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47 イケーム (Yquem)
2006年9月20日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。






















イケーム (Yquem)


ワインにさして興味がない方からは「イケームで何ですか?」と聞かれそうですが、たいていのワイン好きなら、胸騒ぎがする名前です。シャトー・ディケーム (Chateau d’Yquem)、 私見ですが、世界最高の貴腐ワインです。

貴腐 (noble rot = pourriture noble = edelfaule) ワインは、ワインの世界でも、たいへん独特なポジションを占めているグループです。糖分の高い甘口ワインですので、メインディッシュと合わせるものではありませんが、前菜のフォアグラとは最高の相性だったり、あるいはまた高級なデザートワインとして、世界中で珍重されています。もちろん白ワインです。赤の貴腐はありません。

ノーブルに、気高く腐るってどんなこと?と思われて当然です。実はこれ、ある種のカビのしわざなのです。白ワイン用の果皮が厚いタイプの葡萄にボトリティス・シネリア (Botrytis cinerea) というカビが発生すると、果皮が薄くなって、果実に含まれている水分が蒸発してしまうのです。そしてその結果、果実中の糖分が凝縮されるとともに、カビによりグリセリンなども作られ、果実全体に特別な芳香がつきます。これを貴腐と言います。

でもこれが発生するためには、極めて特殊な気象条件が必要です。ですから、世界中でも本当に限られた地域でしか生産されません。上の画像のシャトー・ディケームは、ボルドーから約40km ほどガロンヌ川沿いに南にさかのぼった、ソーテルヌ地区 (Sauternes) で生産されている最高級の貴腐ワインです。気候と土壌の他に地形によって朝霧が発生しやすいということが、その条件のひとつなのです。葡萄収穫期前に朝霧の発生と午後の強い陽射しが必要となると、そうどこでも生産できないはずですね。

ちなみに水分がとんでしまっているわけですから、1房の葡萄からとれるワインの量は驚くほど少量で、1本の木からグラス一杯がせいぜいだとのことです。値段が高いはずです。

一般的に言うと、白ワインはあまり長期間の熟成は必要でなく、赤ワインの一部のみが長期熟成に向いています。ですからオークションなどに登場するヴィンテージ・ワインは、大半が赤なのですが、この貴腐ワインだけは例外なのです。しかも、イケームになると、例外中の例外で、極めて長い期間の保存が可能です。現に上の画像の21本のシャトー・ディケームのうち、16本までが19世紀のものなのです。1864年から1900年のものですから、日本の幕末から明治30年頃までに生産されたものです。上段にあるものほど年代が古いのですが、ワインの色がだんだん濃くなっていく様子がご覧いただけますか? これはかつてクリスティーズのオークション(ロンドン)に出品されたものです。

もちろんこの年代のものになりますと、コルクはたいてい傷んでしまっておりますので、リコルク (re-cork) と言って、栓を作り直してもらいます。これもそのワインを生産したシャトーへ戻してやってもらうのが正式な方法なのだそうです。そしていつ、リコルクしたのかも、きちんと刻印されます。

値段の高騰のせいで最近は買っていないのですが、モンテカルロ(モナコ)のオテル・ド・パリというホテルのすぐ横に、選りすぐりのワインだけを扱っている酒屋さんがあります。そこには、そのお店の顧問みたいな立場で、ワインのあれこれを教えてくれるおじさん(おじいさんに近い)がおりました。

遊びだけで行ったわけではないのですが、実は私は仕事もあってモナコにはかなりの回数出かけているのですが、初回に行った時にこのおじさんと出会い、以来、行くたびに必ずそこに出かけて行って、ワインの蘊蓄を聞きました。これまで何度か書き込ませていただいたワインに関するあれこれの一部は、そのおじさんに教えてもらったことでした。

