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縁の下のバイオリン弾き
18 マイ・バレンタイン
2011年2月14日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ トーマス・ゲインズボロ(英)「アン・フォード嬢の肖像」
1760年
マイ・バレンタイン

今日はバレンタイン・デーだ。私はもう二十年以上、この日はカリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)でおこなわれる音楽の夕べに参加するのが習慣になっている。

この音楽の夕べは音楽学部の教授、ヤーノシュ・ネギシー先生が主催するもので、 ごく小ぶりの音楽会だ。

ネギシー先生は知る人ぞ知る現代音楽の大家である。アメリカに来る前はヨーロッパで活躍していたヴァイオリニストだ。出身はハンガリー。

ハンガリー人にはアジア系の血が入っているといわれる。そのためかほかのヨーロッパの国々とはちょっとちがった文化を持つ。たとえば、アメリカでこそヤーノシュ・ネギシーとよばれているけれど、ハンガリーでは日本と同じように苗字が名前より先に来るので、本来はネギシー・ヤーノシュといわなければならない。私はひそかに根岸矢之助と呼んでいる。

この根岸さんの得意とする最先端の音楽は私などには何がなんだかわからないおそろしいシロモノだ。けれど、毎学期に一度開かれるこの音楽の夕べでは彼は現代音楽をひかず、もっとわれわれの耳に入りやすい室内楽を演奏してくれる。学期に1回だから実は秋、冬、春と3回あるのだが、なんといってもこのバレンタイン・デーの音楽会が一番人気がある。

プログラムはバロックから近代までの室内楽がことなる楽器の組み合わせ、またはソロでひかれる。歌曲がはさまれることもある。演奏者は根岸さんと彼の学生、または今や名をなした元学生だ。同僚の教授が客演することもある。

またかならず奥さんのパイビッキ・ニクターさんが出演する。ニクターさんはフィンランド人である。美人でヴァイオリンの名手なんだからにくたらしい。

彼女は北欧で名声の確立したヴァイオリニスト兼ヴィオリスト(ヴィオラをひく人)だったのに、現代音楽を勉強したくてUCSDに留学した。そこで先生の根岸さんと恋におちたあげく結婚した、というお定まりともなんともいいようのない通俗的なお話なんだが、通俗的でないのは二人のヴァイオリンの腕である。この二人がヴァイオリンの2重奏をしたり、ヴァイオリンとヴィオラの掛け合いをしたりすると鳥肌がたつ。

根岸さんはユダヤ人なのだろう。父親はナチのために強制収容所に入れられてそこで死んだ。根岸さんは1938年生まれだから、まだこどもだったはずだ。4歳の時に親類からヴァイオリンをあたえられ、半年後に学校で演奏して(もう学校に行っていたのか?) プロになる事を決心したというから「せんだんは双葉よりかんばし」だ。

彼が育ったのは共産主義のハンガリーだったから音楽家として大成するには西側に出ることが必要だった。それでえらい苦労をしてまずドイツに行き、パリで演奏し、招かれてUCSDの教授になった。

根岸さんのコンサートの特徴はめったに聞けない音楽を演奏してくれることだ。お金は一応取るけれども安い。だから聴衆に媚びる事なく好きな音楽を演奏できる。そのため演奏曲目はめずらしいものばかりだ。私はこの音楽会によって室内楽の楽しさを教えられた。

ずいぶん以前のことだがジャン・マリー・ルクレールという18世紀のフランスの作曲家の曲が演奏された。もちろん聞いた事もない名前だ。その曲は大変魅力的だったので、私はすっかり感心し、レコード屋に行ってルクレールのCDをさがした。CDは一枚しかなく、演奏会での曲目とはちがっていたけれど、私はそれを買った。

その時わかったのは、18世紀の室内楽のCDはなんとも安い、ということだ。アメリカではたいてい10ドル以下だ。それで私はバロックの室内楽を買いあさった。有名な作曲家のものは買わない。名前を耳にするのがはじめて、という人の作品ばかりだ。

