になることです」というのは日本語として少しもおかしくない。消防隊員はたしかにだれにでもなれる、というものではないかもしれないが、がんばれば絶対不可能というものでもなかろう。「理想は27歳で結婚して子どもをふたり持つ事です」なら、できないほうがむしろおかしいのではないだろうか。

「理想ですか。うーん、まあ3LDKってとこかな…」とは言うけれど、まちがっても「敷地2千坪、総ひのきづくりの三階建て」なんてことは言わない。不可能だとわかりきっているからだ。

そういう日本的な目でみると、西欧の理想はあまりの高みにあって取りつくしまもないような気がすることがある。

たとえば古代ギリシャの彫刻は人体の美をつくしてあますところがない。日本人がハニワなんぞを作るより何百年も前に、ギリシャ人は輝くようなアポロ像や優美なヴィーナス像を作った。その観察力とビジョンは圧倒的だ。

ところがある時私は古代インド彫刻の展覧会を見てそれまでの考えを根本的に変えてしまう経験をした。いつごろのものだか忘れてしまったが、女神の彫刻があった。胸の大きい、腰のくびれた豊満な女の像である。これがインドで美しいとされている女性のイメージであろうことは想像できた。

腰布を巻いているのだが、きつく巻きしめてあるためにその上に出ている肉がほんのすこしだぶついている。それを忠実に写している。これは私には衝撃でしたね。彫刻の難易度からいえば、そんな描写はしないほうが簡単なのだ。それをわざわざ手間をかけてごくわずかの隆起を彫り上げている。ギリシャ人とは違った意味でじつによく人間を見ていると感心した。

その時私はギリシャ彫刻は理想なのだ、と気がついたのだ。ギリシャ彫刻で腹がだぶついている女神をつくったら見られた物ではあるまい。みな鋼鉄の筋肉をそなえているようだ。訓練に訓練を重ねたらああいうからだをつくることもまったく不可能ではないのかもしれない。また、古代のギリシャはああいう健康そのものの若者でいっぱいだったのかもしれない。私は知識がないのでなんともいえない。でも常識的に考えればギリシャ彫刻は人体の理想をあらわしている、とみるべきだろう。そこにはだぶついた肉、の余地はないのだ。けれども理想であるからには、つまり西欧の理想であるからには、ふつうの人間には到達できない完成された美だと考えていいように思われる。

単に「美しさ」ということならインド彫刻はギリシャ彫刻におよばないかもしれない。しかし、私はインド彫刻のほうに親しみを感じる。あの女神は人間がすきな神様なんだという気がする。こういう彫刻を作る人々とつきあったほうがやすらげる気がする。

なぜこんな事を書いているかというと、理想の危険性とでも呼ぶべきものを最近目の当りにしたからだ。

去年(2010年)の暮れ、イサベル・カロというフランス人のモデルの死が報じられた。彼女は28歳という若さだった。私は記事を読んでいたましい思いをおさえることができなかった。

イサベルはアノレクシアつまり拒食症の犠牲者だった。13歳のときから拒食症だったのだそうだ。一番ひどい時には体重がたったの25キロしかなかった。何度も死の危険に直面した。それでもこの症状を克服できなかった。ただ、拒食症の危険を世間に知らせるために、勇気のある行動をとった。イタリアであった反拒食症のキャンペーンのために、07年に自分のヌードを写真にとり、それにNo Anorexiaというキャプションをつけたポスターを作った。それをみると、人間こんなにやせることができるものか、と思う身体をしている。そのポスターはミラノの街頭に貼られたけれど、あまりにショッキングだったためにすぐに貼り出しを禁止されたという。このキャンペーンのために来日しているから、日本でも知られていたのかもしれないが、私はこの人の名前すら知らなかった。

彼女の死だけでも悲惨なのに年があけると今度はイサベルの母親が自殺した、というニュースが届いた。娘をアノレクシアに追いやり、死なせてしまったのは自分のせいだという自責の念に耐えられなかったのだという。悲劇というほかない。

摂食障害にはアノレクシアのほかにブリミア(過食症)というのがある。大量の食べ物をたべたあと、吐いたり、下剤をかけたりする行動で、これの一番有名な患者は故ダイアナ妃だ。

摂食障害は男にも女にも患者がいる。日本でも年ごとに患者が増えている。一種の依存症だから治療は簡単ではないし本人の意志の力だけで克服できるものではない。まわりの人のサポートがなにより大切だといわれる。しかし困難はあるものの決して治らない病気ではない。

この病気を蔓延させているものは疑いもなくメディアである。映画、テレビ、ファッションがすべて「やせることが美しい」という強迫観念を押し付けている。

これは「到達できないからこそ理想なのだ」という西欧風の考えが裏目にでたのだと私には感じられる。要するに理想が高すぎるのだ。摂食障害になる人は理想に対するはげしい欲求に責め立てられ、それが到達不可能であることを忘れてしまっているのではないか。
  
摂食障害は先進国の中流以上の階層に多いと言われている。早い話が西欧の病気なのだ。それが日本でも増えているということは日本がそれだけ西欧化している事をしめしていると考えられる。

もしそうならわれわれ日本人はこういうエベレストのてっぺんに立つような「理想」を追うべきではない。「到達できる範囲で最上のもの」という「われわれの理想」をめざさなければならないと思う。

もちろんこんな事を言っても、今現在摂食障害で苦しんでいる人々にとって何の慰めにもならない事は私にも分かっている。

しかし私は思うのだ。敷地2千坪ぐらいの屋敷はアメリカに珍しくない。なまじそんなものがあるからよけい競争がはげしくなる。それと同じようにやせた「美女」のイメージがはんらんするメディアの情報を鵜のみにするから自分自身との無限の競争が続くのだ。ギリシャの彫刻は映画俳優やファッション・モデルにとってかわられたけど、あるイメージがわれわれを追い立てる、という機能は大昔から変わっていないだろう。そのギリシャ彫刻に代わるインド彫刻をわれわれは見つけなくてはならないのだ、と。

30何年前、香港にいた頃に、ある女学校の校長先生が新聞の投書でなげいていた事を思い出す。そのころはやせていなければ美しくないという価値観はなかった(と思う)。「ツイッギー」(小枝)というマッチ棒みたいなモデルがいたけれど、その名前から察せられるように、彼女が有名だったのはそのやせ方が異常だと思われていたからだ。逆に、グラマーでなければ美女ではない、という風潮がさかんだった。校長先生はイギリス人の女性だったが、「デリケートな身体の線をもつ中国人の生徒がメディアにはんらんする欧米人の女性を見て、自分のからだを貧弱だと思い込み、劣等感をいだいてしまう。こういう考えをなんとかしなければなりません」と書いていた。当時香港は英国の植民地だったから、西欧の価値が絶対だった。校長先生はそれに抗議したのだった。

人の一生という比較的短い時間のうちにも美の基準は簡単に変わってしまう。それなのに今流行している観念の呪縛のなんと強い事か。

世界中がただひとつの美の基準で統一されてしまうのは一種のグローバル化だ。われわれはどのようなものであれ、グローバル化に対抗しなければならないと思う。そのもっとも簡単なやり方はローカルなものにかえることだ。たとえば家なら3LDKぐらいが理想であってちょうどいい。ハニワにはハニワの美しさがあるのだ。

アニメや漫画、Jポップが世界に進出するにつれて「かわいい」という日本のことばが国際的な市民権を得るようになった。「ビューティフル」でもなく、「キュート」でもない。これは価値の転換といっていいだろう。それがいいとか悪いとかいうのではない。価値が多様化すること、それが私の理想だ。できないことではないと思う。








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