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縁の下のバイオリン弾き
24 ドライ・ランチ
2011年5月15日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 西欧の陶器の模様として人気の高い『ブルー・ウィロウ(青い柳模様)」。
中国趣味に熱狂した18世紀のイギリスで作られたデザイン。

むかしサンフランシスコ近くのバークレー(有名な大学がある)で、インドのゴアからやってきたジョーという留学生とひと夏いっしょに暮らしたことがある。ゴアというのは何百年もポルトガルの植民地だったところで、そのせいでカトリックの信者が多い。彼も純粋のインド人だったがカトリックだったと思う。私などよりずっと上手に英語を話したが、でもときどきインド特有の、と思われる表現を使うのでそれがおもしろかった。

今でも記憶にのこっているのは「ドライ・ランチ」ということばだ。友達の留学生が見たいといっているから今日はレッドウッドの森を見物に行こう、などというときに「じゃ、ドライ・ランチを作ろう」とジョーがいうのである。

ドライ・ランチ?しかし彼がつくったものを見ると、それはごく普通のサンドイッチなのであった。どこといって特徴がない。特にドライであるようには見えなかった。

私は日本を出てはじめて、世界の大部分のところでは人間は自分たちの伝統料理を食べているのだ、ということに気がついた。日本のように世界中から雑多な料理を選んで和食と交互に食べている、というような人々は少数派なのだ。中国では中国料理をたべ、インドではインド料理を食べている。なんのふしぎなこともない。

そこで私はなるほどと思った。ふるさとゴアではジョーは三食カレーを食べているのにちがいない。たまにサンドイッチを作るとカレーにくらべて汁気が全然ないために「ドライ・ランチ」つまり「汁のない昼食」というのだろう。

私は自分の高校時代の事を思い出した。当時小田原に住んでいて、毎日東海道線にのって横浜まで通学していた。その東海道線の中であるとき老夫婦のとなりにすわった。夫婦は駅で買った弁当をひろげていたが、おばあさんのは普通の駅弁なのに、おじいさんはサンドイッチだった。そのハム・サンドイッチをおばあさんがしきりにさわっているのである。「おじいさん、これ固くないかねえ。パサパサじゃないかねえ」おじいさんはうなり声をあげておばあさんの手をはらいのけた。

私はとなりで見ていておかしかった。私が高校生の時のおじいさんなんだから、もう大昔の人で、もちろんサンドイッチなんか食べる人品ではなかった。でもどういうかげんか、好奇心にかられてふだん食べないサンドイッチを食べてみる気になったのだろう。味なんかどうでもよい。洋食を食べる、ということがおじいさんには心ときめく冒険だったのだ。それなのにおせっかいなばあさんが余計な気をまわして世話をやく。うなり声をあげたくなるのもわかる。

大学をでて香港に行った。香港はそのころアジアで随一の中国料理の天下だった。でも、表向きイギリスの植民地だったから、ある時私は友達になった女の子を有名なステーキ屋にさそった。すると彼女は出てきた立派なステーキを一口二口食べたかと思うと「汁がない」といってウスターソースをじゃぶじゃぶかけた。私はちょっとばつの悪い思いをした。若かったせいで私は救いがたい気どりやだった。西洋料理には必要な場合にはちゃんとソースがついてくるのでウスターソースやケチャップなどをやたらにかけてはならない、ということをどこかで聞きかじっていてそれが絶対の法則だと思っていた。この女の子にはそれは通じなかった。彼女は中国料理の感性と習慣をそのまま西洋料理に持ち込んで恥じなかった。感心するのは、「汁がない」とはっきり口にしたことである。日本人ならこういう場合、こっそりソースをかけて黙っているような気がする。

こういう例はいくらもある。共通していることはわれわれは食べ物に汁気がないと満足しない、ということだ。これはアメリカに来たアジア人がおしなべて当惑することなのである。

アメリカ人はどこに行っても食事どきに氷水をがぶがぶ飲むので有名だ。私は最初あきれたものである。でもよく考えてみるとあれはむしろ生理的な要求といっていいのではあるまいか。アメリカの食事を水を飲まないですませる事は不可能なのではないのだろうか。レストランではメニューにスープがのっているけれども、スープなんか注文するのはアメリカではぜいたくの沙汰である。ことさら健康が重視されるようになってからは、スープかサラダのどちらにいたしますか、というような時はサラダを選ぶ人がふえた。

肉料理に使う英語の最高のほめことばは「ジューシー」である。このことばは今や日本語になった。アメリカ人のまねをして日本人が使うようになったからだ。でも以前日本にはこのことばにあたる日本語はなかったから、開高健はベトナム戦争中のアメリカ人を書いたものの中でこれを「おつゆたっぷり」と訳している。なぜ日本語にこんなことばがなかったかといえば、日本の食事はそもそも「おつゆたっぷり」なのであって、ことさらそんな事をいう必要がなかったからだ。