なじみのある高名な作曲家の作品は結局「聴いたことがある」という安心感にささえられた鑑賞になってしまう。サンディエゴにはサンディエゴ・シンフォニーというのがあって、こちらは高い入場料を取ってダウンタウンで演奏するけれど、その曲目というのがほとんどいつも決まりきった有名な作品ばかりだ。人気商売のかなしさ、聴衆の機嫌をそこねないように誰が聴いても納得できる無難な選択になってしまう。

そこへ行くと根岸さんは誰に遠慮もいらない。現代音楽の大家だけあって、古典を演奏する時も実験精神だけは旺盛らしい。聴くほうも真剣勝負だ。それが本当にいい曲なのかどうかは自分の耳に頼るほかない。名前も時代も流派も参考にはならない。

とはいっても、バロック音楽に限って言えば全体をおおう特徴がある。聴きくらべてみればいろいろ違いがあることがわかるけれど、たとえば音量が一定していること、リズムが単調なこと、しばしば通奏低音(全曲を通じて聞かれる低い音程の音)がつくこと、ピアノがなく音の小さなハープシコードが演奏されることなどが共通する要素だろう。だからこれらの音楽を聴いて血湧き肉踊る感覚を持つことはまずない。心が休まる音楽だ。もともとが貴族のお屋敷で演奏されたものだから、今でいえばBGMみたいなものだったのかもしれない。

この特徴が実は大変役に立った。どうしてかというと、一昨年の暮れに妻のリンダが腕の骨を折った。その時にCDでこの手の音楽を聞かせたからだ。

その年の夏、わがマンションをリモデルして新しいフローリングにした。ところが11月の末にこのフローリングですべって転んで、右腕の骨を肩の下のところでまっぷたつに折ってしまった。私は蒼くなって車でリンダを病院に運んだ。医者は手術をしてもいいが、したからといって以前のように回復するかどうかは保証しかねるという。リンダはそれなら手術はしない、と言った。

そうなるとスリングで腕を吊って自然治癒を待つばかりである。場所が場所だけにギプスもつけられない。鎮痛剤をもらって飲んでも痛みがとまるものではない。身動きもできずただ安静にしているばかりだ。家事一切の責任が私の肩にかかってきた。

腕の一本を折っただけで人間は何もできなくなるのだ、ということがはじめてわかった。まず着物を着ることができない。食事ができない。風呂に入れない。バランスがくずれるから助けがなければ歩くこともできない。料理・洗濯・掃除はもちろんできない。車が運転できない。両方の手で支える事ができないから本が読めない。メールも打てない。スリングの調整だって一人ではできない。

私は超特大のシャツやジャケットを買ってリンダに着せた。かぶせたと言ったほうがいい。三度三度の食事を作り、食べ物を一口大に切った。リンダはそれを左手で持ったはしで食べた。風呂の代わりにシャワーをあびさせて私が体を洗った。どこに行くにも手をとって支えた。

何より困ったのは睡眠である。医者は骨をくっつけるためにベッドではなく、座った形で寝ろと言う。そこで大きな安楽椅子を買った。それに座って寝るのだが慣れないから最初はとても眠れない。痛みもあるし、一晩中一睡もしないということがざらだ。

それで私はバロック音楽を聴かせることにした。小さな音量で聴かせると、なにしろ単調なリズムで押して行く音楽だから聴いているうちに退屈してきて眠気をもよおす。それでついに眠る事に成功した。室内楽さまさまである。

若者なら短期間で回復するけがでも年をとるとそうはいかなくなる。リンダは完全に回復するまでに一年かかった。でも腕の機能がほとんど元通りになったのは幸運だった。

毎晩ちがった音楽を聴かせることができたのも私のCDのコレクションがあったからだ。最初は安さにひかれて買ったのだったけれど、量が増えるにつれて愛着が増し、よく聴くようになった。聴けば聴くほどその美しさに打たれる。私とリンダはこのバレンタインの音楽会からチョコレートなんぞとはくらべものにならない大きな贈り物をもらった。すべて根岸さんのおかげだ。









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