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止揚 |
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2003年1月1日 |
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 | 中山 俊明 [なかやま としあき]
1946年4月23日生まれ。東京・大田区で育つが中2のとき、福岡県へ転校。70年春、九州大学を卒業後、共同通信に写真部員として入社。89年秋、異業種交流会「研究会インフォネット」を仲間とともに創設、世話人となる。91年春、共同通信を退社、株式会社インフォネットを設立。神奈川県・葉山町在住。 |
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▲ 波乱の時代に備え? ことしは妻とともに農作業にも精をだす。 |
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「ぐらぐらしますか」 ついたての向こうから声が聞こえてくる。 「抜くのは簡単なんですが…。なにしろこれ、最後の1本ですからねえ」 最後の1本、かあ…。 ここからは見えないが、寂しそうな老人の顔が想像できる。
今度は僕の番だ。 「お痛みはございませんでしたか」 この若い歯科医師の過剰敬語はいつも気になる。 「なんといいますか、これは加齢現象といいますか、お歳相応の症状で、まあ仕方がないといいますか、治療の方法がないといいますか…」。 「加齢」ねえ、うまい造語だ。これ「老化」と単刀直入に言わてしまったらけっこう傷つくだろうなあ。「老い」がじわじわとしのび寄ってくる。
じわじわで思いだしたが、最近「ゆでガエル」の逸話をあちこちで耳にする。米国から伝わった話のようだ。ある大学の授業で、教授が熱湯の煮えたぎったビーカーにカエルを入れたところ、カエルは大ジャンプしてビーカーの外へ飛び出し助かった。次に別のカエルを水のビーカーに入れじわじわと加熱したところ、温かさに油断したカエルはそのままつかり続け、とうとう湯だって死んでしまったとさーという現代版イソップ物語。
で、この「ゆでガエル」、いま苦境にある日本の経営者たちにもてはやされている。「諸君はぬるま湯に浸かっていないか。回りの厳しさに気づかないで安穏としていると、気づいたときはすでに遅し、我が社は倒産ということもあるのだぞ」。元気のない社員にハッパをかけるには、まさにうってつけの怖い話ではある。 だがどうだろう。「ゆでガエル」たちは、そんな脅し文句ごときで危機感をもつだろうか。たとえ、持ったところでただちに行動を起こすだろうか。ましてや、勇躍ビーカーを飛び出すカエルがいるだろうか。カエルにも個体差があるだろう。たった1度の温度変化で、迫る危険を感知するカエル、5度上がってもまったく動じないカエル。感度と能力と元気のあるカエルは、はたから言われなくてもビーカーを飛び出す。だが、大多数のカエルは何を言われようとつかり続ける。品は悪いが、カエルの面にションベンという諺もある。
はるか昔の学生時代、第2外国語で選択したドイツ語はほとんど憶えていないが、なぜかアウフヘーベン(AUF-HEBEN)という単語だけは頭の片隅に残っている。日本語では「止揚」と訳す。小さな矛盾が積もり積もって、あるときそれが一挙に顕在化する。ヘーゲルが哲学として体系化し、これをマルクスが経済理論に高めた(と記憶している)。マルクスは市場経済の諸矛盾が溜まりに溜まりきってはちきれそうになったとき、労働者が「革命」を起こして、政治体制をひっくり返すという理論を著書「資本論」のなかで展開した。「止まり」そしてあるとき爆発的に変化が起こり、「揚がる」。良い訳語ではある。皮肉にも「揚がって」できたはずの社会主義国家・ソ連はその後なくなってしまうのだが。
ぼんやり学生だった僕は、その「資本論」の講義を聴きつつ、頭のなかで冬の湖を想像していた。月明かりに照らされた、風のない夜の湖。気温がジワリジワリと下がっていく。湖面からは湯気があがっている。気温はセ氏零度を過ぎた、でも湖は凍らない。突然、鳥の羽ばたきがあたりの静けさを破る。その瞬間、ピチッと音をたてて湖面が凍る。絶対静寂のもとでは水は零度を過ぎても凍らない。凍るためには「きっかけ」「刺激」が必要なのだ。どこかで聴いたそんな話を思い出していた。そうか、たぶん「アウフヘーベン」とはそういうことなんだろう、とぼくは勝手に考えた。
じわじわと忍び寄る微妙な変化に弱いのは、なにもカエルだけではない。人間はたとえ変化に気がついても、「まだまだ大丈夫」と思い込みをきかせる分だけ始末が悪い。またはその変化に気がつかないフリをする。または過去のよき日を懐かしみ、変化を押し戻そうとする。
ここに一匹のカエルがいる。はるかかなたの美しい緑の森をみて、あっさりとビーカーを飛び出した。おかげで「ゆでガエル」にはならずにすんだが、ビーカーの外は予想を越えるうそ寒さ。このままだと「凍りガエル」になる可能性なきにしもあらず。だがコヤツ、若ガエルたちとぴょんぴょんと飛び跳ね、しかも「止揚」がそのうちやってくるさ、と信じて疑わない。
遠くの森ばかりを見て近くの木を見るのが不得意な、能天気ガエルの視線で、しばらくまわりを眺めてみよう。
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