そのおじさんによると、元のシャトーへ戻してリコルクしてもらう場合、ワインそのものの劣化がひどいと、シャトーの名前にかかわるということで、ビンごと没収されてしまい、返してもらえないのだそうで、リスクがある、とのことでした。そして没収の場合は、補償金もなし、まったくのとられ損で、そのお店の場合も、これまでにシャトー・ディケームを2本没収されたと言っておりました。本当でしょうか? 私もさすがにリコルクするほどの古酒は持っておりませんので、事実は分かりませんが、あのおじさんのような販売業者ならいざ知らず、個人のコレクターの場合はこんなことはないとは思いますが、どんなものでしょうか。 まあシャトーでリコルクされた、ということはオークションで高い評価を得ますので、そうなのかもしれません。

ともかく、赤のグラン・ヴァン (Grand Wine) でも100年間の保存に耐えるものは、そうそうありませんが、シャトー・ディケームの場合は、そんなことはいとも簡単なことで、むしろ100年くらいたつと、濃い琥珀色になり、絶妙な味と香りになるのだそうです。(あくまでも書物からの知識です。私もまだ19世紀のワインは飲んだことはありません。)

ちなみに、上の画像の最上段から2段目の左側のビンは、1867年、明治維新の年のものです。レベルは、upper-shoulder エスティメイトは 3500ポンド (70万円程度)でした。ちなみに、この21本は、セットとしてではなく、個別販売もしておりました。21本全部のエスティメイト合計は、900万円くらいでした。誰が買ったのでしょうね。

最後に味と香りのことについてふれてみます。さすがに私もイケームは、それほど経験しておりませんが、人工的な甘みと異なり、なんとも言えないまろやかさ、酸味、芳香があります。不思議なことに、あのフォアグラとピッタリの相性で、いけちゃいます。フォアグラの名産地であるアルザスのストラスブール産のフレッシュ・フォアグラとイケームを楽しんだ時は、まさに至福の時でした!

ついでにその時のことを思い出しましたが、ワインの知識や価格などにはまったく関心がない妻は、基本的に赤ワイン派で、白ワインはほとんど飲まないのですが、この時だけは、「あら、この白ワインなら好きになりそう。」と言ってのけたものです。注文時のワインリストの値段のことが頭のどこかに重く引っかかっていた私としては、なんと答えていいのか、ひたすら苦笑いというか、泣き笑いというか、そんな気持になったものです。

もうひとつ余談ですが、帝政ロシア時代には、イケームの最大の顧客はロシア人でした。あの甘口ワインが大好きだったのです、帝政ロシアの支配者達は。飢餓に苦しむ農奴や労働者達を横目に見ながら、こんなワインを飲んで、ド派手な宴を繰り広げていたのです。ですから、1917年のロシア革命後、2つの事象が発生しました。

その1: 膨大なシャトー・ディケームのコレクションがロシア各地に取り残されました。逃げ出す時に持っていく対象としては、重くて無理だったのでしょう。こうしたワインがその後どうなったか、正確に知っている人はいないと思いますが、多分、しばらくして新たに発生した新特権階級(ノーメンクラトゥーラ)が楽しんでしまったのではないでしょうか? もっとも1917年からまだ100年は経っていませんから、幸運にもどこかのセラーに保存されていれば、今でも十分に楽しめるどころか、たいへんな銘酒になっていると思います。100本も見つけたら、すごい金額になるでしょうね。

その2: シャトー・ディケームは、最大の顧客を突然失いました。「突然」という意味は、帝政の本当の末期、第一次世界大戦が始まってからも、実はロシアにおけるイケームの需要は衰えなかったのです。第一次大戦が始まると、ロシアの軍産複合体の中に、たいへん羽振りのよい戦争成金達が大勢輩出しました。何かの本で読んだことがありますが、戦争中にペテルスブルグで開催された宴会の数たるや、平時を上回るものであったとのことです。戦争と飢餓に苦しんでいた圧倒的多数の人々を尻目によくもやってくれたものですね。ともかく、シャトー・ディケームは、新たな需要の開発・喚起に必死の努力をしたということです。

長い歴史の中には、いろいろありましたが、やはり特筆すべきワインだと思います、シャトー・ディケームは。


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