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ホンジュラス(7)金鉱の陰で (上) |
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2006年4月23日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ 牛車がゆったりゆったり通っていくエルポルベニールの「中央通」 |
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▲ グラミス金鉱の遠景 |
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テグシガルパで1日半を過ごした後、シリア(Siria)盆地にあるエルポルベニール(El Porvenir)という小さな町へとマイクロバスで出発した。標高約1000mの首都からまず東に向かって下り、平らになったところで今度は北に向かう。 テグシガルパを出発してから2時間余り、あともうちょっとでエルポルベニールに着くという地点で、右手遠くに赤茶色の地肌を見せている低く連なる山並みの一部を指差して、引率者のサンドラさんが「あれがグラミス鉱山ですよ」と言った。意外な感じがした。鉱山といえば、高い山の脇に坑道の入り口があるのを漠然と想像していたからだが、グラミス鉱山は金の露天採掘場だった。だから、山はどんどん削られていくのだ。鉱山周辺の山は樹木が無精髭のようにちょぼちょぼとしか生えていないのが見える。
国道は鉱山に近づくことなく、そのまままっすぐ北上して間もなくエルポルベニールに着いた。といっても、すぐにそうとは気がつかなかった。ちゃんと地図に載っている「町」なのだが、舗装されていない中央通りの両側に小さなお店がぽつぽつあるきりで、どう見ても町らしくない。いや、中央通りという言い方は正しくない。国道から分かれた道路の両側に、住居や商店が自然発生的に並んだというだけのことだ。そこを2頭の牛が引く荷車がゆっくり通っていった。
それでもポルベニールには宿屋があった。(インターネットカフェもあるそうな。)コンクリートブロックの小さな二軒長屋をつないだような、いわばモーテルだ。しかもプール付き。(もっとも温水装置はなかったが。)部屋には扇風機とテレビがおいてあり、シャワーはお湯が出なかったけれど、清潔ではあった。でも一体、ポルベニールにはどんな人が来て、この宿屋に泊まるのだろう。この辺りに行楽地などありそうもなく、ビジネスで訪れても特別な産業もあるとは思えない。ごく普通の農業地帯なのだが、辺り一面乾燥していて、畑の生産性は低そうだ。
実はこの地域は農業生産で豊かな地域だったそうだ。ところが金の採掘が始まって以来、シリア盆地の地下水はどんどん金鉱に汲み上げられ、農業用水が足りなくなった。そればかりではない。金採掘は簡単に言うと、まず鉱石を砕き、それをシアン化物(シアン化ナトリウムsodium cyanide、またはシアン化カリウム=青酸カリpotassium cyanide)を含んだ水で溶かして金を摘出するのだそうだ。その過程に使う大量の水は地中に染み込まないように貯水場の底は密閉してあると金鉱会社は主張しているけれど、その実施は完全にするのは実際には不可能のようだ。しかも、鉱石には金以外のいろいろな重金属が含まれており、露天で鉱石を砕くので重金属の粉塵が辺り一面に広がっていく。金鉱周辺の山では樹木がどんどん枯れていくのはそのためだ。
私は思わず青い空を見上げた。ここにも目に見えない重金属の粉塵が飛び散っているかもしれない。宿屋の蛇口から出る水にもシアン化物が混じっているだろうか。そんな不安が頭をかすめた。でも、シリア盆地に暮らす人々は、健康と生活の糧が脅かされる不安を抱えて毎日を送っているのだ。たった1泊2日しか滞在しない我が身を心配した自分が恥ずかしくなった。実際に住民たちはどんな問題に直面しているのだろうか。それを学ぶためにここにやって来たのだった。
お昼の休憩後、私たちは再びマイクロバスに乗り込み、グラミス金鉱会社によって移動させられた部落へと向かった。金鉱に近づくにつれて山の斜面は松の木の数が少なくなっていく。金鉱正面入り口は、大きな鉄の門で閉ざされ、武装したガードマンが数人立っていた。銃を持ったガードマンを見るのにはもう慣れたけれど、複数いるのを見るとやはり心穏やかではない。その前を素通りしたが、ガードマンたちもこちらを見ている。
金鉱は途方もない広さだ。その近くまで崩した山のてっぺんを何台ものダンプカーが行ったり来たりして、砕いた鉱石を斜面に降ろしていく。斜面に沿って大きなパイプがいくつも横たわり、途中で水を吐き出している。斜面の下は黒っぽい茶色の濁った水が溜まり場だ。底をいくら密閉しても、水は次第に地下に染み通っていくだろうということは、素人目の私にもわかる。水と一緒に重金属やシアン化物が地中に染み通り、広がっていくのだ。
−続く−
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