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ホンジュラス(13)先住民の女性たち |
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2006年7月3日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。 |
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▲ 先住民人権運動の活動家たち。一番右がベルタさん。その隣の前列に立つおばさんがマリア・パスクアラさん。一番左がイタリア人ボランティアのアルバさん。 |
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▲ ラエスペランサの街を歩く先住民夫婦。 |
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▲ 政治犯が獄中で作った「帝国主義反対」のバッグを持ったシーラ・ジョンソンさん。 |
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ラエスペランサの牢獄の脇を通り抜け、少々寂しいたたずまいになった辺りに、ギナキリーナ(Guinakirina)という名前の民芸品店がある。ギナキリーナとは、ホンジュラス先住民人民組織委員会(Civiv Council of Popular and Indigenous Organizations of Honduras、スペイン語の略称は「コピン」=COPINH)とつながりを持つ地元女性団体の名前で、そのお店では先住民の手作り製品を売っている。
カラフルな手織りショールやポンチョや鉤針編みのバッグやナプキンなどが、たくさん壁に掛かっていたり棚に置いてある。バッグの多くは、政治的理由で投獄されたコピンのメンバーが作ったものだという。そのうちの1つで、「帝国主義反対」(NO AL IMPERIO)と編み込んであるバッグを買った。アメリカ帝国主義政策を分析する文献を出し続けているチャルマーズ・ジョンソン氏の配偶者で右腕でもあるシーラさんへのプレゼントにぴったりだからだ。
同時にそのお店は、先住民の人権擁護運動の活動家たちの集まる場でもある。私たちはそこでギナキリーナとコピンのメンバーの話を聞くことになっていた。リーダー格のベルタさんと年配のマリア・パスクアラさんと3人の男性がそれぞれ話してくれ、イタリア人人権運動活動家でボランティアのアルバさんも同席した。
私たちも含めて、皆それぞれ自己紹介したが、だれも肩書きなど言わなかった。そのことからも、コピンの組織は下から支える草の根運動を主体としているのが伺われた。この辺りでもオランチョのように森林伐採が問題となり、それを阻止する運動を展開したコピンの活動内容を3人の男性が説明して、またそれまでなかった学校や医療が先住民にも手が届くようになったという成果について話してくれた。が、ベルタさんがギナキリーナだけでなくコピンでもリーダー格なのは明らかだった。とにかく勇気と信念に溢れていて大変に貫禄があるのだ。正規の教育も受けていることだろう。
ベルタさんの強い信念は、母親譲りだそうだ。ベルタさんのお母さんは看護婦兼助産婦として先住民の村々へ出かけ、先住民女性を助けて回ったという。当時はそんなことをする人は他には誰一人としていなかったので、政府から怪しまれ、脅迫を何度も受けたそうだ。そんな母親の仕事ぶりを見ながら、また母親と一緒に先住民の村へも出かけながら育ったベルタさんだから、先住民の人権擁護に尽くすために生きるのは自然のことなのだろう。特に先住民女性は、先住民としての迫害のみならず、女性として家庭内暴力の問題にも直面したりで、二重三重の重荷を背負っているのだとベルタさんは言った。ベルタさんはどう見ても純粋の先住民ではなく、メスティーソに見える。それでも自分は先住民だという認識で生きているのだ。
ボリビアやペルーやグアテマラのように先住民が多い国はもちろんのこと、メキシコや果てはアメリカでも先住民はいまだに自分たち独自の言葉を失わずに持っているのに対して、ホンジュラスの先住民は自らの言葉を失ってしまった。それとともに、自分たちの環境に関する知識も消えてしまったという。それをなんとか取り戻そうという努力がなされ始めた。(「ホンジュラス(6)原則に沿って」で紹介したアルメンダーレス氏がその運動を指導している。)マリア・パスクアラさんはそれにかかわっているという。
マリア・パスクアラさんはベルタさんとは対照的だった。ベルタさんの隣に座ったその姿は、小さいばかりかあまりにも素朴で、外国からの訪問客の前にひっぱりだすのは気の毒な感じがするくらいだった。ところが、いったん口を開くと、マリアさんは実に雄弁なのだ。自分たちの土地を何世代と続いて耕して来た先住民でも土地所有権を登録したことがなかったので、権力者たちに土地から追い出されて所有権を剥奪されるという危機に直面してきたという。そのことでイギリス人ボランティアから、個人個人ではなくコミュニティ全体のものとして土地所有登録をするように助言を受け、それを阻もうという権力者たちや政府の圧力にもめげず、マリア・パスクアラさんは他の22の村の代表女性たちと一緒に生まれて初めて首都へ出て行き、土地登録を決行したのだそうだ。
そのとき、マリア・パスクアラさんたちは政府に、木材会社を自分たちの地域から閉め出すことと、住民の声が反映されるように自分たちの地域に行政組織を確立することを要求したのだそうだ。当時は村から町に出るにも道がなく、女性たちは子どもをおぶって3日も歩いて町に来たと、マリア・パスクアラさんは淡々と語った。それから町からバスに乗って首都に辿り着いたのだ。いまは町と村をつなげる道路ができ、町に出るのがもっと簡単になったそうだ。
首都に出かけて行って政府に要求を出すということを、それまでテグシガルパなどには1度も行ったことのなかったマリア・パスクアラさんを始めとする女性たちばかりがやったのはどうしてなのだろう。先住民はもともと女性が主導権を持っているのだろうか、と私は聞かずにはいられなかった。 「あのときは夫は政府の別の機関へ行っていて、テグシガルパには行けなかったんです」とマリア・パスクアラさんはあっけらかんと答えた。「それと、女たちばかりだと警察や警備員も殴りにくいだろうから、かえって安全かもしれないということで、みんなで行ったんです」 その説明に私は思わずニヤリとしたくなったが、マリア・パスクアラさんは全く表情を変えなかった。でも、生まれて始めて行った大きな都市で、国の権力者を相手に座り込みをし、要求を出したときは、やはり怖かっただろうと私は想像したのだが、「怖かったでしょう?」とは聞けなかった。
説明会が終わってから、全員にギナキリーナのカラフルな壁の前に立ってもらい、写真を撮った。そしてマリア・パスクアラさんに、「わざわざ出かけて来て貴重なお話をしてくださってありがとう」とつたないスペイン語でお礼を言うと、彼女は笑顔を見せて両手で私の手を握り、「遠い外国から来てくれてありがとう」と言った。その手は意外に小さくて柔らかく、暖かかった。彼女の足が小さな体格の割には大きくて、裸足なので冷たくて固そうなのとは対照的だ。
解散となったときには外は真っ暗だった。標高が高いので、日が暮れると急に冷え込む。ラエスペランサ/インティブカーはホンジュラスで一番涼しい県庁所在地だと観光案内に書いてあったが、夜は涼しいどころか、寒くなる。マリア・パスクアラさんは冷たい石畳も裸足で踏んで、帰って行った。彼女は泣き言をこぼしたことなど多分1度もないだろう。彼女の底力は、何百年と静かに抵抗して来た先住民の歴史から生まれたものだろうか。マリア・パスクアラさんの姿から、ベルタさんが自分も先住民だという意識で誇りを持って生き抜いている理由が、僅かながらわかるような気がした。
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