サラリーマン、OLにもっとも人気がある昼食はそば、ラーメン、カレーだそうである。どれも「おつゆたっぷり」ではないか。それにくらべればサンドイッチはたしかに「ドライ・ランチ」だ。

ごはんは乾燥した米に水を加えて炊いたものだ。ちょうどパンには塩がはいっているようにごはんには水がはいっている。万能の醤油という調味料があって、日本人は何にでもこれをかけて食べる。どんなに安い定食にもみそ汁がついてくる。これだけみても日本の食事がいかに水分の多いものかわかるだろう。それに日本人の食べる魚というものが干物にしたって「ジューシー」なのである。

日本、中国、インドにかぎらない。コリア、フィリピン、タイ、ベトナム、カンボジアなど、アジアの食事はその気候が湿潤であるのとおなじく、どれも水分の多いものだ。そういう食事をとっている人間は体の出来もちがうのかもしれない。アメリカに来てぼそぼそ、ぱさぱさ、もそもそしたものを毎日食べていると体の底から「汁気が欲しい!」という衝動に突き動かされる。

中でも困るのは汁そばがないことだ。スパゲッティはマルコ・ポーロが中国からもたらしたという伝説があるが、かれは湯麺を輸入するのを忘れたらしい。アジアには日本のそば、うどん、中国のワンタンメン、ベトナムのフォーなど、これがなかったらその国の食文化は成立しない、という汁そばにこと欠かない。ちょっと小腹がすいたから、とか、時間に追われて、とかいう時にあんな便利なものはない。

われわれがいかに汁そばにこだわるか、という例として中国の「過橋麺」(かきょうめん)のことをのべよう。これは湯麺の一種なのだが私は一度も食べた事がない。でも現在の中国でも名物料理としてときどき話題になるから、少なくとも料理名としては伝統が受け継がれているようだ。それも地方によっていろいろバラエティーがあるらしく、ビーフンや春雨バージョンについて読んだことがある。

近代以前の中国には「科挙」という試験制度があった。これに合格すると朝廷の役人に採用され、金も権力も転がり込んでくる。比較的できの悪い者が合格して地方の長官になってさえ、子孫が三代にわたって栄耀栄華をほしいままにできた、というぐらいだから、もしトップになったりしたらその権勢はならぶものがない。

だからみな必死になって勉強する。中国には原則として身分制度がない。日本のようにさむらいでなければ国政を担当できない、というようなことがなかった。理論上はだれでもこの試験が受験でき、だれもがトップ合格を夢見ることができる。しかしもちろん試験は気が遠くなるほどむずかしい。しかも全国で試験をおこなうのだから受験生の数も想像をこえている。競争は激烈というもおろかだ。人類史上受験地獄はこの科挙制度が始まった時に発生した。

試験の内容はいかに徳義高く国をおさめることができるか、ということなのだが、これに答えるためには字が上手でなければならない、詩がつくれなければならない、やっかいなルールがある文章で意見を発表しなければならない、儒教の古典をことごとく暗記していなければならない、中国四千年の歴史をすみからすみまで知っていなければならない。

合格するためにはもうあらゆる手段をつくす。カンニングはいうまでもない。賄賂が横行する。それを防ぐために受験生はひとりずつ三日にわたり小部屋にかんづめにされ、答案は名前の上に紙をはりつけて読めないようにした上で審査官に提出される。

結局は上に書いたような才能がなければ合格はおぼつかないのだからやはり正攻法で勉強するほかに手はないのだ。そのため、四十、五十になってもまだあきらめないで受験する老書生がごまんといた。

あるところに科挙の受験勉強をしている若者がいた。家が富裕だったと見え、大きな池を作ってその中の島に受験勉強用の小屋をたててある。気が散らないようにここにこもって勉強しているのである。そこに行くためにはただ一本かけてある橋をわたる。美しい妻が夜食をつくって持って行くのだけれど、冬の寒空に食べ物は橋をわたっている間にさめてしまう。猛勉強している夫になんとか温かいものを、と思案した妻は鶏を一羽まるごとつぶしてスープをとり、それをもとに汁そばを作った。やった事のある人はご存知だと思うが、鶏にはおびただしい脂肪がある。普通はそれをとりのぞくのだけれど、そのままスープにしたりすれば、とけた脂肪がスープの全面をおおう量になる。油は水よりも沸点が高いからあつあつの汁そばをもっていけば橋をわたる道中でもスープはさめず、あたたかいままの夜食を食べさせることができるのだ。勉強のかいあって若者は科挙の試験でみごとトップをかちとった。妻は温良貞淑の見本となり、彼女の発明した汁そばは「過橋麺」と呼ばれて今に作られている。

金と立身出世主義のいやらしさが背景によこたわり、しかもそれを象徴するのが不健康きわまりない食べ物だ、という点で現代では異様に見える話かもしれない。

しかし妻の持って行った食べ物がもし「ドライ・ランチ」だったら受験生の身も心もなえはてて、とても科挙合格などできなかっただろうことだけは納得してもらえると思う。










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